少女5

少女5


両手に髭の剃り残しと、少し低めの体温を感じながら、少女は男を見下ろしている。

荒い息を吐いて、唇を噛んで、血を滲ませて、互いの鼻がくっつきそうな距離で。

目が、潤みそうになるのを、堪えた。

口にしてしまった言葉。もう飲み込むことはできない。感情のままに、なにかに突き動かされるように溢れ出したそれらを、少女は自分の本心ではないのだと主張したかった。

しかし、喉が引き攣ったように閉じてしまって、言葉が出てこない。まるで身体が言い訳を拒絶しているかのように言うことを聞かない。少女はただ目を血走らせながら、男を睨みつけるように見下ろしている。

男、は――

「――」

相変わらず、暖かな光を湛えた瞳で少女を見上げている。

どうして、と疑問が少女の頭に浮かんだ。あれだけ悪し様に罵られて、どうしてこうも穏やかに微笑んでいられるのだろう、と。

そっと、男の右手が少女の左手に重なった。ゴツゴツとした、大きくて、暖かくて、頼りになる、安心するてのひら。

「別に怒っちゃいねェよ」

まるで少女の心を読んだかのような、言葉。

「おれはな、ウタ、何を言われても、何をされても当然だって思ってここに来たんだ」

「なに、言って」

「しでかしたことを考えりゃ、お前が顔も見たくないって思ってても仕方ないと思ってたからな」

そう言って目を細める男に、少女は錆びたブリキ人形のようにぎこちなく首を横に振るだけ。

相変わらず、言葉は出てこない。それでも言葉が伝わるのか、男の笑みが深くなったように少女には思われた。

「それでも恥を忍んでこうして来たのは、今日まで言いたくとも言えなかった言葉を伝えたかったからだ」

男の手に力がこもった。少女のてのひらを、大きなてのひらが優しく包み込む。

あったかいな、と少女は思った。

「寂しい思いをさせて、悪かった」

「――――っ」

「遅くなって悪かった。――約束通り、迎えに来たぞ、世界一の歌姫」

少女の頭の中が、真っ白に染まった。全身の血が沸騰したように、一気に体温が上がっていくのを自覚する。

生まれた意識の空白、その間に、気がつけば少女は自由な右手を思い切り振り上げ、男の頬へと力の限り打ち付けていた。

乾いた音が、高らかに響く。

「いま、さら」

「……おう」

「いまさら、いまさら、いまさら」

「おう」

「なん、で、いまになって、ずっと、ずっとまってたのに」

「ああ」

「もっと、もっとはやく、きてよ、ばか」

「悪かった」

「ばか、ばか、ばかばかばかばかばかばかばか!!!」

滲み始めた視界から、流れる涙をそのままに、もう一度大きく手を振り上げて、

「お父さんのばか!!!!!!」

感情のままに、叩きつけた。

再び響く乾いた音。二重に赤く染まった男の頬。少女のてのひらから放出された、怒り。

そうだ、怒りだ。捨てたくせに。置いていったくせに。ずっとずっと連絡も寄越さなかったくせに。一度も鑑みなかったくせに。寂しい思いをさせたくせに。

一番居て欲しいときに、居てくれなかったくせに。

理由は、確かにあったのだろう。少女のことを思ってのことだったのだろう。少女もそれを理解していた、それでもなお。

今、理解した。先程口にした言葉は、決して偽りばかりではない。孤独な少女の心のなか、積もり積もった感情だ。

大好きな人達に対する、怒り。義父たちを疑う中で生じたもの、海賊嫌いだと偽る中で生まれてきたもの、そして日々の暮らしの中で少しずつ、少しずつ、粉雪のように降り積もっていた想い。

寂しかったという縋りつきたいほどの弱さ。

逆恨みしてしまったことに対する後ろめたさ。

会いたくなかった、けれど会いに来てくれたことに対する喜び。

今までかばってくれていたという事実に対する感謝。

そして、それらとは別にある、理不尽とも言える仕打ちに対する怒り。

怒り、怒りだ。それは決して反射的なものではない。少女の心の中で、様々な感情の影に隠れるように確かにそこにいたのだ。

どの思いも、本心で。

今は、それが、一番に大きく膨れ上がっていて。

それが、男の言葉で、幼さを伴って爆発した。

「ずっと待ってた! 寂しかった! 心細かった!! 置いていかれたなんて嘘だって思いたかった! きっと何か理由があったんだって信じてた! ずっと! ずっと!! 会いたかった!!!」

