幸せでした

幸せでした


 


 ————晴信は虎千代のことがすきなのですか?


 鈍色の空から降る雪が、世界から色を、音を消してしまうような冬の日だった。

 晴信は書物から顔を上げ、私の瞳の奥を探るように見つめ……気が抜けたように笑った。


 どうなのですか。


 私が催促すると、晴信は急に立ち上がり庭へ足を踏み入れた。雪が積もった庭に素足で歩いていくものだから、私は大層慌てた。

 そんな私の心境も知らず晴信は椿を一輪手折り、私の元へ戻ってくる。

 手に持った椿を私の髪に寄せて「やはり似合うな」と勝手に納得したように頷く。

 何を言っているのだろうと私は晴信を見上げる。目が合った晴信はその目を細めた。

 そして私の手に椿を持たせて、私をそっと抱き寄せて。


 幾百年経とうと、この世の人々が花を愛するように————。


 耳元で囁かれた声は、言葉は、この時の私にはまだ理解できなかった。




 ここ数年、貴方様はまるで本物の御仏のようだと敬われることが数増えた。

 かつて武田の家で鬼神のような武人だと恐れられた己が、そのように思われる日が来るとは。共に生活をしていた者たちを偲び、静かに日々を過ごしているだけだというのに。

 やはり私はどれだけ生きようが、人の心がわからないのだろう。

 道すがら擦れ違った者に軽く頭を下げながら自室に向かう。

 そして寺に身を置いて以来、一度も開いたことのない小さな箪笥に手を掛ける。

 昔、三条様に頂いた源氏物語の写本。それがここにあるかを確かめに。家が貧しく本を手に入れることさえできない童に、明日読み聞かせるために。

 しかし、私は目を丸くする。

 目的の書物は見つかった。しかし、その書物の下に見覚えのない手紙があったのだ。

 ここ最近書かれたものではないのだろう、紙は随分と劣化していた。そして、封に書かれた文字を見て、私の心臓が跳ねる。

「……晴信、様?」

 とても、とても見覚えのある、既に失くなって久しい彼の字に違いなかった。

 虎千代。そう書かれた封を私はゆっくりと開ける。

 武だけでなく教養に富んだ晴信の文は、私の身を労う言葉が多く綴られていた。

 食事に無頓着ゆえ、身体に気を付けなさい。

 歳を取れば知らずに体の力は衰えるゆえ、怪我に気を付けない。

 それから、それから……。

 優しくも格式ばった文に私は頭を捻る。まるで童相手に諭そうとする親のようだ。

 そして最後に締めの言葉を読んだ後、私は二枚目の手紙があったことに気付く。

 そこには先程とは打って変わって、独り言を綴ったような文が並んでいた。



 虎千代。お前が武田の家に来て、どれほどの年月が経ったのだろうか。

 そう思い数えて見れば、こんなにも長く共にいたのだと驚かされた。

 私にはまだ、童の頃のお前が鮮明に思い出せる。

 三条の膝に凭れ、源氏物語を読み聞かせて貰っていたお前を。

 油川の腰に縋り、甘えるように菓子を食べていたお前を。

 諏訪姫と共に、兎を追いかけ回し笑っていたお前を。

 お前はどうだ、虎千代。

 しかしどれほど共に生きようと、お前は人の心がわからぬと言っていたな。

 だが、私はある日気付いたのだ。

 結局の所、人の心がわからぬと言いながらもお前がお前らしく生きているのならば、それでよいのではないかと。

 過去を思い返し悪くなかったと言えた人生ならば、生まれた意味がわからなくとも、きっと意味はあったのだ。

 どうだ、虎千代。お前の人生は悪くなかったか。つまらなくなかったか。

 今はまだ旅の途中だろう。いつか巡り合う時が来るのならば、聞かせて欲しい。



「あ、」

 音を立てて手紙が冷たい床に広がっていく。

 私はそれを追いかけるように崩れ落ち、声を上げた。

「あ、ぁ……ああああぁあああぁ……っ!」

 母のように優しかった三条様。

 姉のように構ってくれた油川様。

 姉妹のように遊び、共に笑い合った諏訪。

 そして、ついぞ夫婦のように触れ合うことがなかった晴信を思い返し、私の瞳から涙が零れ落ちていった。

 どうして涙が溢れてしまうのだろう。人の心など、わからぬと言い続けた私が。

 どうして胸が痛むのだろう。人の心を、持たない私が。

 わからない。だけど童のように私は泣き伏せて、晴信の手紙を掻き毟った。


 この時、私はようやく理解した。

 親に捨てられた私は、心を凍りつかせて傷つかない振りをしていなければ、生きていけなかったのだ。

 心がわからなければ傷つくこともない。喜びを得なければ、失うこともない。

 そう思いながら、結局私は多くの人に助けられ、想いを与えられて生きてきたのだ。何一つ想い返せぬまま。

 本当に、私は愚かでどうしようもないほど蒙昧な人間だった。

「どうして……どうして、虎を置いていったのですか……!」

 思い出がこんなにも悲しいものなら、いっそ共に逝くことを許して欲しかった。一人にしないで欲しかった。

 そう嘆いたところで己の願いに答えてくれたはずの人たちは、もうどこにもいやしないというのに。



 どれほど時間が経ったのだろう。蹲っていた私は顔を上げた。涙は止まったが、胸に広がる空虚はどうにもならなかった。

 あぁ、大事な手紙が涙で歪んでしまった。慌てて私は手紙を封に戻し、箪笥に仕舞おうとした。

 その時、引き出しの奥に白い包みが見えた。手紙に気取られ先程は気付けなかったが、大層綺麗な包みだった。

 鼓動が再び高鳴る。私は震える手を伸ばし、包みをそっと開いて……息を呑んだ。

 それは真っ赤な椿だった。真っ赤な椿が咲き誇った、とても綺麗な櫛だった。

「…………ここに、いたのですね」

 私は胸に櫛を押さえ、再び熱を持った瞼を閉じる。脳裏に多くの思い出が泡のように浮かんでは弾けていく。その泡の中で、私は無邪気に笑っていた。そしてそんな私を見て、三条様が、油川様が、諏訪が、晴信が笑っていた。

 そうだ。思い出すことが悲しいことだったとしても、きっと手放してはいけないのだ。

 だって、寂しさを知ってしまって、挫けそうになっても……貴方のおかげで、思い出して、また立ち上がって進んでいけるから。

 一人ではないと、貴方のおかげで。


 そうですよね、晴信————。


 彼が似合うと言った赤を抱き締めて、私はいつか巡り会う者たちのことを想った。











 幾百年経とうと、この世の人々が花を愛するように————お前を想っている、虎千代。


 耳元で囁かれた声は、言葉は。

 幾千の夜を超えた今も、染み入るように私の胸に残っている。




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