【幕間】水魚の交わり、或いはお忍びの兄妹
開会式を待つ人々で賑わうペイル寮の屋台区画で
黒い髪の少女がきょろきょろと屋台に並ぶ食べ物を眺めていた。
少し背が高いものの、人並みに紛れちょこまかと動いているその姿は小動物のようだ。
真っ直ぐな黒髪を1つに束ねて通常制服を着ているが、長い前髪に隠されてその顔立ちを窺い知ることは出来ない。
「よってらっしゃいみてらっしゃい!古の極東の名物料理!『ヤキソバ』!過去の文献から再現したこの一品!美味しいこと請け合い!」
「あ、『ヤキソバ』…!」
長い前髪の下から青い瞳がのぞいている。
じゅうじゅうと鉄板の上で焼かれている麺料理を見た途端、きらきらと瞳を輝かせて魅入られたように屋台に釘付けになる彼女に隣の青年が話しかけた。
「食べてみたいの?買おっか!」
彼女と連れ立っている青年もまた、黒い髪を長く伸ばして背中でくくっている。
顔立ちを隠すように掛けられた野暮ったい黒縁の眼鏡の奥の瞳は、彼女と同じ青い色をしていた。
「はい!ずっと憧れてたんです、『ヤキソバ』……どんな味なんでしょう!」
「う~ん、たしか兄さんが試食したって言ってたな…美味しかったって」
でも、あんまり食べるとお腹いっぱいになっちゃいそうだから半分こね、と言って青年は端末で支払いを済ませ、温かいパックをひとつ受け取った。
「わ、わあ!こっちもいい匂いがします!」
いい匂いに引き寄せられてふらふらと他の屋台に向かっていく妹を追いかけながら、青年はにっこりと微笑む。
眼鏡のレンズの隙間からちらりと覗く瞳は、薄い黄緑色。
よくよく観察すると、眼鏡に度が入っていないことや彼らの髪が良くできた人工物であることも分かるだろう。
皴一つない制服も新品同然だ。
「ストップ!ちょっとスレッ…あっ、ダメなんだった」
人の群れをするりと抜けてどこかへ行こうとするスレッタを呼び止めるのに名前を呼びかけて、すんでのところで押しとどめる。
代わりに袖を掴むと、スレッタは大人しくエランの元に戻ってきた。
「は、はしゃいじゃってごめんなさい!」
でも楽しくって、とえへえへと締まりのない顔で笑う。
特殊なレンズを通して瞳の色を変え、普段の髪色とはかけ離れたウィッグを被り、普通の制服を着用する。
ペイル社に準備してもらった変装用のセットはかなり精巧で、彼らをしっかりと別人に見せていた。
流石にじっくりと観察されたら正体が判ってしまうかもしれないが、通りを行き交う人々はお祭りの雰囲気にはしゃいでおり、のんびりと歩いている黒髪の兄妹に注目する人は誰もいない。
ホルダーのスレッタとペイルの筆頭である自分はどこに行っても注目されてしまうから、こうして賑やかな場所を自由に兄妹で歩くのは初めての経験だった。
まあ、次兄である無表情の青年がいるときは気を使って誰も話しかけてこないのだが、楽しい雰囲気の中であの仏頂面と顔を突き合わせるなんてそんな無粋なことはないだろう。
僕は興味がないものの存在をまるっと無視する冷血漢の兄とは違うんだよ、とエランは心の中でこっそり舌を出した。
スレッタは前回の運動会で屋台を訪れた際に人だかりができて迷惑をかけしまったことを気にして、最初は屋台を巡ることに難色を示していた。
もともと引っ込み思案な彼女のことだ、尻込みする気持ちも理解できる。
せっかくのお祭りだし、スレッタも楽しみにしてたじゃない、と言っても窓から眺めるだけでいいと譲らなかったので、上手いこと騙くらかしてウィッグを被せて一般制服を着せ、裏口から出てきてしまった。
流石にやりすぎたかな、と思ってエランは妹の顔を伺ったが、楽しそうに隣を歩いている彼女からは何の憂いも感じられない。
結果として問題がなかったのなら万事大丈夫だ、とエランはことさらにっこりと微笑んだ。
彼女は自分がやりたいと言い出したことだから、と運動会の成功に対して責任を感じているようだったが、それにしたって運動会を準備した人たちは皆彼女に心から楽しんでほしいと願っているに決まっている。
大体、スレッタのために、という大義名分の下で生徒たちはそれぞれ好き勝手にやりたい放題しているのだ。
こっちだってちょっとくらいわがままになったって許されるだろう。
そのあと、『ヤキソバ』や串にささった野菜や肉、冷やしトマトなどを買い込んで飲食スペースのテーブルに陣取り、他愛もないお喋りをしながらお腹いっぱいになるまで食事をした。
スレッタは『ヤキソバ』がいたくお気に召したようで、口の周りを汚しながらもむぐむぐと美味しそうに頬張っていた。
綺麗に箸を持つので、どこで教わったのかを聞くと、彼女の友人であるミオリネ・レンブランに教わったらしい。
教えて欲しいと頼むと上機嫌で箸の持ち方を教えてくれたが、何回やってもぐちゃぐちゃになってしまう。
何でこんなものを食事に使うのだろう、という困惑がただただ深くなった。
お兄ちゃんはフォークでいいと思うな。
◆ ◆ ◆
食事の後も少し時間があったので屋台を見て回った。
「お兄ちゃん!見てください、これおさかなですよ!」
しゃがみこんだスレッタの後ろから屋台を覗き込むと、水の張られた小型コンテナの中を色とりどりの魚が泳いでいる。
生体取引には厳しい制限がかかっているのでおそらくよく出来たロボットだろう。