するすると流れるように出てくる言葉は、先程とは違う、心体の一致した想いだ。

「なにのいつになっても来てくれないし! 連絡ひとつないし! こっちからも連絡取れないし! いま何してるのかもわかんないし! 無事なのかもどこにいるのかもわかんないし!!」

今はただ、相手への想いを脇に置いて。

「ずっとずっとずっと待ってて! いつか海の向こうに見慣れた旗が見えるはずだって! ずっと!!!」

幼い、九歳の女の子のように、喚き散らす。

「十年だよ!? 私一日も欠かさず待ってたんだよ!? 毎日毎日毎日! 大きくなっても、本当のことを知っても、ずっと! 本当にシャンクスたちのせいかもしれないって思いながら、私が悪いことしたから本当に捨てられたんじゃないかって思いながら! 不安になりながら!!」

「捨てるわけがねェ。おまえはおれの、おれたちの、大事な娘だ」

「じゃあなんで!? なんで置いてったの!? 連れて行ってくれなかったの!? あの晩に言ったよね私みんなと離れたくないって! シャンクスも同意してくれてたじゃん!!」

「そうだな」

「だったらなんで!?」

「……おれたち、は、な、ウタ」

男は立ち上がる。つられて、少女の顔が上を向く。見上げて、見下されて、立ち位置の変わった体勢になって、男の顔に、少しだけ、影が生まれる。

「お前を、海賊にはしたくなかったんだ」

その言葉に、少女は両手をきつく握りしめた。固く握った二つの拳を、感情を、激情を、男の分厚い胸板に思い切り叩きつけた。

「私は!! 海賊だった!!!」

もう一度。

「あんたたちに認めてもらわなくても、ずっと! ずっと!! ずっと!!!」

もう一度。

「あの船に拾われてからずっと!!! 私は海賊だったんだ!!!」

何度も、何度も、何度も。鈍い音が響く。そのたびに男の体温が少女の拳を通してかすかに伝わってくる。男は小揺るぎもせず、ただされるがままにその拳を、怒りを受け止める。

「海賊になるとかならないとかじゃない! 私は海賊だったんだ!! 赤髪海賊団の音楽家だった! あんたたちもそう言ってたじゃない! 違うの!? 違ったの!? あれはこどものごっこ遊びに付き合っていたとでも言うつもりなの!? ねえ!!!!」

「いいや。お前は間違いなく、おれたちの自慢の、どこに出しても恥ずかしくない音楽家だよ」

「だったら!!!」

一際強く拳を叩きつけて、少女は項垂れた。

「だったら……なんでそんな事言うの……やめてよ、そんな事言わないでよ、シャンクス……」

頭に、温かい感触。おおきなてのひら。顔をあげることなく手を振って振り払う。ぱしん、と軽い音。男から、小さく苦笑する音がした。

「あれ以上深入りさせたくなかったんだ」

「……なんで」

「海賊ってのは、歌って踊って冒険して、そんな楽しいことばかりじゃない。いつか必ず、誰かを傷つけて、命を奪わなきゃ行けない時が来る。それは海賊である以上決して避けては通れねェ道だ」

「そん、なの……」

「おれたちは……おれたちは、お前がそんなことを経験するより前に降ろそうとずっと思ってた」

「そんな、の……」

「お前は優しい子だ、優しすぎる子だ。それはおれたちが一番良く知っている。そんな子に他人を傷つけることなんてさせたくねェ、させるわけにはいかねェ」

それにな、と男は息をもらした。

「おれたちは、お前に、普通に、健やかに生きていてほしかったんだ。海賊なんてアウトローにならずに。お前には、その道があったから」

男の指先が、少女の頬に触れた。そのまま何かを拭うように――その時、ようやく少女は自分が泣いていることに気がついた。床に、或いはサンダルを履いた男の素足に、少女の瞳から水滴が降り注ぐ。ぽつり、ぽつりと。

「それ、でも」

鼻を啜り上げる。頬を濡らす涙は止まらない。少女は顔を上げて、男を見る。

「それでも、わたしは、みんなといっしょにいたかった」

男は、シャンクスは、その言葉にどこか困ったように、けれど少しだけ、嬉しそうに、

「そうか」

と、一言だけ。

ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、少女は男の胸元に縋り付くように顔を押し付けた。どんどんと涙が溢れてくる。濡れていく。

