小塚原師弟之別離(こづかはらしていのわかれ)

小塚原師弟之別離(こづかはらしていのわかれ)


慶安四年。

 武力蜂起を企てたとして、由井正雪とその門弟たちは捕らえられた。

 濡れ衣である。世に溢れる浪人たちを畏れた幕府は、見せしめを兼ねて、無法な手段に出たのだ。三十余名の張孔堂一門は、由井正雪一味とされ、小塚原にて全員が斬首刑となった。

 以下は、後世に伝わることのなかった、その際の凄惨な顛末である。


 最初に首を切られることになったのは、最も古株の門弟であった。

 憎悪と未練を抱えつつも、もはや粛々と露となるのみ。

 そう覚悟を定めていた彼であったが、いよいよとなった時。役人から掛けられた問いは、彼のその覚悟も、侍として、人として、そして男としての矜持も、一撃で揺るがし、打ち崩してしまった。

「し……したい……! したいで、ござる……!」

 臓腑ごと絞り出すようにそう言うと、後は堰を切ったように、浅ましくも切実な想いが言の葉となった。

「申し訳っ、申し訳ありませぬ、先生っ……! なれど、なれど拙者は……最期に、せめてもの今生の思い出に……正雪先生と、せ、せ……接吻がっ、接吻がしたいでござるぅ……!」

 正雪は、絶句した。

 門弟たちは、彼女と向き合う形で整列させられている。張孔堂での講義の時のようだ。ただし、全員が白装束に縄をかけられ、粗末な茣蓙の上に座らされていた。

「……お前……」

 ようやくそれだけ言って、何か継ごうとして止め、目を伏せた。

 師としての怒りや情けなさ、女としての嫌悪や軽蔑が瞬間的に沸きあがったが、聡明で慈悲深い彼女は、理性と感情の両面でそれを飲み込んだ。

 死を前にして、せめて何か救いを。

 人として、仕方のない欲求であり、それを欲と呼ぶのも酷であろう。

 ただ。

「……わかった。しかし……そんなことで、よいのか?」

 役人は、「最後に何か望みはないか」と問うたのだ。ある程度のことは聞き入れて貰えるはずである。それなのに、自分との接吻などでよいのだろうか、と無自覚な正雪には不思議であった。しかし、役人たちは一様にやに下がった笑みを浮かべていたことからして、わかりきっていたことである。

 門弟たちは皆、正雪を慕っているのだ。もちろん、軍学の師としての敬意はある。それはそれとして、姿も、そして心も、とびきり美しい女人である彼女に、男として焦がれずにはいられないに決まっていた。

「はいっ、正雪先生っ……! 拙者、それさえ叶えば、もはや思い残すことは……いえ、先生の志の助けとなれぬこと、歯がゆくはございますが……満足っ……! 満足に、ござりまするぅ……!」

「……そうか」

 二人の役人が、男を両脇から引きずり上げ、正雪の前へと連れてくる。

「先生っ……口を、お口を、す、吸わせて頂きますっ……!」

「んっ……あぁ……」

 共に、高手後手に縛られている。

 門弟は膝でにじり寄り、前屈みになって、顔を近づけてきた。反射的に引きそうになる身を押し留めて、正雪もわずかに顔を突き出し、彼を迎えた。

 唇が、触れる。

 途端、ギクン、と愛弟子は縛られた体を震えさせ、動きを止めた。感激のあまりに、彼は数秒、忘我していたのだ。かろうじて意識を取り戻すと、ぼろぼろと涙を零しながら、正雪の唇を吸い始める。接吻というよりも、文字通りに口吸いであった。夢中で、遮二無二、男は憧れの女性の唇に陶酔した。

 幸せであった。理不尽で屈辱的な、非業の死すらも、この対価であれば安いと思えた。

「そこまで。もう十分であろう」

 そんな彼の至福の時間は、無慈悲に打ち切られた。わずか三分ほどのことである。けれども彼にとっては、もはや十二分に過ぎた。身に余ることだと思えた。

 二人の役人にまた抱えあげられ、正雪から二間ほど引き離されて、そこに据え置かれる。

 いつの間にか、そのさらに後ろに、抜身を下げた男が立っていた。

 名高き処刑人、山田浅右衛門――ではない。当世にはまだその名と人物はなく、お役目の前任者であり、初代といえる山野加右衛門永久であった。体力、気力ともに横溢した壮年の男であるが、どこか仙人のようでもあり、また幽鬼のようでもある。

