『山のヤギ男爵』
夕暮れ時、小学五年生の久志(ひさし)は母親とケンカをした。その原因は、テストで悪い点数を何回も取ってしまったので、母親が塾に通いなさいと久志に言ったのだ。
だが、その言い方が久志にとって気に障る言い方だったのと、塾になんて通いたくないという反発心から、母親に口答えをして余計に母を怒らせてしまい、そこから口論に発展して半ギレで久志は家を出た。もうこんなの嫌だ、山で隠れて生活をすればいいんだ。そう思いながら、山の頂上まで駆け上がって行った。
「ハァ……ハァ……あれ? こんなところに家なんかあったっけ」
山の頂上には、見慣れぬ家があった。いや、家というより……屋敷や豪邸といった感じの建物だった。西洋式の、自分が住んでいる町には不釣り合いな建物に、久志は不思議に思っていた。
気になった久志は、大きな両開きのドアの前に立つ。インターホンなんていうものは無く、ヤギがくわえているドアノッカーがあった。それを鳴らすと、ギィーと音を立ててドアが開いた。家の中から現れたのは……。
「やぁ、お客なんて珍しいな。いつぶりだろうか」
「えっ……や、ヤギ……!?」
中から出てきた若々しい男の声の主は、黒のシルクハットと燕尾服に、インバネスコートを身につけた、頭が角の生えた黒ヤギの人物だった。一瞬マスクかも? と思ったが、顔にかけている細い丸メガネと自在に動く口を見て、とてもそうとは思えなくなった。
驚いて固まった久志に、ヤギ男は、
「大丈夫、何もしたりしないさ。さあ、お入り」
と、優しい声で屋敷に入るよう促してきた。久志はそれに対し「お……お邪魔します」と答えて、恐る恐る屋敷の中に入った。
ヤギ男に連れられ案内されたのは、まるで歴史の教科書で見たような西洋の貴族が住んでいるような部屋。塵一つ無く奇麗に掃除されており、それに暖炉まで付いていて、自分の部屋よりも広くて奇麗だった。
「さあ、どうぞ座って」
ヤギ男に椅子に座るよう促された久志は、見るからに高級そうな椅子に腰掛ける。そして、装飾のついたティーポットやカップをヤギ男が持ってくると、
「緊張しないでいいよ……お茶でもいかがかな?」
白い手袋をした人の手でカップに紅茶を注ぎ、久志に差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
「ああ、自己紹介がまだだったね。私は見ての通り、ヤギだ。ヤギ男爵とでも呼んでくれたまえ、遠慮なんていらない、気軽に呼んでいいんだ。君はちょっと遠慮してるね、ああ、そうだ君の名前は?」
「僕は……久志って言います」
久志は、室内だと言うのにシルクハットを脱がないヤギ男爵に恐怖しながらも、自分の名前を言った。
「へえ、久志というのかい。良い名前だね。ところで、君はどうしてここまで来たのかな?」
久志はヤギ男爵がどんどん話題を変えていくことに、ついていけなかった。しどろもどろしていると突然、
「話したくなさそうだね、どれ、私が君の考えていることを当ててみよう」
と言い出した。久志は急に怖くなった。ただでさえ顔が黒ヤギな、とても人とは思えない相手に相対しているのだから、次に何をされるのか、不安でしょうがなかった。
「君は、私が何者なのか不安に思っていそうだね。なんで、私の頭はヤギなのか……って」
「う、うん……」
「大丈夫だよ、頭が黒ヤギなのはそんなにおかしいかい? 別にたいしたことじゃないさ」
(たいしたことじゃない? そうかなあ……?)