少女は両手を握りしめ、振り上げて、そのまま男の胸板へと叩きつける。

「かってに、きめないでよ」

言語化できる思いがある。

「わたしのきもちもきいてよ」

言語化できない思いもある。

「ばか」

その全てを、男に届けと叩きつける。

「ばか」

叩きつけた拳に体温が伝わる。男の体温。少し低めの、懐かしい、安心する暖かさ。

そして、その下にある心音が伝わってくる。幼い頃、眠るとき。何度も聞いた、落ち着くリズム。

「ばか」

なんども、なんども。頭ではなく、心に伝われと、何度も、何度も、叩きつける。

「ばか、しゃんくす」

「……ああ、おれたちは大馬鹿だな。もっとはやく、ちゃんと話し合っておくべきだった」

そして一際大きく振り上げた拳を、一際強い気持ちとともに、叩きつけた。

「……だいっきらい」

くつくつと、小さく笑う音がした。

「おれたちも、愛してるぞ、ウタ」

少女の名を、呼んだ。

優しい声だ。暖かくて、あれだけ刺々しい言葉をぶつけられたにも関わらず、ささくれ立ったところのないまあるい声だ。

それだけで、少女は理解できた。あの言葉の裏に隠れてしまった思いも、目の前の男はちゃんと汲んでくれたのだということに。

にっと笑っているその少年のような笑顔が、無性に嬉しくて、恥ずかしくて、腹立たしくて。

まるで幼い子供のように癇癪を爆発されてしまった事実に言いようのない羞恥を覚えて、少女の顔に一気に血が昇った。

「なんで照れてんだ」

「う……っるさいな! ほっといてよ!」

耳が熱い。照れを隠すように拳を打ち付ければ、頭上から楽しげな笑い声が降ってくる。

クツクツ笑う男に釣られるように、少女の強張った身体から力が抜けていく。少女の頭を、ゴツゴツとして暖かい、大きな手のひらが優しく撫でる。

今度は、払いのけなかった。

頭を撫でられるまま、少女は泣きながら、猫のように目を細めた。力加減はしているつもりなのだろうけれど、相変わらず乱暴なんだから、また髪を整えなくちゃ、と思いながらも、その懐かしい熱と心地よさに身を委ね、跳ね除ける気は起こらない。少しずつ、少しずつ、ハリネズミのようにトゲトゲしていた心が落ち着いていく。和んでいく。いつかもこうしてもらったな、ずっとずっとこうしてもらっていたな、と沈めていた記憶がふわふわと浮き上がってくる。

驚くくらいあっという間に、少女の心は暖かいもので埋め尽くされて、心が昔に戻っていった。

あの日から止まっていた、十年分の想い。

ぬくもりがゆっくりと離れていく。物足りなくて、少女は思わず顔を上げた。

男と目線が合う。男がにっと笑う。慈愛が降ってくる。

「ウタ、酒はあるか?」

「……お酒?」

「ああ。ここマキノさんの酒場だろう。なんかあるだろ。一杯やろう」

「突然なに言ってんの」

「いいじゃねェか、頼むよ」

あまりにも気の抜けた、緩やかな言葉に、少女は長く大きくわざとらしく溜息を吐いた。

眦の水滴を拭いながら、パチンと指を鳴らせば、シャボン玉が生まれ、カウンターの上で小さく弾けてグラスと酒瓶に変わる。

「おお!」

嬉しそうに笑って、男はそそくさと椅子に腰掛けた。離れていく手のひらを少し名残惜しく思いながら、少女は追いかける。

幼い少女には丈あまりだったその高い椅子も、長身の男が座れば随分と堂に入ったもので、少しだけ羨ましく、同時に懐かしさも覚える。

「あ、ウタ、グラス足りねェぞ」

「目の前にあるでしょ」

「おれのじゃねェよ。お前のだ」

「私、の?」

「ほら、こっち座れ。一緒に飲もう」

そう言いながらとんとんと隣の席を叩く男の顔があまりにも嬉しそうで、子供っぽくて、仕方ないなあと呆れながらも、身体が勝手に動いていた。

「よしよし。コルクは……斬るか」

「乱暴。コルク抜き出すよ?」

「いらねェよ、いつものことだ。……よし、それじゃあ」

甲高い音を立てて瓶の口ごと斬り飛ばされたコルク、耳障りのいい音をたてて注がれる液体、琥珀色に染まった二つのグラス。

どことなく得意げな男はその片方を手に、笑いながらグラスを掲げ、

「乾杯」

「……乾杯」

重なるそれらが、キン、と優しい音を奏でた。

飲んでみろ、と言わんばかりの優しい視線に促され、少女は恐る恐るとグラスに口をつけた。ゆっくりと傾けられた液体が、唇を濡らし、そのまま小さく開いた隙間から口の中へと流れ込んでくる。