 ちらりと後ろを見て、その姿を認めた門弟は、顔を戻すと、少し頭を下げた。その顔は、晴れ晴れとほほ笑んでいた。

「正雪先生。最後に、ひとつだけ、お聞きしたい」

「……なんだ」

「先生は……接吻は、初めてでしょうか……?」

 浅ましく見苦しく、けれども人間らしく振舞ったかと思えば、武士らしい潔さを取り戻しつつ、また滑稽なほどに小さな男ぶりを晒してしまう。人間とは、かくも多面的で、複雑なものである。

「む? ああ。お前とのさっきのものが、初めてであったが……?」

「っ……! 拙者、もはや思い残すことなし! 先生、ありがとうございました。先生の御恩は、そして唇は、たとえ七たび生まれ変わろうとも忘れはしませぬ。それでは先生、皆の衆、お先に失礼いたす。さあ、斬りなされ!」

 れ、の音がまだこの世に残るうちに。山野の白刃が閃き、最古参の門弟の首は胴から離れた。

「あっ……!」

 覚悟はしていた。この世の残酷さは、よく知っているつもりであった。しかし、いざ親しき者、可愛い弟子との別れを、その死を、死したる二つになった屍を眼前にして、正雪は心魂を震わせずにはいられなかった。

「あっ、あぁ……うっ、うぅ……!」

 涕泣を零し、咽び泣きが込み上げるのを懸命に飲み込んだ。

 一方、兄弟子の無残な死体を挟んだ向こうにそれを見た門弟たちの胸に去来するものは、感動である。敬愛する師、正雪先生が、ああまで嘆き悲しんで悼んでくれるのだ。ならば、無法な死も甘んじて受けよう。

 この世の名残に、諦め、押し殺そうとしていた夢も叶うのだし、と。

「次だ」

 師弟にとっては極まった愁嘆場であっても、役人たちにとっては、仕事である。淡々と進められていく。

「先生、先生っ……ずっと、ずっと憧れておりました、お慕いしておりましたぁ……! さらば、さらばです、先生っ」

「正雪先生っ……拙者、先生に懸想しておりました、なれど、ならぬことと、諦めて、いえ、諦めようとしておりました……好きです、先生っ……さようなら、せんせぇ……」

 二人、三人。四人、五人。皆、最後に正雪との接吻を望み、ほんのわずかな時間だけ許され、叶えられたそれを無上の宝物として抱えて、冥土へと旅立っていった。

 異変があったのは、六人目からである。

「せ、拙者は、拙者の最後の望みは、その……せ、先生っ……正雪先生、の、その……ほ、女陰(ほと)をっ……! 女陰にっ、接吻したくっ……!」

「な、なに?」

 泣き暮れていた正雪も、これには素っ頓狂な声をあげて、ぽかんと呆けた顔を晒してしまった。

 だが、しばし停止した後、動き出した思考はやはり聡明かつ慈悲深く、得心する。女のそこは、男にとって、やはり特別なのであろう、と。対象が自分であるということに、そちらの機微に疎い彼女は未だ不思議であったが、気持ち悪いなどとは思わなかった。好いてもらえるということは、光栄なことであり、喜ぶべきことであろうと、生来の純粋さで解釈する。

「ははは。仲間たちは唇で満足したというのに、女陰とは。強欲な男であるなあ!」

 役人の一人が笑い出し、野次を飛ばす。だが、それに腹を立てるには、あまりに切実な状況であった。

「然り! 先生のそこに口づけるなど、所詮拙者には過ぎたことか……ならば、一目っ……一目、拝見するだけでもっ……!」

「……ふむ。よいよい。この世との別れの手向けだ」

「ほら、軍学者先生よ。愛弟子に、最後の教えをくれてやりな」

 先の五人と同様、正雪の前に据え置かれた六人目の男は、即座に前にのめって突っ伏した。

「……うむ」

 躊躇い、恥じらいつつも、正雪は一度膝立ちになってから尻で座り直すと、白く長い両足をゆっくりと開いていった。

 身に纏うは白装束一枚である。隠すものは何もなく、土下座のように首を伏せた愛弟子の眼前に、神聖なるそれは御開帳された。

「おっ、おおっ……うおぉ……!」

 見ただけで、男は射精していた。

 正雪は気づかなかったが、先の五人もやはり、彼女の唇に触れるや、空撃ちであろうとも最後にして最高の一射を遂げていたのである。

「あ、ああぁ……先生、これが、正雪先生……正雪先生の、先生のぉ……!」

目を見開き、一頻りそんな唸りを上げた後、縛られて伏せた身をどうしたものか、男は蛇のように飛びついていた。

「ああっ!?」

 正雪は、流石に戸惑いを露わにした。秘すべき場所、敏感で繊細な場所に、男の口が張りつき、吸いついて、舌を這わせてくるのだ。未曽有の事態、初めて体験する感覚に、正雪は狼狽した。視界が桃色に明滅したまま、役人の静止の声を聞いた。

