幸運な男

幸運な男


 彼にとって、その日は幸運な一日だった。有休を消化するため、平日に何をするでもなく休み。普段は出勤で見られない朝の星占いも一位、俺は幸せだなあと思いつつ、徒歩圏内のコンビニで一日分の食料や漫画雑誌を買った帰り道である。

 路地裏に白髪の男が座り込んでいた。

 この町でホームレスは見かけない。しかも男は靴さえ履いておらず、服もどうやら部屋着だ。かさついた唇が何かぼそぼそと続けている。

 路上生活の装いでないと判断すれば、次に徘徊老人という言葉が次に浮かんだ。けれどそれも違和感がある。髪こそ真っ白だが、男自身はそんな歳には見えない。

 なんとなく男から目を逸らしたくて上を見た。

 すぐに後悔した。

 彼が視線を向けた上、そこにはビルがあったのだが、屋上にはさらにおかしなものがいたのだ。

 猫を二足歩行にし、尻尾をなくし、体毛を金属の鱗と棘に変えればこんなふうになるだろうか。ゲームやアニメに出てくる、人のようで人ならざるクリーチャー。そんな化け物が屋上に佇んでいる。

 彼はもう白髪の男から目を背けて、レジ袋の中のコーラが泡立つのも厭わず逃げ出した。

 足早に角を曲がったとき、そこには元あっただろう端正さを不健康で塗りつぶした中年がいて、彼へ声をかけた。

「……白髪の行き倒れを見ていないか」

 中年は慣れた口調でそう言って、ジャケットの胸ポケットに手をやり、舌打ちをした。禁煙を試みつつ煙草へ手を伸ばしてしまい、そこに無いことを思い出す。上司が何度もやるのを見た動作だ。

 彼の口は必死に、そこの路地裏にいたかもしれない、という情報を伝えた。俺、コンビニ行った帰りで、何もしてません。本当に見かけただけで。言い訳を過剰なほど続ける彼へもういい、運が良かったなァ、と呟いて、中年は消えた。

 あの男を迎えにくる者がいた。よかったじゃないか。不審死が地元のニュースになる事態は避けられたんだ。あの男は運が良かったんだなあ。そう言い聞かせて、アパートの階段がやっと見えてきたとき、今度は後ろから声をかけられた。

「赤いパーカーの男の子を見ていないかネ」

 品の良いスーツを纏った紳士へ、見てません、と叫んで逃げ出した。変な化け物は見ましたけど、と言いそうになって、これ以上関わりたくないと口を塞いだ。

「そうか。すまないね、急に話しかけて。しかし君は運がいいよ!」

 去り際の紳士の言葉が不自然なことに気づいたのは、自室へ飛び込み鍵をかけてから。

 運がいい? ほんのちょっと外出しただけで、立て続けに恐ろしいものを見て、変な奴らに声をかけられたのに、運がいいだって?

 俺のどこが幸運なのか、強いて言うなら心の支えになってくれたちょっとお高い缶ビールを無事持って帰れたことくらいだ。

 彼の休日は、そのまま何事もなく終わった。


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