幸福な子どもたち

幸福な子どもたち


「〈死の外科医〉トラファルガー・ローに間違いないでしょうか」

 真っ白な雪が舞い降りてくるような、風変わりな静けさに満ちた声だった。

「……革命軍幹部がおれになんの用だ」

「革命軍としてではなく一人の人間としてあなたに話しかけているのです」

 どうかお時間をくださいませ。

 そう言って丁重に頭を下げた女を、ローはじっと見つめた。

 恐らくは十代後半から二十代前半の若者。背丈は170もない。やや痩せぎすなきらいがあるが標準的な体型の範囲だろう。後頭部で纏められた白い髪が印象的だ。ゴーグルを着用しているせいで目元は見えないが、どことなく気品のようなものを感じさせる。──悪魔の実の能力を有しているかは不明。ただし、あの混戦を五体満足でくぐり抜けられる程度の実力はあり、新世界基準でも見劣りしないだけの覇気を身につけている可能性が高い。

 敵意がない方がやりにくいのだとローは内心ため息を吐いた。いっそ銃の一つや二つ突きつけてくれたら楽だったというのに。鬼哭の鞘を握り締めたまま気怠げに口を開く。

「おれは用なんかねェ」

「ええ、知っておりますとも」

 女は白い雪を思わせる声で応えた。やはり奇妙な静けさがある。濁りが一切ないせいだろうか。

「それでも他の誰でもないあなたと言葉を交えたいのです」

 変わった女だ。その言動も、纏う空気も、なにもかも。世界政府と真っ向から対立している革命軍にしては血の匂いがしなさすぎるし、ただの市民として見るには背筋が真っ直ぐ伸びすぎている。

「わたしはわたしのままあなたに向き合いたい」

 静謐な響きの奥底には一筋の熱があった。真摯さと呼ばれる熱が。

 思わずローは眉根を寄せる。端的に言って不可解だった。女と敵対する理由はない。同時に、これほどまでの熱量を向けられる理由もない。密かに警戒を強める。離脱という選択肢をも視野に入れた。なにせドレスローザには海軍も駐留しているのだ。大将含めた勢力がいつ動き出すかも読めない中で挙動のおかしい女のためだけに時間を割く気にはなれなかった。ここは手早く撤退するに限るだろう。

 悪いな、とローが右手を宙に翳した瞬間、女は後頭部のリボンに手をかけた。微かな布ズレの音がして固められた髪が崩れる。三つ編みが解け、柔らかな毛先が空気を孕んだ。

 ──あ。

 強烈な既視感にドクンと心臓が跳ねる。全身が凍りついたように動かなくなる。固まったはずの思考が告げたのは“既知”の一点だった。

 白。

 白。

 白。

 かつて存在した夢のような土地。絵本にもなった幸福の国。人々の幻想をそのまま形にしたどこまでもうつくしい世界。──白い町の、白い姫君。

 柔らかな、けれど逃れようのない力をもって遠い日の記憶がこじ開けられる。思い出の中で佇む少女の瞳と、ゴーグルの下から現れた瞳がピタリと重なった。透徹した眼差しが稲妻のように心臓を貫く。

「お久しぶりでございます、ロー様」

 尤もあなたはわたしなどと顔を合わせるのも抵抗があったかもしれませんが。

 女は筋書きをなぞる仕草で言葉を紡いだ。事実、あらかじめ決められていたのだろう。いつかこういう日がくることをずっと前から理解していたのだ。

 背に流れる白い髪と湖よりも透き通った瞳を、ローはよく知っていた。

「……生きてた、のか」

「ええ、このように」

 細い指先がそこにはないドレスの端を摘み、片足を引き下げながら小さく膝を曲げた。フレバンスの挨拶だった。

「嫌というほどご存知でしょうが、改めて名乗りましょう。わたしはかつてプリンセス・オブ・フレバンスと呼ばれた者にして王室の血を受け継ぐ最後の人間になります」

 その一言で女の両親が──国王夫妻が亡くなっていることを悟った。逃げたのではなかったのか、という真っ当な疑問は、目の前にいる女が革命軍である事実に収斂される。

 動揺ひた走る男から視線を逸らさないまま女は言葉を重ねていった。その貴族然とした態度があまりにも懐かしく、あまりにも痛ましく、奥歯が胃液に濡れる。

「わたしがドレスローザを訪れたのは闇を暴くためですが、わたしが今ここいるのはあなたに──いいえ、徹頭徹尾わたしのためですね」

 一瞬だけ瞳に差した色は嫌悪だった。それも自己嫌悪と呼ばれる類の。

 感情の意味を尋ねる暇も与えず、女はその場に膝をつく。──ふと、ローは彼女と初めて出会ったときのことを思い出した。いかにも王女らしく微笑みながらも緊張でいっぱいいっぱいだったあの子どもを。よろしくお願いいたしますと差し伸べられた手が小刻みに震えていたことを今でも覚えている。

 それと同じ手が汚れることも厭わず地面につけられていた。指先まで丁寧に揃える所作はあの頃のままだった。

「許されたいわけではないのです。わたし共の罪が雪がれることは未来永劫ありません。……けれど今日という日まで生き延びてくれたあなたに筋を通さないのもおかしな話でしょう」