「先生っ、接吻が初めてだったのですから、やはり、そこへの接吻も……」

「……は、初めてに、決まっておろうが……」

「っ! ならば、先生の御御聖域、男に見られたことも……?」

「せ、聖域? そんな大層なものではないが……生まれたときにだな……」

「ぷっ! ふははは! 先生っ、先生っ……! 拙者もまた満足です。もはや無間地獄に堕ちようとも悔いなし! ありがとうございました、お別れです、先生!」

 首と胴を二つにした屍がすでに五つならぶ刑場に、奇妙に朗らかな風が通り抜けていき、六人目の弟子も旅立っていった。

 さて。そこからである。

「ああ、先生っ、これが先生のぉ……! 美しいっ、華、華にござりまするぅ……! ああ、美味、美味っ! 甘露、甘露ぉ……!」

「正雪先生の子壺、子壺ぉ……ああ、某、身の程知らずにも夢見ておりましたっ……先生の子壺に、拙者の種を、拙者の子を宿して頂くことをぉ……!」

 続く二人は、六人目と同じく正雪の女陰を舐めることを望んだ。

 九人目である。

「ち、乳をっ、乳をぉ……! 先生の、先生の乳房を、拙者吸わせて頂きたく候っ!」

「む……」

 流石にもう、女陰を所望された時ほどの驚きはない。こちらはむしろ、至極納得できるものであった。

 無邪気に母に甘えられた赤子の頃というのは、人の生涯において至福の時であろう。ならば、その母との時の象徴ともいえる乳房を求めるのは、自然なことである。と、世の暗がりを直視しながらも失われることはなかった驚異的な純粋さで、正雪は受け入れた。そんな稀有なる心魂を宿した彼女であるのだから、門弟たちが慕い、憧れ、恋焦がれるのも当然である。

 ところが、その隣に控える、おそらく十人目になるだろう男が、横槍を入れた。

「ま、待てっ。お主まさか、先生の乳房を、両方とも賜る気ではあるまいな!? いかん、それはいかんぞっ……そうだ、右だけ、右の乳房だけにしろ! 左は、先生の左の乳房の初物は、某が頂戴せんっ……!」

「むぅ……口惜しいが、もっともだな。わかった。拙者は先生の右の御乳を賜る。貴殿は左を頂戴しろ」

 特に諍うこともなく、合意が成立した。

 正雪の人徳と教育か、門弟たちは皆仲が良く、理性的である。また、この九人目と十人目になる門弟は、年齢も入門の時期も、境遇までも近しく、特に気心の知れた間柄だったのもあろう。

「ああ、先生の、先生の乳っ、お乳ぃ……申し訳ありません、先生……拙者この乳を、この乳にこうして狼藉を働くこと、なんども妄想しておりましたぁ……!」

 正雪の乳の味わいを噛みしめながら、九人目の首が飛び。

「先生っ、先生の乳っ、御乳ぃ……ああ、美味、美味なりまするぅ……某はこの乳で、先生がこの御乳で、某とのやや子を育ててくださるなどという空想に幾度浸ったかわかりませんっ! どうかお許しを。そして、ああ、さようなら、さようならです、先生っ……!」

 同じく十人目の首も飛んで行った。

 十一人目からは、彼らの願いに正雪は何度も目を白黒させ、不可解さに首を捻りつつ、どうにか理屈を付けて納得することを繰り返しながら、愛弟子たちに冥土の土産を持たせては見送ることになった。

「拙者は、手を、先生の、御御手に口づけたく候っ……!」

 これは、まだわかった。

「ああ、先生……この手を、拙者の手に添え、書を教えてくださいましたな……夜毎に、昼にもふとした時に、先生のこの白く柔らかな手を思い出しては、不徳を働いておりました。何卒ご容赦ください、先生。そして、貴女に身の丈に合わぬ想いを寄せた馬鹿な男がいたこと。どうか心の片隅にお留め置きくださいませ」

