ごめんねスレッタ・マーキュリー─平穏な朝の終わり─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─平穏な朝の終わり─





 朝の光が差し込む室内で、エラン・ケレスは静かに目を覚ました。

「………」

 自室のベッドの上でむくりと起き上がり、鈍く痛む頭を押さえながら息をつく。

 今日もまた何らかの悪夢を見た。その代わり、忘れていた事柄を思い出した。

 珍しい事にペイルにいた頃よりも更に前……村で家族と住んでいた時の記憶だった。

 近所には規模が小さいが畜産を営んでいる家があり、よく手伝いをしては卵やミルクを分けてもらっていた。

 一緒に手伝いをする誰かがいた気がするのだが、顔まではよく分からなかった。あの『〇〇兄』と当時の自分が呼んでいた少年だろうか。…そんな気がする。

 どうせならその辺りも思い出せばよかったのに、エランはため息を吐きながらベッドからゆっくりと起き上がった。

 少し頭は痛いが、これくらいなら問題ない。地球に降りた辺りからなぜか体調も良く、エランは概ね自分の状態に満足していた。

 気付けばこのアパートに越してきてから一月以上が過ぎている。最初はどうなる事かと思ったが、最近は日々の生活も安定していた。


 部屋から出ると、暑い空気が体に纏わりついてくる。エランはすぐにダイニングに行き、真っ先にエアコンの電源をつけた。設定温度は自室よりも少し低めにしておく。

 エアコンが動き出したのを見届けてから、電気ケトルで湯を沸かしてコーヒーを入れる。あまり物を増やしたくはない為、手軽に作れるインスタントだ。

 辺りに香ばしい匂いが漂う頃には、部屋の中は涼しくなっていた。

 エランはコーヒーを持って自室に戻ると、端末でニュースを確認し始めた。これが最近のルーチンになっている。

 いくつかのサイトを見て、今いる地域の情報とスペーシアン側の情報、この両方を調べていく。

 とは言ってもあまり突っ込んだことを調べるとそこから足が付くかもしれないので、軽くサイトに目を通すだけだ。

 今のところはベネリットグループ内の動きは特にないようだ。株式会社ガンダムの情報も、当然ながら見つからない。

 水面下で何かが起こっている可能性もあるが、そこから逃げ出したエラン達には知りようのない事だった。

 しばらく自室で過ごしていると、誰かがダイニングへと入っていく気配がした。スレッタ・マーキュリーが起きて来たのだろう。

 最近の彼女は毎日朝食を作ってくれている。

 メインは代り映えのないパンケーキだが、定番の、と言えるくらいに回数が重なった今は、それが何よりもほっとする味になっていた。

 少し時間を置いてから、飲み終わったカップを片手にもう一度ダイニングへと向かった。

「おはよう、スレッタ・マーキュリー」

「おはようございます、エランさん」

 笑顔のスレッタが挨拶を返してくれる。彼女は少し前に買ったエプロンを身に着けて、楽しそうにフライ返しでパンケーキをひっくり返していた。

 彼女は動きやすそうな丈の短いハーフパンツを部屋着にしている。台所にいるとすらりとした足が目に飛び込んでくるので、エランはすぐに視線を逸らす事にしていた。

 あまり女の子の体をじろじろと見るものではない、という常識はエランにだってある。彼女があまりに無防備なので指摘しようとしたこともあるが、いざ声に出そうとするとなぜだか躊躇してしまい、今だに言えずにいる。

 どうしてなのか戸惑うエランを余所に、スレッタは料理を作るのが楽しくて仕方ないという風に、華奢な体を生き生きと動かしている。今はパンケーキを焼く傍らで、生卵にベーコンを入れて一生懸命かき混ぜていた。

 最近では夕飯のメインの他にスープ作りにも挑戦し始めている。彼女はずいぶんと意欲的な様子で、少しずつ新たな料理にも手を伸ばしては、スキルを磨いているようだった。

 近い内に本格的なパンも作ってみたいとも言っていた。もしかしたら、もうすぐ朝食の内容が変わるのかもしれない。…それは少し寂しいような気もした。

「もうすぐ出来ますよ」

「分かった」

 スレッタの言葉を聞いて、エランは椅子には座らずに食器を戸棚から取り出すとテーブルの上に置いていった。

 次いで冷蔵庫を開けてバターやジャムなどを取り出していく。料理に関しては戦力外なので、細々としたところで手伝いをしようという算段だ。

 冷蔵庫の隅には袋入りのプラムの種が入ってるので、ついでにそちらもチェックしておく。まだ芽などは出ていないようだが、これはおそらく、スレッタも毎日見ているだろうなという気がしていた。