 白い声が雪のようにしんしんと降り積もる。

「フレバンス王家を代表して深く深くお詫び申し上げます」

 女は額を地面に押しつけた。じゃり、と砂の擦れる音が鼓膜に刺さる。

「誠に申し訳ございませんでした……!」

 声が赤く染まった。音のひとつひとつに血が滴っているのだ。それは女の後悔と謝意に他ならない。──血反吐を吐くように捻り出された謝罪だった。悔恨の念が痩身を蝕んでいるのがひしひしと伝わる。

 そうして永遠にも思える時間が流れた。

「……その謝罪、確かに受け取った」

 先に口を開いたのはローだ。

「だから、もういい」

「……」

「いいから顔を上げろ。──姫様」

 比喩なしに女の呼吸が止まる。それはもう二度と耳にすることはないはずの敬称だった。少なくとも捨ておいた民から聞いていい言葉ではなかった。

 勢いよく顔を上げる。ローの眼差しに憎悪は欠片もなく、どうして、と声にならない声が女の唇からこぼれた。

 皮肉ならわかるのだ。民を捨て、土地を捨て、のうのうと生きるだけでは飽き足らず、血だけは捨てずに王族を名乗る滑稽さを軽蔑されるなら理解できた。どう考えてもそれが当然だろう。男には首を刎ねる権利すらある。望むなら望まれるまま四肢を寸刻みにされたってよかったのだ。なのに男の瞳は憎しみに染まることも怒りに燃えることもなかった。

「どうして」

 ただの少女じみた声に、ローは目を眇める。──迷子の子どもだってもう少しマシな声を出すぞ。そう揶揄するには互いに傷がありすぎた。幸福な町の幸福な子どもたちの成れ果てが海賊と革命軍なんて笑い話にもならない。

「ロー様、わたし、」

「──お前は」と告げる声は自分でも呆れるほど穏やかだった。そう、まるでただの兄のような。

「お前はフレバンスの王族として頭を下げたんだ。なら謝罪を受け取るおれが市民面してもおかしくねェだろ」

 女は呆然と男を見上げた。だってわかってしまった。

 ローは王女の覚悟に報いるためだけに今一度フレバンスの民に戻ってくれたのだ。

 そうしなければならない理由なんてなかったのに。謝罪を受け取る必要も敬称を用いる必要もなかったのに。

「……ロー様……」

 彼はただただ優しかった。昔からずっとそうだった。時には兄のように見守り、時には友のように側にいてくれた優しい人。──なにも知らない少女だった頃、あの国の全てを愛していた。王位継承者として気を張る中で、あの兄妹の存在は数少ない癒しだった。

 海賊になってもその優しさを捨てていなかったことがとても嬉しくて嬉しくて──どうしようもなく切なかった。改めて王家の罪深さを実感する。女にとってローは人の形をした罪の象徴だった。──希望でもあったけれど。

「……よくはねェ。よくはねェが、もういいんだよ、姫様」

「……」

「六歳のガキになにができた?」

「……それでもわたしは王家に連なる者です。正当な王位継承権を持つ者です。責任を放棄することは決してありません」

「……どうしようもない女。それを本気で言えてしまうからお前は救えねェんだよ」

 ローの脳裏には先ほどの土下座があった。清廉な髪が汚れるのも気にせず必死に頭を下げ続ける姿が。

「なにもかも失くすついでに変わってしまえば楽だったろ」

 ローの言葉は間違いではない。故郷を、父母を、命以外の全てを喪失した時点で自己という根幹を変化させたなら、女はずっとずっと楽に生きられただろう。革命軍という茨の道に足を踏み入れることすらなかったかもしれない。

 けれど、女は迷いのない動作で言葉を繋いだ。柔らかな声音が「でも」の二文字を象る。

「わたしがあなたを見つけられたのは、変わってしまったあなたに変わらなかった部分があったからです」

 返すべき言葉はいくらでもあったろう。悪い大人は挑発・反論・文句をそれぞれダース単位で揃えて持っている。それでもなおローは口を噤んだ。

 かつての幼馴染に気づいたきっかけは“白”だったが、幼馴染だと確信できたのは、変わってしまった少女に変わらない部分が確かに存在していたからだ。

 ローはなにも言えなかった。勝てなかった。この話は終わりだと言わんばかりに小さく舌を打つ。

 女の知る彼が──フレバンスの少年が絶対にしない仕草だ。しかし、不思議なことに優しさを捨てずにいた男を見たときと同じくらい嬉しかった。

「もういいだろ。ほら、さっさと立て」

 そう吐き捨てるだけでローが手を貸してやることはない。幼少の頃であれば文句も言わず手を差し伸べただろうが、もう二人は幸福な子どもではなかった。

 それでも女を見下ろす目には穏やかな信頼が滲んでいる。──たった一人でも立ち上がれることを知っている眼差しだ。

「はい、ロー様」

 だから女は心から微笑んで、誰の手を借りることもないまま一人で立ち上がった。

 ローはそれを満足そうに見ていた。




───────


続くかも…?

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