「……………………にがい」

舌に触れた味に、盛大に顔をしかめる。あんまり美味しくない。

「まだまだおこちゃまだなァ、ウタは」

げははと笑って豪快に呷った男は、しかし少女と同じように渋面となる。

「………………あー………………まあ、なんだ、随分と…………個性的な………………」

「……仕方ないでしょ、お酒なんて飲んだことない……」

気遣うような男の言葉に、少女は口を尖らせそう愚痴った。

記憶にあるのは、幼い頃酔っ払った義父たちに冗談交じりに勧められたとき。興味もあって舌でなめてみたそれは、子供の味覚にはひどく苦くて、不味くて、涙目になったのを覚えている。以来、少女にとってお酒とはそういう味のものであり……特に何も考えずにこちらの世界で生成されたそれの味がそうなってしまったのも、やむを得ないことである。

今なら、現実で飲めば、少しくらいは美味しいと思えるのだろうか。そうぼんやりと思考する少女に、男は、

「じゃあ、今度とびっきり美味いのを飲ませてやる」

そう言いながら、男は少女の手からグラスをひったくり、

「……うげェ、まじィ……」

一息で呷り、渋面を作って舌を出した。

勝手にグラスを奪っていったこと、せっかく出したものを――少女もそう自覚しているとはいえ――まずいと罵られたこと。文句をつけたい気持ちが小さく湧き出す中、しかしそれを飲み込む巨大な奔流が生まれる。

「こん、ど」

そう、男は言った。

今度。つまり次がある。男は少女を、先へと連れて行くつもりがあるのだということ。

痛いほどに脈打つ、期待に破裂しそうなほどに膨らんだ胸を、少女はそっと抑えた。

「夢だったんだ」

不意に、男が言葉を漏らした。酒瓶に残っている液体をグラスに注ぎ、ゆらゆらと揺らしながら。

「なにが?」

「こうやって、自分の子供と酒を飲むことが」

その一言が、少女の胸を強く打つ。

「……自分で置いてったくせに」

「返す言葉もねェ」

拗ねたような、棘のこもった一言に、男は苦笑しながら何度目かグラスを呷る。ごふっ、と小さくむせる音がする。

「無理しなくていいよ」

「せっかく用意してもらったんだ、無駄にはできねェよ」

「……どうせ偽物だよ」

「それでも、だ」

そう言いながらゆっくり、ゆっくりと飲み干して、男は酒臭い吐息を満足気に吐き出した。

「まずい!」

「何度も言わないで」

「だははは! すまんすまん!」

大口を開け唾を飛ばしながら笑う男に、少女は小さくため息をつく。

全てが懐かしかった。笑う男を見ることも、その姿に呆れることも、隣りに座っていることも。

もしかしたら、夢なのかもしれないと少女は思う。

暖かくて、心地よくて、幸せで、都合が良くて。あまりにも少女が望んだものが、ここには多すぎた。

だから、今際の際に見ている夢なのではないかと、一瞬訝ったのである。

少女は思わず自身のもちもちした頬をつねった。痛かった。痛かったけど、そもそもここは夢の世界であり、少女の世界であり、少女の思う通りになるのだから、少女が痛覚を感じようと眼の前の光景が現実かどうかの証明にはならないな、と思った。

なにやってんだこいつ、という男の生暖かな視線が痛い。少女は少しだけ視線を反らして、迅速に頬の赤みを抜いた。

「なあウタ」

「……なに」

突っ慳貪になってしまうのは許して欲しい、と心のなかで少女は思う。なにせ、十年ぶりの再開だ。おまけに今しがた間の抜けた所を見られてしまっている。照れが口調に出てしまうのである。

