小鳥遊ホシノの嘘と本当の言葉
シャーレの先生は事務作業に追われていた。
各地で起きるトラブルを解決し、戻ったらうず高く積まれた書類を捌く。
細々とした事務作業は苦手で普通なら後回しにしがちだが、現在はそんな弱音など吐いている余裕は無かった。
「ん……先生、ちょっと休んだら?」
「“ありがとうシロコ、でもシロコの方こそ休んで。ずっと寝てないでしょ?”」
「ん……じゃあ少しだけ」
最近になって起き始めた奇妙な事件の数々。
普段は温厚であった人の性格の急変や失踪などが相次ぎ、原因を探ろうと奮闘していた時、シロコがシャーレへとたどり着いた。
アビドスを脱走してきたシロコによって現状を認識した先生は、各地の勢力と連携を取って対策に奔走することになる。
シロコもまた、自身に何かできないかと傍で働き続けていた。
蓄積した疲労という面では、どちらも同じくらいの重さである。
ふらついているシロコをソファーへと寝かせると、数分としないうちに小さく寝息が聞こえて来た。
無理もあるまい。
アビドスからたった一人でここまで来て、それからも先生の護衛として傍で働いていたのだから。
精神的な重圧ははかり知れない。
少しでも寝かせてやろうとした先生の判断は正しかったのだろう。
日は中天に差し掛かり、時計の針もほぼ上を向いている。
起きたら食事を摂らせないといけないな、と自分を差し置いてシロコの様子を心配していた時だった。
「うへぇ~お邪魔するよ~」
「“……え、ホシノ!?”」
「そだよ~おじさん、来ちゃった」
マグカップ片手に堂々と入って来たホシノに、先生は目を見開く。
ここは連邦捜査部シャーレの部室なのだ。
しかもホシノは現在指名手配されている重要人物だというのに、それがどうしてここに入ってこれる?
「“ど、どうやってここに……?”」
「トリニティのセリナちゃんって子ができるならおじさんだってできるよ。これでも人生経験豊富な三年生だからね~」
「“セキュリティはどうしたの?”」
「ああ、あれ? 安心してよ、壊したりしてないから。確かにセキュリティはしっかりしてるけど、ハイテクすぎるのも考え物だよね。信じすぎたら突破されたときに無防備になる」
「“……次から参考にするよ”」
答えになっていない。
だが問題はそんなことよりも、ホシノがこの場にいることだ。
砂糖を広め、生徒をかき集め、キヴォトスに敵対行為を働いている彼女が、こうして先生を害することができる距離にいる。
一度は分かりあえたと思ったホシノだが、今は彼女が何を考えているのか分からない。
信じたいのに信じ切れず、先生としての不甲斐なさを突き付けられている気分だった。
いつものように笑顔を浮かべようとして、引きつってしまうのも無理はないかもしれない。
「安心してよ、今日はシロコちゃんの顔見に来ただけだし、ドンパチするつもりはないよ」
「”……そうだったんだ”」
「そうそう、シロコちゃん元気そうで良かったよ~。先生が保護してくれたんだから大丈夫だとは思っていたけどね。はいこれコーヒー。お疲れみたいだからね~」
ソファーで寝ているシロコの頭を一度そっと撫でてから、ホシノはコーヒーの入ったマグカップを先生のデスクに置いた。
「ブラックにしたよ。好みもあるだろうし、砂糖なんて入れてないから安心して」
「“……ありがとう”」
受け取らないのも失礼か、と黒い液面が揺れるマグカップに手を伸ばす。
恐る恐る近づけた手がカップに触れるか触れないかの時、あーそうそう、と思い出したようにホシノがつぶやいた。
「そういえば先生、今日は4月1日、エイプリルフールだったね」
ホシノが漏らしたその言葉に、先生の手がぴたりと止まる。
このコーヒーは何時淹れたものだ?