 彼女の邪魔にならないように気を付けながらカップを洗うと、別にもう1つのカップを用意する。

 2つのカップにインスタントの粉を入れ、ケトルのお湯を注ぐ。片方はブラックのまま、片方は追加でミルクをたっぷりと入れたカフェオレもどきだ。

 出来上がったコーヒーをテーブルの上に置いたら、エランの手伝いは完了になる。

「ありがとうございます」

「うん」

 スレッタが視線を上げて礼を言ってくれるが、これくらいは何でもないことだった。

 見ればスレッタの朝食作りも終わっている。エランの用意した食器に料理が乗せられて、テーブルの上に並べられていった。

「おまたせしましたっ」

「ありがとう。今日も美味しそうだ」

 いつものパンケーキだが、付け合わせとサラダは毎回のように違っている。

 最近は凝ったものも出るようになっていた。

「えへへ、そうですか?スープは昨日の残りですけど、おかずはベーコン入りのスクランブルエッグです。これはコンソメで味付けしてみました。あとは普通の生野菜のサラダになります」

「サラダのドレッシング、新しい物にした?」

「気づきました?手作りに挑戦してみたんです。感想を聞かせてください」

「何だかどんどん出来ることが増えていくね」

「エランさんがお仕事している間、遊んでばかりもいられませんからね」

「研究熱心だ」

「えへへ」

 楽しそうに笑う彼女に、こちらも笑顔になる。2人はテーブルの席に着くと、そろって挨拶をした。

「「いただきます」」

 穏やかな朝の食事が始まった。

 まずはサラダを口に運ぶ。基本的な順番通りの食べ方だが、何よりも手作りドレッシングの味が気になった。

 瑞々しい野菜を一口噛むごとに、野菜だけではない酸味と少しの辛みが広がっていく。シャキシャキとした歯ごたえも口にしていてなんだか楽しい。

 エランはペイルにいた頃は食事に興味がなかったので、今もドレッシングにどんな調味料が使われているのかよく分からなかった。けれど美味しいということだけは分かる。好きな味だった。

 メインのパンケーキは口に含むとふわりと柔らかな触感がする。最初の頃はペタンと潰れていたり生焼けだったりしたが、いつの間にか空気を含んだ綺麗な形になっていた。

 パンケーキを外で食べた記憶などないが、もしかしたら店で出しても遜色ない出来ではないかと思っている。

 付け合わせも美味しい。薄く味付けしてあるスクランブルエッグに塩味の強い厚切りベーコンがよく絡んでいる。パンケーキと合わせて食べるとまた丁度いい味になる。

 合間にスープを飲むと、いくらでも食べてしまえそうだった。

「うん、美味しい」

「えへへ、よかった」

 文句のつけどころのない朝食だ。全体的にシンプルだが、飽きの来ない味だと思う。

 この辺りの料理は濃くて辛い物が多いので、ちょうどいい舌休めにもなっている。

 仕事の時間までまだ十分ある。たまに料理の感想を言い合いながら、2人はゆっくりと食事を楽しんだ。


「エランさん、お仕事のほうはどうですか?」

「そうだね、モビルクラフトの運転の方は順調かな。…もう一つのほうは、まだ勉強中」

 食後の挨拶をした2人は、コーヒーを片手に何となくの雑談を続ける。最近はエランの仕事の話が多かった。

「機械の扱いに関してでしたっけ?」

「そう。僕がやるはずの仕事とは違うんだけど、何故か毎回課題みたいなのを出されるんだ」

「最初はライン工をやるはずでしたよね?」

「うん。だから本当にどうしてこんな事を教わってるのか分からない。そのうち資格を取れって言い出されるかも」

 コーヒーを飲みながら喋るのは、エランの不可解な仕事内容のことだった。

 初日に殴って来た老人が、なぜだかエランを毎日のように構ってくるのだ。

 思えばモビルクラフトの暴走を止める前、なんとなしに挨拶をした時から目を付けられていた気がする。

 近頃の老人はエランの仕事が終わる頃を見定めていたかのようにフラッとやって来ては、自分が指導をしている機械の扱いについて、空いた時間に教えようとしてくる。

 そういうのは正規社員が学ぶべきもので、エランのような非正規社員が触れるものではない。…と思われるのだが。

 大ゲイブの船での臨時の仕事しか経験していないエランには、きっぱりと断言することは出来なかった。けれど、何かがおかしいと感じている。

 あの老人は、自由に振る舞いすぎている。

「それだけエランさんが期待されてるって事じゃないですか?」

「そう…なのかな」

 正直に言うと少し困る。なぜなら自分はあと一月くらいで今の仕事を辞めるからだ。

 最初からそういう契約ではある。今は臨時でモビルクラフトの運転をしているが、それも次の人員が補充されるまでの繋ぎにしか過ぎない。いくら期待されても、応えられるはずがなかった。