あっけらかんとそう言ったヤギ男爵に対し、久志はどうも気持ちが落ち着かなかった。すると、ヤギ男爵はティーカップを置いて、落ち着いた声で言った。
「さて、もう一つ当てよう。君がここに来た理由を」
いきなり真面目な声でそう言われたことに、ビクッと体が反応してしまう久志。それに対し、落ち着いてというジェスチャーをするヤギ男爵。それから改めて一言。
「君はお母さんとケンカをしたね?」
ヤギ男爵はそう言った。久志はその言葉に、なんでわかるんだ。と、とても不思議だった。
「は……はい」
そう久志は答えた。するとヤギ男爵は、
「なるほど、気持ちはよくわかる」
そう言った後すぐに表情が暗くなり、こう言った。
「私も昔、しょっちゅうお母さんとケンカしたものさ。でもね、君はどうしてお母さんとケンカをしたのかね、遠慮せずに話してみなさい」
久志は怖がりながらも、ケンカのことを話し出した。
「ここ最近僕は、テストで悪い点ばかり取っていて、お母さんが僕に塾に行きなさいって言ったんだ。でも、塾に通ったら遊べないし、何より塾に行けなんて命令みたいに言うから……つい、かっとなってお母さんとケンカしちゃったんだ……それで、もうお母さんの所になんかいられない、山で隠れて暮らしてやるって……」
「なるほど、よくある話だね。それで君は、塾には行きたくないのかな?」
「もちろんです!」
「そうだろうそうだろう、遊び盛りの君たちにとって、貴重な時間を勉強になんて費やしたくないだろう」
「わかって……くれるんですか?」
「だがね、こうも考えられないかい? お母さんは、本当に君を大切に思っているからこそ、塾に行かせようとしていると」
「え?」
再びティーカップを手に取って、紅茶をぐいっと飲むヤギ男爵。そして、ふぅと一息ついて再び語り始めた。
「確かに、塾とか勉強というのはつまらない。だけれども、勉強しなければ、将来きっとダメな大人になってしまう。どこにも行けなくて、何もできない大人にね……」
「そ、そうなの……?」
「そうだよ? 私みたいに一生働かなくても良いくらいのお金があるならまだしも、君みたいな子は働かないといけない。勉強ができないと良い会社にも入れないし、そのための学校にも入れないからね……君のお母さんは、君がちゃんとした大人になってほしいと思っているから、心配しているからそう言うんだよ。どうでもいいなら、そんなことは言わないさ……」
ヤギ男爵のその言葉に、急にあの時の自分が恥ずかしくなってきた久志。確かにそうだと、頭が冷えて理解した。
「どうやら、私の言ったことが理解できたみたいだね。そこまでわかったなら、もう私の助言は必要ないね。さあ、お母さんにごめんなさいしてきたらどうだい?」
「は、はい。今日はなんだかありがとうございました。」
「うん、またいつでも遊びにおいで」
ヤギ男爵にそう言われ、山を降りて家へ帰った久志。おずおずとドアを開けて、台所で包丁をトントンしている母親に向かって言った。
「お母さん……さっきはごめんなさい。これからは塾にも通うから、許して……」
「別に良いわよ、行かなくても」
「え?」
「さっきはお母さんも言い過ぎたわ、ゴメンね。でも、また悪い点を取るようなら、今度こそ塾に通ってもらうわよ」
「……うん! ありがとう!」
翌日。久志はまた、山のヤギ男爵の屋敷へと来ていた。今度は、意気揚々とドアノッカーを鳴らした。ドアからヤギ男爵が出てきて、久志を出迎えてくれた。
「おや、久志君じゃないか。どうしたんだい?」
「あ、あの……今日はヤギ男爵さんにお礼が言いたくて来たんです」
「まあ、積もる話は部屋でしようか。美味しい紅茶を用意しているよ」
ヤギ男爵に連れられ、昨日と同じ部屋で紅茶をいただく久志。そして、改めて本題に入る。
「ヤギ男爵さん、この間はありがとうございます。あなたのおかげでお母さんと仲直りできたんです」
「どうやら、私のアドバイスはちゃんと理解できたようだね」
「うん。それに、お母さんもちょっと言い過ぎたって言ってくれたんだ!」
「そうかい、それは良かったね……でも君、ひょっとしたらまだ悩みがあるんじゃないかい?」
「う、うん……実は、僕のクラスにはガキ大将みたいなのがいて、ソイツによくいじめられているんだ……」
「ほうほう、そのいじめられるのをどうにかしたいってことかい? なら、その子にね……」
ヤギ男爵は、再び久志に悩みを解決する方法を教え、久志は再びその通りにした。すると、あれよあれよといううちに解決してしまった。それを報告するために、久志は再びヤギ男爵の屋敷へと来ていた。だが、
「ヤギ男爵さーん、いないの? ヤギ男爵さんのおかげでお母さんと仲直りできたから、お礼が言いたいんだけれど……!」
何回ドアノッカーを鳴らしてもヤギ男爵は出てこなかった。ドアに手をかけると、ドアは簡単に開いた。中に入ってヤギ男爵を探すと、ドアが少し開いていた部屋があった。そこは、ヤギ男爵といつも話をしていた部屋だった。そこには、座椅子に腰掛けた、小さく質素な机に頬杖をつきながらウトウトと眠るヤギ男爵がいた。
「ヤギ男爵……」
久志はヤギ男爵に疑問を抱いていた。
(なんでヤギ男爵は、ずっと帽子を被っているんだろう?)