「あれは入門してすぐの頃、剣術の稽古の際です。強かに小手を打たれた私に、先生はこの手で薬を塗って下さいました。あの時より、ずっと焦がれて、燃え尽きるほどに焦がれておりました。間もなく土に還りましょうが、拙者は精一杯に燃えることが出来ました」

 足、というのも、それが色香を帯びるものであるとは知っていたので、すぐに飲み込めた。ただし、足といっても膝より上、太腿の場合は、である。膝裏や脛というのは、どうやら男は女の初めてにこだわるらしいと知りつつ、だからといってそんなところでいいのかと疑問であった。時間を告げる役人に、唇か乳房か、一瞬でも加えてやらねば不公平ではないかと申し出ようとしたが、望んだ弟子たちは明らかに満足しきっていたので留まってしまった。

 足の、さらに指をというのは、いや汚いだけだろう、とすっかり混乱した。

「ああ、先生の、先生の足、足、御足ぃ……!」

 だが、桃源郷の幻覚を見ているかのような有様で、一心に自分の足指を舐め回す愛弟子のはずの男を、まるで知らない生き物のように感じつつも、それで満ち足りるならば? と半ば理解を放棄しつつ見送った。

 耳、うなじ、それに臍。

 これらはまだ性的な部位という知識と感覚もあったが、腋。

 さらには眼球に鼻の穴ときては、正雪はもうまったくわからなくなった。

 弟子たちのことさえ、こんなにもわかっていなかったのだ。世を正そう、などとは思い上がりも甚だしかったか。ならばこの理不尽な末路も、あるいは妥当な罰やもしれぬ。そんな奇妙な角度からの納得さえ生まれつつあった。

 極めつけが、

「拙者は、先生の、菊の花をば。先生の、御御肛門をば、最期に味わわせて頂きたく候」

 これである。

 役人たちは意地の悪いことに、手伝うことなく縛られたままの二人にそれをさせた。

 正雪は、彼女の女陰を望んだ弟子たちがしたように上体を突っ伏し、その美貌と肩を地面に着いて、尻を掲げた。白装束の裾が、その小高い臀丘に雲のようにかかってしまう。正雪は仕方なく、爪先に力を込めて膝を浮かし、腰を跳ね上げて、裾を背中へとまくれ返させることに成功した。

 神秘的な異相の美女が突如として披露した、この滑稽で卑猥な舞踊には、幕府の役人たちも魅入っていた。目を見開き、あんぐりと開けた口から生唾を漏らしつつ、賛嘆の呻きを漏らす。野次も揶揄も忘れ、目も心も奪われて、股間を固くさせていた。

「ど、どうだ……? これで……」

「ああ、ああ、ありがとうございます、先生っ……拙者に、拙者にお菊を頂けるだけでなく、そのために左様なことまでして頂いて……! では、では頂きます、先生っ……ん、じゅるっ! ちゅ、ちゅ、ぢゅうぅぅ!」

「あっ!? あっ、ふあぁあぁ!?」

 女陰の時よりも、もっと異常な、不気味な感覚に襲われ、正雪は動揺も露わに情けなく鳴いてしまう。それは念願叶えた門弟に、より一層の感動を与え、彼の舌使いと吸引をありったけの激しいものにした。

「んじゅっ、ちゅ、んじゅうぅぅ! ずぽっ、じゅ、じゅぽっ、ちゅ、ずぽずぽぬぽぉ!」

「あっ、あぁぁ!? そんな、そんなに舐めて、舌を入れてはぁ……ああ、吸われて、吸われるの、変だっ、おかしい、こんな、おかしくなるぅ……ああ、やっぱりそんなところ、汚い、汚いぞっ……」

「いいえ! 綺麗です! んちゅぅ~~~」

「はひぃ!?」

「先生の御御肛門は、汚くなどありません、穢れなど微塵もありません。綺麗です、清いです。この世で最も神聖にして尊き場所と言って相違ございません! ああ、花は桜木など我が国の犯した大いなる過ちっ。花は先生の菊っ、この菊ぅ! 徳川なんぞの菊の紋、笑止千万。臆病な待ちで盗んだ似非天下人にふさわしい汚らしい花じゃ。あはははは。先生のこの麗しさの菊花に比べれば、スッポンなどおよそ月も同然でございますなあ」

 呆けていた役人たちも、流石にこの大放言には泡を食って正気を取り戻した。捨て置くわけにはいかぬ。さらに二人が馳せよって、四人がかりで引っぺがし、殴り蹴りしながら据え置いて、山野加右衛門を急かした。