ゆらゆらと尾を振りながらコンテナの中を優雅に周遊している姿をみていると、とてもそうとは思えないけれど。
陽の光──といっても人工だけど──を反射してきらきらと綺麗に鱗をくねらせる姿に目を奪われる。
「これ、欲しいな」
思わず口から零れ出てしまった小さな言葉に妹は目敏く反応した。
「ほ、欲しい、ですか!?」
青い目を丸くして驚いたようにこちらを見つめる。
…そんなに驚かれるとは思っていなかった。
「うん。どうして?」
「だってお兄ちゃんいつも欲しいものない、って言うじゃないですか」
「…それに、お部屋にも何も置いてないです」
だからあんまり形のあるものは好きじゃないのかなってと俯く彼女に、そんなことはないよと言いかけて言葉に詰まった。
今まで考えてこなかったけれど、確かに何か形のあるものが欲しいと思ったことはない気がする。
「うん、そうかもしれないや。でも、この魚が部屋にいたらきっと素敵だな」
「じゃあ……!プ、プレゼント、します!」
腕まくりをして準備万端といった様子のスレッタは端末で料金を払い、魚を掬うための網のようなものを受け取った。
「これ、紙…?」
「コ、コミックで読んだことあります!破けないように気を付けておさかなを掬ってボウルにいれるんですよね」
紙を水にいれたらすぐに破けてしまう気がする。
「そうだよ、特注品だぜ」
と言って店員がにやりと笑った。
どこかで見たことのある顔だ。おそらくペイル寮の学生だろう。
警戒するように彼の胸元をちらりと見たが、赤いバッジはなかった。
静かに胸を撫でおろす。
「昔の地球ではこの『金魚』って魚を観賞用に育てるのが一大産業になってたらしい。違う柄の奴を掛け合わせて新しい柄の魚を作ったり、サイズを競ったり。競技会なんてのもあったらしいぜ」
店員は聞いてもいないのにぺらぺらと喋り続ける。
この口数の多さ、おそらくメカニック科だな、とエランは勝手に当りを付けた。
「…それで、造形が得意な奴に昔の映像を見せて再現してもらったってわけよ。中に入ってる行動データと機械は俺が作ったんだけどな」
結構うまく出来てるだろ?と問われると首肯せざるを得ない。
スレッタも興味深そうに頷いている。
一通り蘊蓄を聞いた後、魚を掬うためにしゃがみこんだスレッタが色とりどりの魚を目で追いつつ、どれを狙うかと問うてきた。
「お兄ちゃん、どの子が欲しいですか?」
頑張って掬います!と意気込む。
たしかに白いのや赤いの、ぶち模様のやつや頭だけが赤いのなど、かなり色々な種類の魚がいるようだ。どれも綺麗で迷ってしまう。
ふと、コンテナの隅っこに他の魚の陰に隠れるようにしてじっとしている2匹の黒い魚に目が吸い寄せられた。
水流を物ともせず、ぴたりと寄り添っている。
「この、黒いのがいいな」
そう告げると、スレッタは破れないよう慎重に紙を張った団扇のようなそれを水中へと差し入れた。
水流に逆らわないように平行に動かしていく。
はじめてとは思えないほど上手い。
「お、妹ちゃん上手だねえ!」
「コミックで読んだこと、あるので…!」
手がお目当ての黒い魚の下まで到達すると、それまでじっとしていた魚は機敏に尾を動かして、捕まえようとする手から逃れて水面へと移動した。
すかさずスレッタは水面へと網を動かし、見事その紙の上に魚を掬いあげる。
「わっ!ああ!」
しかし。
空中に放り出された魚は突如としてぴちぴちと跳ねだし、網には穴が開いてしまった。
なんとか魚をボウルにいれることは出来たけれど、破れた紙ではもう魚は掬えない。
しょんぼりとするスレッタに店員が優しく声を掛ける。
「あ~、妹ちゃんの頑張りに免じてもう一匹好きなのを持って行っていいぞ」
落ち込んでいた彼女の顔がパッと明るくなる。
どの子がいいですか、と嬉しそうに聞く彼女に黒いのをもう一匹、と告げた。
「同じのをもう一匹?いいんですか」
色々な子がいるみたいですよ、と他の魚を指し示す妹に、いや、同じのがいいんだ、と応える。
ふるふると頭を振るたびに彼女の背で揺れる黒い髪は、水の中でゆらゆらと揺れる黒い尾鰭に似ていた。
店員は普通の網で黒い魚を掬い、エラン達の姿を見比べると、
「きっとこの魚も兄妹だな。大事にしてくれよ!」
と笑ってビニール袋に入った黒い2匹の魚を差し出した。
「この子たちも、私たちとお揃い、ですね!」
はにかんでそう告げる彼女にうん、と返して透明なビニールの中で大人しく揺らめいている彼らを眺める。
部屋の窓辺に水槽をおいて、彼らを泳がせておいたらとってもきれいで素敵だろう。
いつだって今日のことを思い出せる。
ずうっと昔。子供の頃、外へ行ってみたい、遊んでみたいとぐずるスレッタを「いつか連れて行ってあげる」と言って宥めるのは彼女の末の兄の仕事だった。
たくさんの時が経って、スレッタはそんな約束、もう覚えていないかもしれないけれど。
でも、確かにあの時思い描いたような賑やかさが今、2人を取り巻いていた。
いつもの全然似ていない髪と目の色だって素敵だけれど、お揃いの黒い髪に青い瞳の今の二人は、どこにでもいる普通の兄妹みたいに見える。
今度から一緒に出掛けるときはこの格好をするようにお願いしてみよう、と天使の君は子供のころのように無邪気でいたずらっぽい笑みを浮かべた。