「機械の事を勉強するのは嫌いじゃないけど…」

「あんまり負担だったら言った方がいいですよ」

「そういう訳じゃないんだけど…うーん」

「エランさんが煮え切らない態度になってるの、何だか新鮮です」

「面白がってる?」

「ほんの少し」

 悪戯っ子な笑いを浮かべるスレッタに、エランは苦笑する。

 ここ最近は、少しずつ彼女の内面が変わってきているように思える。何というか、こちらに気安くなった気がする。

 エランではとても敵わない特技が出来た事で、自信が出てきたんだろうか。

 スレッタから自信の源になるだろうあらゆる事柄を取り上げてしまった自覚があるので、最近の彼女の様子には少し安堵もしていた。


 そろそろ仕事へ行く時間だ。

 食器を洗って拭き終わるころには、いつもちょうどいい時間になっている。エランは荷物を持つと玄関へと向かった。今日はゴミ出しはしなくていい日なので身軽なものだ。

「エランさん、今日はこれをお願いします」

「うん、帰りに寄って来る」

 出掛ける前にスレッタからメモを受け取る。大体は食品関係だが、たまに日用品や雑貨などを頼まれることもある。

 このメモに書かれたものに加えてスレッタの好きそうな果物を買ってくるのが、エランのお使いの大体のパターンだった。

 あとはいつもの挨拶をして玄関を出るだけだ。……けれど、この日はほんの少しだけ違っていた。

「いってら……ふわぁ、ぁふ…。あ、すいません」

「…眠いの?もしかして夜眠れなかった?」

 スレッタが大きく欠伸をしていた。彼女は眠るのが大好きでよく昼寝もしているが、寝起き自体はいい方だ。朝から眠そうにするなんて珍しいことだった。

 エランは仕事に行くことを後回しにして、ざっと彼女の様子を観察してみた。…先ほどと比べて、少し顔色が悪い気がする。

 頭に思い浮かぶのは、この土地に来てすぐに倒れてしまった弱ったスレッタの姿だった。

「どこか具合が悪いところはある?」

「い、いえ、大丈夫です。何だかちょっと眠いだけです。…昨日レシピを夜まで考えていたから、そのせいかもしれません」

「でも、一度倒れた事もあるし…」

「あれは、旅の疲れが出ただけです。これはきっと単なる寝不足なので、お昼寝すれば大丈夫です」

「……一応、晩御飯は食べやすい物を買ってくるから、無理せず休んでいて。もし具合が悪くなったら、いつでも僕に連絡して欲しい」

「もう。心配性ですね、エランさんは」

「きみの事だから当然だ」

「んんッ…、わ、分かりました。無理、はしません。…その、えと。い、いってらっしゃい、エランさん」

「……うん、いってきます」

 仕事を休もうかと思ったが、それではスレッタが気にしてしまうだろうし、きちんと休めないかもしれない。

 エランは何かあれば連絡するように念押しして、仕方なく工場へと向かって行った。

 道すがら、スレッタが倒れた時の事を思い出す。…まだ1ヶ月前の事だ。

 呼吸のたびに大きく上下する胸に、熱で涙の膜が張ったように潤う瞳。頬は運動をした後のように赤らんでいて、とても苦しそうな様子だった。

 いつもフワフワと跳ねている髪は汗を吸って重くなり、首筋にぺたりと張り付いていた。エランはそれを指で払って、少しでも楽になればと濡らしたタオルを額に当てていたのだった。

 スレッタは平均よりも背が高く、体力だってある。優れた技能や判断力だって持っている、一級線のパイロットだ。

 けれどエランに比べたら、一回り以上も体の小さい女の子だった。手を引っ張ればよろけるし、少し気を抜くと履き慣れないサンダルに足を取られる事もある。

 体重を支えた時の感触を思い出す。彼女の体はあまりにも柔らかくて、指や腕がそのまま沈み込んでいくような感覚だった。

 確か睡眠薬を嗅がせた時にも、その体の柔らかさと軽さに驚いた記憶がある。

「………」

 思考が明後日の方向へ行きそうだったので軽く頭を振る。今はスレッタの体の柔らかさや軽さなど関係ない。

 とりあえずは昼休みにでも連絡して、体調に変化がないかを確かめよう。場合によっては早退したほうがいいかもしれない。

 薬局で何か買った方がいい物はあっただろうか。…いや、常備薬が置いてあるので、特に寄らなくてもいいだろう。それよりも早めに帰ったほうがいい。

 明日が休みでよかった。彼女のそばに、一日中付いてあげられる。


 …この時のエランは、自分でも可笑しいほどにスレッタの事を心配していた。

 後から考えれば、予感があったのかもしれない。

 2人の関係が変わっていく予感。


 彼女へ対する自分の想いが、変化してしまう予感を。






ぼくとはちがうきみ


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