 彼だけは悠々、幽遊として、ふわりと剣を上段に掲げると、いつの間にか斬り下げている。すぐ真正面で見ていた正雪にも、白刃の走る光さえ見えなかった。

 こうして大いに幕府への留飲を下げつつ、正雪の菊花の味を舌に堪能して、天晴れな門弟の首がまたひとつ胴を離れた。


 たった一刻(二時間)に満たぬ間のことであった。

 しかし、およそ現世のこととも、悪夢にもあるとは思えぬ凄惨なる地獄絵図が描かれ続けた時間としては、長すぎるだろう。

「……嗚呼」

 一人残された由井正雪は、彼女だけ何事もなかったかのように、縄が消された白装束で茣蓙の上に座っている。ただ、その蒼褪めた酷い顔は、美しい造作ゆえに一際悲壮であり、その身魂を打ちのめした衝撃の大きさを物語っていた。

 虚脱した彼女の見つめる先で、三十人余の門弟たちは残らず屍となっている。

 首のなくなった胴体が突っ伏す傍に、胴を離れた首が転がっていた。どれも、よく知る顔である。一人一人の様々な表情も、思い出も、鮮明に思い出せる彼らは皆、ふたつに分かれた死体となって、小塚原の野に晒され、風に吹かれていた。

「……無念」

 するりと零れ落ちた言の葉は、素直な真情であった。

 無念に決まっている。なにも為せぬまま、自分を慕ってくれた門弟たちを道連れにして、この野に朽ちるのだ。精一杯、全力で駆けたと自負する生の終わりが、これほど無意味なのである。

 無念に決まっている。門弟たちに、どうやらわずかばかり報いられたらしいが、それぐらいだ。

 それでも、正雪は死を受け入れていた。彼らの命を散らせて、どうして生きられようか。もはや死ぬより外にない。

「お役人。私にはもう望むところなど何もない。迅く、この首刎ねてくだされ」

「――そうはいかんのだ」

 背後より、そう答えた声は、底知れぬものを感じさせた。

「っ!?」

 悟りの如き境地にあったはずの正雪が、一瞬で俗世に連れ戻され、戦慄に打たれる。

 頭巾で顔を隠した男だ。

 刑場に入る際、見た覚えがある。周囲を固める身分の高い武士たちが、あからさまに緊張していたから、どれほどの大物かと、自分たちもなかなかのものではないかと心中自嘲した。

 だが、この圧倒的な威厳。正雪が推量したより、遥かに上の人物らしい。

「由井正雪。可哀そうだが、お前にはここで死ぬことさえ許されぬ。死ぬよりも、もっと辛い目に、惨い目に遭ってもらわねばならぬのだ」

 ゆっくりと歩きながらかけられる声には、嘘偽りない憐憫の情が込められていた。

「な、なんだと……」

「お前の門弟たちにも、もはや知りえぬこととはいえ、可哀そうではあるがな。彼らが懸想したお前を、清い身のまま逝かせてやることは出来ぬ。お前を所望されているのでな」

 誰が、という疑問を持つことは出来なかった。殺される前に、辱められるというのだ。無法を越えた無法、非道を越えた非道。人として武士として、あるべき道に背くあるまじき行為であろう。その怒りに茹って、明晰な頭脳も発揮されなかった。

「ふ、ふ、ふざけるなっ、ふざけるな……! それが、士たるものの、人の、人のすることか!?」

「――ふむ。人、か。人ならば、よ」

「!?」

「由井正雪。お前は、人ではあるまい」

「な、なぜそれを……」

「おいおい。それは幕府を甘く見過ぎであろう」

「くっ……」

「人ではないお前には、人としての扱いは与えられぬ。人ではない、生きた人形であるがゆえの、使い道というものがあるゆえ、な」

 憐憫の情はありつつ、それを切り離した合理性、冷徹さがある。男は、手を振って役人たちに後ろを向かせると、頭巾をめくって、正雪にその素顔を見せた。

「っ……!? き、貴殿……は……まさか……っ」

 直接見えたはずはないから、森宗意軒から与えられた知識であろう。彼女は、男を知っていた。数百年先にも名を残す傑物だ。

 ――松平伊豆守。

 名高き「知恵伊豆」が、血腥いそよ風吹き抜ける小塚原で、いま正雪の眼前に立っていた。ならば、彼が自ら動くほどの、正雪を所望した人物とは――。

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