嫁とおねえちゃん.5
―たとえ血の繋がりが無くても。
―たとえ一つ屋根の下で暮らしていなくても。
―自分のことのようにその人のことを想いやれるのなら。
―それは、きっと―
★
『MEMさん、B小町のメンバーにならない?』
それは今ガチの打ち上げの帰り道のことだった。アクたんと私の数歩前を歩いていた硝ちゃんが、振り向きざまに突然そんなことを言ったのだ。
『……えっ』
『アク兄から聞いたよ、アイドルのことにすごく詳しいって。それに、さっき僕がB小町の話した時、なんというか憧れに近いもの抱いてる顔してたから』
『もしかしてお前、それを聞くためにわざわざ打ち上げ会に来たのか』
硝ちゃんと初めて出会ったのはあかねが飛び降り未遂をしようとした数日後、今ガチメンバーの前に書類の束を持った彼が現れた時だった。
何でも、ネットで誹謗中傷を行っていた人物を一人残らず特定し、弁護士に依頼して名誉棄損罪として裁判を起こそう、としていたらしい。
まだ幼さを残す、私より一回りも若い少年がたった数日でこれほどの仕事をしてきたことに私たちは大いに驚かされた。
そして彼はその場で、この案に乗るかどうか、私達に判断を委ねると言ってきたのだ。
……まぁ結局、アクたんが考案したバズらせ作戦の方を私達が選んだため、彼の努力が報われることは無かったんだけど。
それを伝えた時の硝ちゃんのがっかりした顔が、ずっと心の隅に引っかかっていた私は、打ち上げ会で彼と再会した時にその件を謝った。
『?なんでMEMさんが謝るんです、別に悪いことは何もしてないでしょう?』
『いやそれはそうだけどぉ……あれだけの仕事してきたのを無碍にしたのは流石に気が引けるというかぁ……』
『いいんですよ、あれは僕が勝手にやったことだから。事前に依頼をもらっていたならともかく、許可も貰わずにやったんだからキャンセルされても文句は言えませんよ』
そう言って彼は屈託のない笑顔を向けてきた。うちの弟達を思い出した。今度久しぶりに電話しようかなぁ。
『それに僕は今、B小町のマネージャーとしての勉強もしてるから、裁判なんてしてたらそっちに時間を取られて大変だったでしょうし』
『B小町……?もう解散してなかったっけ?今年は結成〇周年とかそういう記念でもないし……』
『そう!だけどこの度、苺プロで再結成しました!現在のメンバーはルビ姉と有馬かなさん、今から推し始めれば古参オタ名乗れますよ!』
『ふーん、アイドルかぁ……』
遠い昔の憧れ。儚い夢の欠片。……まあ色々あって諦めちゃったんだけどね。
『MEMさん?どうかしたんです?』
『あ、ううん!何でもないよぉ!というか硝ちゃん、さっきから口調固くない?もうちょい力抜いて話そうよ!』
『いや、誘おうと思ったのはついさっきだけどね?話聞いてていけるかな、って』
『無計画にもほどがあるだろ』
『しょうがないじゃん、だってさ』
月明りに照らされた硝ちゃんの瞳が、私を捉える。
『まだ諦めていない人が目の前にいたら、放ってなんておけないじゃん?』
あぁ、そっか。ずっと勘違いしてたけど私……まだ諦めてなかったんだ。アイドルになること。
ありがとう、硝ちゃん。本当の気持ちに気付かせてくれて。私に手を差し伸べてくれて。
たった一度の人生なんだもん。もう一度目指しても……良いよね?