男はそれをわかっているからだろう、少女の返事にくつくつと笑った。それが余計に羞恥を煽って、思わず軽く手が出た。

ぺちん。

「いてっ」

ぺちんぺちんぺちん。

「いたっ、痛い痛い、悪かった悪かった」

「バカシャンクス」

つんと唇を尖らせれば、男はまた口を開けて笑う。からん、と溶けた氷が男のグラスの中で音を立てた。

「本当に、寂しい思いをさせて悪かった」

そして、人が気を抜いているときにこんなことをさらっと言うのである。

咄嗟のことに、少女は反応が返せなかった。その言葉を聞いたのはニ回目なのに。馬鹿みたいにぽかんと口を開けたまま、ただ男を見つめていた。男はそんな少女を見ることなく、ただ空っぽになったグラスに視線をやって、そこに何かを見ていた。何が映っているのだろう。男が置いてきた幼き頃の少女、或いは楽しかったあの日々、もしかしたらもしもの世界。

それを、少女に確認する術はない。そしておそらく問いかけたとて、男は答えを寄越さないだろう。

「……おれはな、ゴードンにお前を預けたことを後悔してねェんだ。あいつはおれたちとの約束通り、お前を世界一の歌姫に育て上げてくれた」

「うん。……みんなが、ね」

「ああ」

「みんなが、私を見つけてくれたんだ。だから嬉しくて、みんなの希望になりたくて頑張ってたの」

「そうか」

「……うまく、いかなかったけどね」

そう言って笑ってみせた。鏡を見なくてもわかる、引き攣った下手くそな笑顔だ。画面の向こうからぶつけられたたくさんの言葉は、未だ少女の心に真新しい傷を残している。ゆっくり、ゆっくり、その傷から血を流し続けている。

だが、

「いいや、お前は頑張っていた。よくやってたよ」

「……そう、かな」

「ああ。お前の歌を聞いていたやつらは、みんな喜んでたし、笑ってたじゃねェか。お前の歌は、間違いなく、平和と平等を作っていた」

シャンクスのその言葉が、その傷を柔らかく包み込んでくれた。

「あれは……まあ、なんだ。事故みたいなもんだろ。忘れろ……ってのも難しいかもしれねェが、お前のせいじゃない」

だから、あまり思い悩まないでくれという男の言葉に、少女は目を閉じる。

「……ありがと、シャンクス」

「ん」

しん、と沈黙が場を支配した。

目を開ける。眦に滲むものを指先で拭い、少女はちらと父を見遣る。

その目尻に、小さな皺が浮かんでいることに少女は気がついた。十年。そう言って先に彼を罵ったが、その歳月がのしかかっているのは少女だけではない。昔と変わらず、未だ若々しく見える男の上にも間違いなく同じだけの歳月が過ぎ去っていて、その皺は正にその証左だった。

老年と呼ぶにはまだ早い、けれど確かに刻まれた父の歴史。それがなぜか、無性に寂しく思えて、

「……ありがとう」

「うん?」

「私を、見つけてくれて。拾ってくれて。……育ててくれて、ありがとう」

「……ああ、こちらこそ」

思わず口を衝いた言葉に、男は小さく笑った。嬉しそうに目を細めるその姿に、少しだけ座りが悪くなって、椅子の上でもぞもぞと身動ぎした。

「私が……」

「ん?」

「私が、赤髪海賊団の音楽家だ、って言うの、は……迷惑、だった……?」

恐る恐ると口にした言葉に、男は少し目を見張り、すぐに目を細めて首を横に振る。

「まさか! 嬉しかったよ。子どもが自分たちの背中を追いかけてくれるってのは、親冥利に尽きるもんだ」

「そっか」

「でも」

男がグラスを指で弾く。グラスは、乾いた高い音を立てる。

「もっとちゃんと話し合ってればよかったんだよな」

手持ち無沙汰にグラスをくるくる回しながら、男が呟く。

「大切な宝物だ、大事に大事にしまって、手放したくなくて……。いつか来るはずの日から目をそらし続けていた。お前を海賊にしたくないなんて思ってんのに、まだ小さい子供だから、もう少し大きくなったら、そんな風に言い訳を付けて……、明日なにがあるかわからない生活だってのは、おれたちが一番良く知っていたのに」

