幻想具現・鏡花水月

幻想具現・鏡花水月


 幽鬼の黒き手刃は、柔らかな肉を切り裂くに能わず、ただ廃ビルの屋上に罅を刻むに留まった。

「………?」

 捕えていた筈の少年…凪は視界から消え去った。

 …毒に蝕まれ意識がないのに?

 再補足せんと幽鬼が顔を上げて─────迫る一刀に気づいた頃には、その刃は不可避の領域に到達していた。

 真っ向から打ち合おうと構えた手刃は、信乃の刀と火花を散らすことなく…まるで、水に溶けたかのように霧散した。

 

「…成程。私のような化生を祓う─────それこそがその宝具(かたな)の真価である、と………」

 後方へと距離をとり、腕を再生しつつ幽鬼が独りごちる。

 チラリ、と一瞬だけ犬に背負われる少年に視線を送る。

「…貴女とあの獣で一騎のサーヴァント、という事ですね…まさかあの状況から少年を掬い取る敏捷性は予想外でした」

 信乃は、幽鬼の言葉に何も返さない。ただ静かに刀を構えて佇むのみだ。

「ですが───────逃げ切るには少しばかり相手が悪かったですね」

 幽鬼の人差し指先から一本、白く、細く、そして靭やかな糸が伸びる。

「私に捕らえられたその刻から、既に貴女達は蜘蛛の糸に搦め捕られたのですよ」

「なっ……!?」

 信乃が、何かに気づいたように周囲を見渡す。 廃ビルの屋上には、いつの間にか白い糸が張り巡らされていたのだ。

「いつの間に…!」

「貴女が来たその瞬間、気付かれぬように。この白き牢獄からは誰も彼も逃れられはしません。 この糸が、貴女達の四肢をもぎ取りその首を手折る……その時までね」

 幽鬼は嗤い、そして。

 その美しい肢体を、禍々しく歪ませる。

 顔は無貌へ。

 腕は鎌へ。

 胴は蟲へ。

 足は八つへ。

 その悍ましき姿は、まさしく妖と呼ぶに相応しく。

「カ…………ァ、ア………ッ!」

 歪なる妖気、怨嗟の呻き声がビルの谷間に木霊する。 その悍ましき姿は、正しく。

「蜘蛛、か……!」

 信乃の震え声は、天地を揺るがす程の絶叫に掻き消される。─────正しくは、叫声ではなく産声に。

 白き牢獄の獄卒に瞳は無く、されど確かに、信乃を捉えていた。

 生を刈り取らんと振り上げられた鎌腕は、未だ巨犬に背負われ眠りに耽る凪へと向けられていた。

「しまっ…!」

 信乃は刃との間に割り込もうと刀を構えて走りだすも、その身体は何か粘り気のあるものに絡め取られ足が止まる。

 そこで眺めていろ、と言外に語る幽鬼。

「そうは、いかないってぇ……のっ!!」

 絡みついた粘り気のある糸を刀で切り払いながら信乃が叫ぶも、その刃は間に合わない。幽鬼は嗤う。そしてそのまま鎌腕を振り上げ─────────凪の首へと振り落とす。

「とどけッ……!」

 信乃の刃が閃くも、それは空を切るのみ。だが、それで良かったのだ。

『……驟雨』

 世界が、冷たく透き通る。

 或いは、信乃の小宇宙が凍ったのか。

 どちらにせよ、その結果に変わりはなく。

 冷気は10メートルを超える長き刀身と成り、幽鬼の腕を切り飛ばした。

「八房殿、マスターを此方に!共に片をつけましょう!」

 幽鬼が腕を再生している隙を突き、八房と呼ばれた巨犬は即座に幽鬼の間合いから離脱し、信乃の側へと降り立つ。

 信乃は優しく凪を地面へと降ろし、八房と共に幽鬼を見据える。

「さて、八房殿。お背中お借りしても?」

 信乃の頼みに、八房はわかったと言わんばかりに小さく鳴く。

「感謝致します、八房殿」

 信乃は八房の背へと跨り、そして。

「さぁ──────往きましょう」

 凍てつく冷気を纏い、"ライダー"は駆ける。

「八房殿!」

 信乃の呼びかけに応え、八房は駆ける。

剣士と巨犬。二身にして一騎の英霊は、白き牢獄に座する幽鬼の周囲を疾風のように走り廻る。

 刀身から溢るる極低温の水飛沫が廃ビルの屋上を覆う蜘蛛の糸に触れ、その全てを凍てつかせゆく。

 八房の軌跡を追うように地面は凍てつき、幽鬼には追いきれぬ程に加速したその白刃は、ただ一閃を以てして糸を断ち、白き檻は霙となって崩れ落ちる。

 顔には出さずとも焦りを浮かべる幽鬼は鎌腕を振り回すも、八房からすればソレは余りにも愚鈍であった。

 信乃と八房は容易く避け、今度はその鎌腕を凍てつかせ、その勢いのまま駆け上がる。

「─────悪を討ち、化生を断ち、妖を祓うは我が宝刀、我らが一念」


 ────其に至るは、ただ一心。


「水鏡にて煌めくは、常闇割いて路ぞ照らす月光なり────────!」


 ────数多の一心に、夢想の刀は打たれ。


『玉散、抜刀』


 瞳は無くとも、幽鬼は視た。

 勧善懲悪の一念により産まれた、白き華を。


『─────鏡花水月・祓魔村雨』

 清廉なる光を纏いし白刃は、月輪をも眩ます煌めきを放ち。

 醜悪なる妖の巨体を文字通り打ち砕き、そして。

「────────────ァ」

 幽鬼の断末魔が響く事すら許さぬままに。

  黒き牡丹は、地に墜つる事なく微塵に散って、消え去った。

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