あの日私は……間違いなく、救われたんだ。硝ちゃんに。
「よく、言ってくれたね。辛かったよね、苦しかったよね……」
華奢に見えて逞しさを秘めた背中を後ろから抱きしめながら、私は右手で硝ちゃんの頭を撫でた。小刻みに震える彼の体を包むように、自分の体を密着させつつ、彼の左肩に自分の顎を乗せる。私の頬に、彼の流す熱い涙が絶え間なく注がれていく。
死んでしまっても誰も、彼はそう口にしかけた。今すぐにでも消えてしまいたいほどの悲しみ、死を選んだ方がまだマシなほどの苦しみ、間違いなくそれらに導かれて放たれた心からの言葉だ。
でもね、硝ちゃん。
「硝ちゃんがいなくなっちゃったら、私、悲しいよ……ううん、私だけじゃない」
ルビーも、アクたんも、かなちゃんも、あかねも、ミヤコさんも。私が名前すら知らないたくさんの人達だって、絶対悲しむはずに決まってる。
硝ちゃんはいつだって誰かのために動いてきた。あかねの件も、私をB小町に誘ったことも。
JIFに向けた猛練習の時も、アクたんとかなちゃんがギクシャクして気まずかった時も、東ブレの舞台で原作者と企画側が揉めた時も、宮崎に行ってからルビーの様子が変わって私達との間に隔たりが生じ始めた時も、最近になってアクたんの様子がおかしくなってからも……決して表舞台に立つことはなかったけれども、硝ちゃんがいなかったら私達はここまで仲良くやってこれなかったかもしれない。
今日フリルちゃんから聞いた話だってそうだ。-硝ちゃん、どうしてフリルちゃんがこんなにも硝ちゃんのことを想ってくれてるか、分かる?
「愛されてるんだよ、硝ちゃんは。みんな硝ちゃんのこと、かけがえのない存在だって思ってる」
ピクッ、と硝ちゃんが小さく震えた。その震えすら包み込むように、回した腕にそっと力を込めた。
「……でも、父さんは、僕を」
「最初の役目はさ、そうだったかもしれないよ?アイさんのためだけに生まれて、アイさんのためだけに生きる。それだけ。アイさんがこの世界からいなくなっちゃって、元々の役目が無くなっちゃって、壱護さんもそのせいで硝ちゃんを見切ったのかもしれない」
私にも、お父さんはいなかった。お母さんと弟達を支えるために、がむしゃらに働いてきた。そんな時、もしある日突然目の前に現れた父親から、お前は誰々さんのペットとしての価値しかない、なんてことをいきなり伝えられたら、私でもきっと耐えられない。
ずっとミヤコさんのために頑張ってきた硝ちゃんだって心に受けたダメージは同じか、それよりも大きいだろう。自分の命の価値を全て否定されるなんて、考えたくもない。
「でも、その後に硝ちゃんは自分で自分の居場所を見つけたんだよ。誰かに与えられた居場所じゃなくて、自分が望んで立ちたい場所を」
本当は誰よりも傷つきやすいのに、誰よりも人の痛みに敏感で。不器用なのに、その人を助けようとどんな時でも一生懸命になれて。
それなのに自分が辛い時はそれを口に出さないで。誰かに痛みを分けることを恐れて、自分一人で何とかしようとして。
本当に健気だ、健気すぎて涙が出てきた。
でも、だから、みんな君のことが好きになったんだろうね。
「私は、血も繋がってないし、同じ屋根の下で暮らしてないし、所詮他人だ、って言われたらそうだよ、ってしか答えられないよ、けど、ね……」
他人が他人を想いやっちゃいけない、なんて法律は世界中どこにだってない。
辛いなら、怖がらなくていいから、素直に話して。もっと信じて、頼ってほしい。
「硝ちゃんのこと、本当の……家族みたいに、大切に思ってるから……!」
もう限界だ。防波堤が崩れて涙が滝のように流れてきた。
心が痛い、硝ちゃんの痛みがまるで自分の痛みのように感じられてくる。
『なんとなく、分かるんです。その人が何を感じているのか、何を考えているのか、直接言葉にされなくても』
今ガチの打ち上げ会で、硝ちゃんからこんなことを言われたことがあった。その時は半信半疑だったけど、今なら正直に信じてあげられる。
―君も、口には出さなかったけれど、ずっとこんな感じだったのかな。ごめんね、気付いてあげられなくて。
私の号泣に釣られたのか、硝ちゃんまでもしゃくりあげるように泣き始めた。二人して涙の大洪水だ。
その時、ふわっ、と暖かいものが私と硝ちゃんを包んでくれた。フリルちゃんの両腕だった。
硝ちゃんを私と一緒に挟むような体勢で、フリルちゃんの手がそっと私の背中をさする。
その手がとても温かくて、優しくて。
―昔、小っちゃい時に泣き止まないと、いつもお母さんがこうやって慰めてくれたなぁ……
そう思ったら、ますます涙が止まらなくなっちゃった。
硝ちゃんも、私も、心の汚れを全て洗い流すほどの激しさで、わんわん泣いた。
泣き止むまでの間、フリルちゃんはずっと私たちを抱きしめてくれていた。