「シャンクス……」

「……だめだな、どうにも、言い訳ばかり口にしちまう」

もっと話したいことあったんだがなァ、と男は大きく息を吐きながら大きく伸びをした。

その脇腹を、少女は指先で突っつく。お゛う゛、と変な声を上げて男は身を捩った。

「くすぐったいだろ突っつくな!」

「隙きを見せるほうが悪い」

「まったく、そういういたずら好きなところも変わんねェなお前……」

そう笑って、男はくしゃくしゃと少女の髪を撫でた。

「……帰ろう、ウタ。……あー、いや、お前が嫌じゃなければ、なんだが……」

「今更?」

「うるせェ、こう見えてまだビクビクしてんだよおれは」

男は少女の髪を撫でていた手を、そのまま差し出し、

「帰ろう、ウタ。お前の家に、おれたちの家に。……もし、まだ、おれたちを家族だと思ってくれているのなら」

あたたかいて。だいすきなて。おおきくて、ごつごつした、あんしんするて。

差し出されたそれを、少女は愛おしげに眺める。

帰りたかった。ずっとずっと、帰りたかった。寂しかった。ずっと待っていた。いつか、必ず、シャンクスたちは迎えに来てくれるんだと。恨んでいたときですら、どこか心の片隅で。真実を知ったあとですら、もしかしたら、もしかしたらと希望につなぎとめて。

父の手を、少女は見つめる。ずっとずっと待っていたそれを、少女は見つめる。求めていたそれを、差し出されたそれを、見つめて――





「ウタ……?」

少年の声に、少女は咄嗟に顔を伏せた。

言うつもりのない言葉だった。胸の奥に沈めて、二度と出てくるはずのない言葉だった。

それが、ただただ自分本位の考えから浮き上がって、水面に顔を出した。

少年に、ぶつけてしまった。

「は……」

こぼれる。息がこぼれる。言葉がこぼれる。想いが、こぼれる。

沈めて、沈めて、見えないようにしていた言葉が、必死に閉じようとする口の隙間から染み出すようにこぼれる。

溢れ出す。

「海賊王とか、そういうの、ぜんぶ、やめてさ」

「……おう」

「ずっと、ここに、ここ、に……ここで、楽しいことして、そうすれば、そう、すれば……」

そうすれば、何だというのだろうか。

俯いたまま少女は思う。サンダルを履いた少年の足の先が見える。指の先まで傷だらけで、本当に、どれだけ危険を冒して旅をしてきたのだろう。

ここまでそうやって歩いてきた少年が、今更こんな言葉で止まるはずはない。

わかっている。わかっているのだ。

これがただの、善意という嘘を被せた我侭だということは。

「……ごめん、なんでもない」

小さくつぶやかれた言葉は砂地に染み込み、消える。顔をあげることはできなかった。彼の目を見ることができなかった。あの、宝石のように輝きながら夢を語る瞳が、太陽のような笑顔が、どのようにくすんで、歪んで、少女を見返しているのか、確認する勇気は少女にはなかった。