部屋の中にいるというのに、なぜかずっとシルクハットを被っているヤギ男爵。どうして、外にも出ていないのに? そう思った久志は、ヤギ男爵のシルクハットに手を伸ばした。だが、
「……ッ!?」
「……何をしているんだい?」
突如、ヤギ男爵に腕を掴まれてしまった。その力が意外と強かったので、びっくりしてしまう。
「ああ! 君か、今日はどうしたんだい?」
「ヤギ男爵さん、あの……この間の、お礼が言いたくて……」
「そうか、それは良かったね」
「それと……なんでヤギ男爵さんはずっと帽子を被っているのかなって。このお屋敷から出てもいないのに、なんでずっと帽子を被っているんですか?」
そう久志が聞くと、ヤギ男爵はシルクハットを深く被って少し顔を隠してしまった。そして、少しの間黙ると、つぶやくように語った。
「この帽子の下には……私にとって忌まわしいモノが刻まれているのさ。見られてはいけない……知ったら君も私から離れていくだろう……」
今までの優しい声とは違う、厳かな声でそう言ったヤギ男爵。久志は、その言葉に少し息が詰まった。
「さあ、私の帽子の下なんか気にしていたってしょうがないよ。お茶でもいかがかな?」
優しい声に一瞬で戻ったヤギ男爵は、どこからか取り出したのかティーポットからティーカップに紅茶を注いで、久志に渡した。
「あ、うん……ありがとう」
「さあ、今日はどんなことがあったのかな?」
「い、いや……なんか、ヤギ男爵さんに相談すると、なんか全部上手くいくなあって……どうしてなんだろうね」
「私はただアドバイスをしているだけさ、やったのは君自身だよ」
「でも、なんか上手くいきすぎな感じもするんだよね。ひょっとして……ヤギ男爵さん、何かした?」
その言葉に、ヤギ男爵は急に慌てふためいた。
「そ、そんなことは、ないさ……そんなことより、お茶でもいかがかな?」
「……やっぱり、何かしたの?」
「……何もしてないよ」
「そういうことはこっちを見て言って。ねえ、何をしたの? お母さんやいじめっ子に何か言ったの?」
久志がそう言ったと同時に、ヤギ男爵は押し黙った。そして、重々しく口を開いた。
「ああ、そうさ。本当は、君が私に相談したようになるように、私がしたんだよ」
「どうやって……?」
「……薄々わかっているかもしれないけれど、私は普通の人間じゃない。顔がヤギなだけじゃなくて、それ以上のがあるんだ……」
そう言うと、ヤギ男爵はずっと被っていたシルクハットを頭から外した。すると、その下にあったのは……逆さの五芒星。ヤギの頭、額の五芒星。それが意味するのは……。
「そ、それって……!?」
「ああ、実は私は悪魔バフォメット……のなり損ないなんだ。だから、人の心をちょっとだけなら操れる」
「え!? じゃあ……僕、魂取られちゃうの!?」
「魂を取ったりなんかしないよ。私はなり損ないだからね、そんなことはできない」
「そうなの……? でも、なんで悪魔のなり損ないなんかに……?」
その言葉に、ヤギ男爵は再びシルクハットを深く被り直し、つぶやくように話し始めた。
「……昔の話をしようか。昔、一人の男の子がいた……その子は、しょっちゅうお母さんとケンカをしたりしていた……ちょうど君が私に相談したみたいな理由とかでね。それに、いじめっ子にもいじめられたりしていた……その子は、大人になったらどうなったと思う?」
「どうなったの?」
「その子は、大人になっても意地悪な人にいじめられたり、働かずに将来のことでお母さんとケンカをしたりするような、ダメな大人になっちゃったんだ……そして、一発逆転を狙って……悪魔と契約した」
「契約……しちゃったの?」
「だけど、その子は悪魔に騙されたんだ。その代償として、母親を奪われ、悪魔のなり損ないにさせられたのさ……人間にも悪魔にも嫌われる存在にね……」
久志は、その子が目の前のヤギ男爵なのだとわかった。
「だからね……今から良い子にしていなきゃダメだよ。それこそ、一発逆転なんて狙ったら悪魔に騙されて、とんでもないことになるかもしれないから……ね」
一息でそれを言い終えた後、ヤギ男爵は立ち上がって久志に背を向けた。
「さあ、もう帰りなさい。君を大事に思ってくれている、お母さんの所にね……」
久志は、ヤギ男爵のその言葉にうなずいた後、屋敷を後にした。
それからというもの、久志はヤギ男爵に会いに山へ行ったが、屋敷は跡形も無くなっていて、再び会うことは無かった。