まだ湯気が立っている以上、直近でホシノが淹れたのは間違いないだろうが、先生は淹れるところ見ていない。
例え中に何かを入れていたとしても、それこそ砂糖が入っていたとしても、そのまま飲んでしまう可能性が高い。
「どうしたの先生? もしかして私が嘘をついたと思っている?」
「“それ、は……”」
先生は答えられない。
頷いてしまえば、ホシノを疑うことになる。
かといって否定しようとしても、今までホシノがやって来たことを鑑みると否定しきれないのだ。
「『コーヒーに砂糖なんて入れていない』ということが嘘で、本当は砂糖を入れて操ろうとしているとか?」
一口飲んで甘味を感じたら飲むのを止めて吐き出せばいい、というものではない。
先生は砂糖の被害を目の当たりにしてきた。
中には興味本位でたった一口口に含んだだけで、止められなくなった少女もいたのだ。
意志だけで我慢できるような、そんな生易しいものではないと既に知っている。
だから飲めない。
僅かでも疑念があるなら、先生はそれを口にすることはできなかった。
今先生が砂糖を摂取して倒れたり、あるいはアビドスに味方するようなことが起きれば、全ては瓦解してしまう。
「ひどいなぁ。エイプリルフールの話題を上げたのはさ、おじさんはちょっとばかし意見を聞こうと思っただけだよ。ほらエイプリルフールってさ、どこもかしこも嘘で塗れているじゃない? 企業なんてたった一日だけのために、とんでもないホラを吹いてたりもする。だから人の増えて来たアビドスでも、そういったイベントがあったら面白いかなって思ったんだよ。こういった行事はおじさんも大好きだからね~」
「“そうだね、イベントは楽しい方が良い”」
ホシノの言いたいことは分かる。
だが多くの生徒に砂糖を摂取させてアビドスに招いた彼女の用意したコーヒーに、嘘という言葉が纏わる日を絡めて話されては、別の話題だと素直に切り替えることができない。
言葉に詰まり生返事を返す先生を、ホシノは小柄な体躯を利用して面白そうに下から覗き込んでくる。
「ねえ先生、今から嘘をつくから、良かったら付き合ってよ。アビドスのトップともなると、おじさんが適当なこと言ったら真に受けちゃう子も多くてさ。曲解して暴走するかもしれないし、これでも話す時は言葉を選んでるんだよね。だからエイプリルフールだって分かった上で盛り上がれる嘘が欲しいんだ」
「“……わかった。どんとこい!”」
「よ~し、演技派女優のホシノさんの実力を見せてやろう~」
肩を回して気合を入れるホシノ。
みんなが楽しめる嘘を気軽に言うだけなのに、随分と物々しい有様だ。
静かに数瞬瞑目したホシノは、祈るように両手を組んでその色違いの瞳で先生を見つめた。
そうしているとまるで、信心深く日々神に祈りを捧げる敬虔な少女のようだった。
微かに鳴るカチカチとした時計の音すら大きく聞こえるほどの静寂に、先生は目を離せない。
「助けて」
それはあまりにか細く、そしてあまりにも重い言葉だった。
時間が止まったかのような衝撃に絶句する。
「“ほ、ホシノ……?”」
背中に氷柱でも差し込まれたかのようにゾッとしながら、絞り出すように少女の名前を呼ぶ。
両手を離したホシノは、一瞬前までの空気を弛緩させるようにニヘラと笑った。
「な~んちゃって、嘘だよ。本気にした? 考えてみればエイプリルフールの当日にイベントどうしようか悩んでいる時点でお粗末だよね。うんうん、今日の所は先生に嘘ついたから四月馬鹿達成ってことで良しとするよ。シロコちゃんの元気そうな顔も見られたし、それじゃおじさんは帰るね~」
「”……待って!”」
言いたいことだけを言って踵を返してさっさと出ていこうとするホシノを、ギリギリの所で呼び止める。
ここで止められなければ、ホシノとはもう会えないような気がしたからだ。
「“ねえホシノ、エイプリルフールのルールについて知っている?”」
「へ? ルール?」
咄嗟に出て来た言葉に興味を惹かれたのか、足を止めたホシノが振り返る。
「ルールって言っても、嘘をついていい日、ってことくらいでしょ?」
「“基本はそうなんだけどね、実は一部の地域でのローカルルールがあるんだ”」
「ローカル? おじさんは知らないなぁ」
「“元々はオークアップルデーという祝日から来ているんだけどね、その地域では嘘をついていいのは午前中だけなんだ。午後からは嘘のネタばらしをして、翌日以降にわだかまりを残さないようにするんだよ”」
「へ~」
感心したように声を出すホシノ。
確かに嘘をついていい日とは言っても、何を言ってもいいわけではない。
こうしてネタばらしをする時間を明確に設けて、後に引かないようにするのは理解できた。
「“ホシノ……今は何時?”」
「え? 今はお昼過ぎでしょ……!」
先生の質問に、ホシノは壁に掛けられた時計を見やる。
アナログなその時計は、両の針が頂点の12を僅かに過ぎる様子を見せていた。
「“そう、嘘をついていい時間はもう過ぎているんだ。だからホシノ、今からはネタばらしの時間だよ”」
先生はマグカップに手をやり、コーヒーを一息に飲み干した。
僅かに冷めたブラックコーヒーの飲みなれた苦みが舌を刺激する。
そこに味をボケさせるような砂糖は入っておらず、ホシノは全て本当のことを言っていたと確信した。
「”『今から嘘をつく』ということが嘘だ。私はホシノを信じる。ホシノが助けを求める声を、私は嘘にはしない。いいや、したくない”」
「う、へへへ……先生はやっぱりバカだね。麻薬が入っているかもしれないものを、躊躇なく飲み干すだなんて……」
「”コーヒー美味しかったよ、ありがとう”」
引きつった笑いを浮かべるホシノに、空になったマグカップを見せるように掲げて先生は礼を言った。
その姿に言葉にならぬ声をかみ殺すように下を向いて、ホシノは小さく呟いた。
「そう、先生は私の戯言を、嘘にはしないつもりなんだね……できるものならやってみなよ」
「”うん、シロコたちと一緒に、必ずなんとかする。だから待ってて”」
「いいよ、アビドスで待ってる……先に言っておくけど、私はそんな辺鄙なローカルルール認めてないからね」
一言だけ投げ捨てて、今度こそホシノは去っていった。
彼女の気配が無くなるまで見送った後、先生は再びデスクに向き直った。
「”よし、もうひと頑張りしよう!”」
美味しいコーヒーでリフレッシュできた頭で、先生は書類を捌く作業に戻った。
問題児の彼女たちを迎えに行くためにも、この程度の面倒事に長々とかかずらっている場合ではない。
エイプリルフールの僅かな時間、嘘という建前を作らなければ言葉にすることすらできない少女との一時は、先生にこれ以上ない活力を与えてくれたのだった。
『嘘』
シンデレラに掛けられた魔法は12時を過ぎてしまえば解ける。
ならばその後は、本当の彼女を迎えに行くことが決まっているのだ。