「ウタ」

少女の名を呼ぶ、記憶の中より少しだけ低くなった声。それに圧し潰されるように、少女は震えながらうずくまる。

ちいさなおんなのこがむずかるように、膝頭に顔を押し付け、小さく小さく、そうすればその場から消えていなくなれると言わんばかりに、小さく、身体を縮めた。

怒らせただろうか。失望させただろうか。呆れさせただろうか。幻滅させただろうか。

顔をあげるのが怖い。少年の目を見るのが怖い。あのキラキラした目が、夢の中のように無機質に、感情をなくして自分を見ているのではないかという思いが頭を離れない。

彼がそんなことをするはずがないと、わかっていても。

小さく、息を吐く音。少女は肩を震わせ、更に身体を縮こまらせる。

違うのだ、と声を上げることもできなかった。

本当はもっと言いたいことがあった。昔みたいに遊べて嬉しかったこと。夢への一歩を踏み出せたことへの祝福。そして、そして――さよならと、言うはずだったのに。

そうしてどんどんと沈んでいく少女の横で、不意に、すっと何かを吸い込む音がした。

「おれは!!!!!」

まるで夜空を切り裂く雷鳴のように。

少女は思わず弾かれたように顔を上げた。星の瞬く夜空に下に、少年は、黒々と揺れる海に向かって叫んでいた。

「海賊王になる!!!!!」

その大音声は、会場に集う海賊船たちへと向かって響く。夜空を切り裂いて。あらゆる音を貫いて。

悲鳴も、破壊も、砲の音も、すべてを飲み込んで、まっすぐに、まっすぐに、無法者たちへと叩きつけられる。

瞬間、少女は世界から音が消えたような錯覚すら覚えた。

「ウタ」

少年の声がする。穏やかで、暖かで、そこに少女を咎める響きなどは微塵もない、柔らかな声だ。

少年は海上を見つめながら、幾多の海賊たちの視線を一身に受けながら、揺るがぬ自身でそこに立つ。

宣戦布告だ、と少女は気がついた。少年の夢の先にいる先人たちへ、おれがお前たちを越えていくのだと一切の忖度もしない、そしてそのことを微塵も疑わない、確信に満ちた声。

逃げも隠れもしない、おれはここにいるぞという、全身での主張。

仁王立つ少年が、その背中が、とてもとても大きなもののように、少女の目に映った。

「おれ、海賊はやめねェ」

少年は頭に手をやって――そこに何も載っていないことに気がついて、手持ち無沙汰に頭を掻いた。視線はブレることなく、前。向けられている様々な感情を真正面から受け止めて、その表情は強気な笑み。

少女には、少年が眩しいほどに輝いて見えた。弛まず進み続けるその姿が、曇りなく立ち続けるその姿が、目に眩しい――やけてしまうほどに。

「悪ィけど、ここに居続けることもできねェ」

「……うん」

わかっていたことだ。彼の歩みは止まらない。彼は歩みを止めない。目の前にどんな壁が立ちふさがっても、どんな障害が阻んでも、必ずそれらを乗り越えて、まっすぐ、まっすぐに進み続けるだろう。

そしていつの日か、必ずや彼は至る。きっと、そう遠くない未来に。

必ず。

遠くなっちゃったな、と思いながら、少女はその眩い姿に目を細めた。昔は隣りにいたのに。私のほうが大きかったのに。先に進んでいたのに。

気がつけば、彼のほうがずっとずっと先にいる。その背中はもう見えないほどに。手を伸ばしても、届かないほどに。

また、置いていかれるんだ。かつての光景が頭を過り、重なって、少女の目にじわりと滲むものがあった。

だけど、

「だからよ!」

だけど少年は、うずくまる少女に視線を合わせるように身をかがめ、

「だから、一緒に行こう、ウタ」

差し出されたのは、色褪せたアームカバー。ぼろぼろになった歪な麦わら帽子。

「これ……」

「おれたちの新時代のマークだ。おっさんの横に置いてあったから持ってきた。ウタのだろ?」

ふたりの、思い出。少女の数少ない心の縁。少年は、覚えていた。覚えていてくれた。

ん、と笑顔とともに差し出されたそれに、少女は恐る恐る手を伸ばした。指先が触れる。まるで熱いものに触れたように、すぐさま手を引っ込めた。

幻覚かもしれない。けれど確かに熱を感じたのだ。そのマークに込められた、少年の――そして、在りし日の少女自身の夢の熱量。

置き去りにした、希望の残骸。

「おれさ、海賊王になるんだ」

「……うん」

「そんで、新時代を作る!」

「しん、じだい」

「ああ。昔、ウタと約束しただろ。おれも、作りたい新時代が決まったから」

「……どんな、夢なの?」

問いかける少女の視線の先で、少年は大きく歯を見せて笑った。

「教えてやんねェ!」

「は……? な、なにそれ……!」

「気になるか?」

「気になるに決まってんでしょ!? 私は教えたのに、ルフィだけずるい……!」

「ししっ、じゃあよ、ウタ」

こっちに来いよ、と少年は――ルフィは言った。

「まだ勝負の決着もついてねェし、おれ、またウタの歌も聴きたい」

少年は彷徨う少女の手を握って、その上にそっとアームカバーを載せた。

新時代のマークが、歪な麦わら帽子が――あの日の約束が、少女を見上げて、見つめている。長年使い込んで色褪せたそれが、まるで何かを訴えるように、滲む視界に歪んで揺れる。

まだ、熱を持っている。

また、熱を持っている。

「こっちに来い、ウタ。独りでいちゃだめだ。ひとりぼっちはだめだ。独りは、痛いよりずっと辛いって、おれ、知ってんだ」

だから、と。ルフィは、印を支える少女の掌を、大きくてゴツゴツとして、傷だらけの掌で柔らかく包み込んだ。

「だから、一緒に行こう。おれ、おまえのステージたっくさん知ってんだぞ」

幼き日、少年の口から同じセリフを聞いたことを思い出す。フーシャ村の外れ、風車の中、遠くまで臨める海に、少女は何を思ったのか。

なにを、おもったんだっけ。

「知ってるか? 空の上に島があるんだ! そこには背中に小さな羽の生えたやつらとか、カミサマのおっさんとか、めちゃくちゃに酒を飲む蛇とか、でっけー木とか遺跡とかがあるんだ」

「そらの、しま」

「砂漠の島もあるんだぞ。本当にずーっと砂ばっかで、暑くて暑くてしかたねェんだけど、それでも街にはひとがたくさんいる! 食い物は美味いしラクダとかでっけーカニとかジュゴンとかいて、あと、おれたちの仲間もいるんだ!」

「さばくの、しま」

「恐竜のいる島もある! 島の真ん中に火山があってな、そこが噴火するとつえェ巨人のおっさんたちが勝負するんだ。何度も何度も、昔から、ずっと」

「きょじんのしま」

「冬島っていってな、年中雪が降ってる島には、きれーな桜って花がたっくさん咲いてんだ!」

「さくら」

「そういやウタは人魚見たことあるか? おれはあるぞ、みんないいやつだった! それに、海の上をでっけェ機関車が走ってたなー」

「うん」

「これ全部偉大なる航路なんだけどよ、それだけじゃなくて東の海にも色々あんだ! 海賊王が処刑された島とか、おれの仲間たちの故郷とか!」

「うん」

「それに、おれがまだ行ってない場所もたくさん、たくさん! きっともっと、想像もできねェほどすげェ場所がいっぱいある!」

「う、ん」

「おれ、みんなにもウタの歌を聞いてもらいてェ。ウタに、いろんなとこで歌ってもらいてェ! だから」

ルフィの掌に、力がこもる。

「だから、行こう、ウタ。うずくまっててもいい。動けなくてもいい。辛いなら泣いててもいいから……おれたちと、シャンクスと一緒に」

一緒に、いてくれ、ウタ。

そう言う彼の手を、握り返してもいいのだろうか。

熱い。ルフィの手が熱い。包み込まれた手が熱い。歪んだ麦わら帽子が、心が、熱い。

視界が滲んでいく。凍らせた心が熱に当てられ溶け出していく。もっと、もっと一緒にいたいと、みんなといたいと、帰りたいと、奥へ奥へ沈めた思いが浮かび上がってくる。

「……ルフィ」

その想いが、涙とともに溢れ出す――






その、瞬間。

「ぁ」

差し出された男の手に、


血色の悪い手のひらを包み込む少年の暖かな手に、


シワだらけの手が、節榑立った手が、水仕事でひび割れた手が、爪弾く弦に裂けて傷だらけになった手が、白い手が、黒い手が、赤い手が、

小さな、小さな手が、見慣れた手が、

そしてその上に、鍵盤のような、

魔王の、

手が、

重なった。


「……ああ」


こえが、きこえる。

こえが、きこえる。


道化のような魔王の顔が見える。その中に、表情のない老若男女の顔がある。

黒塗りの彼らはただただ少女を見つめて、口を開く。声なき声で、一様に少女を責め立てる。


おまえのせいだ。

おまえがやった。

ぜんぶぜんぶ、

おまえのつみだ。


にげるな、


と。


「……そう、だね」


夢に、現実が、追いついた。

心が熱を失っていく。色づいた世界が、あっという間に色褪せていく。

沸き立つ気持ちが沈んでいく。

体中が、重たい鎖にがんじがらめにされていく。


少女の頬を、一筋、何かが流れていく。

大好きな父親の顔を、大切なともだちの顔を、滲んでよく見えないけれど。きっと、たしかにそこにあるそれを、目に焼き付けようと思った。


「ウタ?」


ふたりの、訝る顔に、


「シャンクス」


「ルフィ」


「ごめん」

右腕を振り抜けば、生じた五線譜が男を包み、操られた海賊たちが少年を後ろから羽交い締めにした。

「ウタ?!」

身動きが取れなくなり慌てる二人に、少女は、

「私」

海賊の別れに涙は要らない。

「やっぱりみんなといっしょにいけないや」

わたしはいま、わらえているだろうか。

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