嫁とおねえちゃん.2

嫁とおねえちゃん.2



「硝太?」


それは、テーブルに飛び散った紅茶を丁寧に拭き取り、お会計のために席を立とうとしていた時のことだった。

テーブルの向かいに座っていたフリルちゃんが喫茶店の窓の外を見ながら、突然私のよく知った名前を口にしたのだ。




見間違えるはずがなかった。

喫茶店の、私達が座っていた席。道路に面した窓から見える歩道の上を、私の大切な人が歩いていた。

まだあどけなさの残る顔貌。赤みがかった茶色の髪。間違いない、硝太だ。

ただ、一つだけおかしな点があるとすれば。


「―どうして」


なぜ、サングラスもヘッドフォンも付けずにこの人混みの中を彷徨っているのか。


人混みが苦手だ、という話は以前彼自身から聞いたことがある。

何でも、不特定多数の人達の考えや思いが自分の心に流れ込んできてしまうんだとか。

だから彼は、人が多い場所に行くときは常にサングラスをかけ、ヘッドフォンを付けていた。

余計なものが入ってこないようにするため。自分自身を守るため。


それなのに、今歩道をふらふらと歩いていく彼は、そのどちらも付けていない。

それどころか、目は虚ろで、足取りもおぼつかない。傍から見ても普通じゃないのは明らかだ。


"このまま行かせてはいけない"

私の中の本能が警報を鳴らしていた。


「ごめんなさいMEMちょさん、お会計お願いします。私、硝太を捕まえに行くので」


「え!?ちょ、フリルちゃん!!」


自分の支払い分の小銭をテーブルに置くと、面食らったMEMちょさんを置いて、私は店を飛び出した。

慌てて、硝太が向かった方向へ走っていく。すれ違った人達がこちらに視線を向けてくるけど、知ったこっちゃない。

ほどなくして、交差点手前で彼を見つけた。

彼は先ほどと同じ歩調でまっすぐ歩いていた―赤信号の横断歩道に向かって。


「硝太っ!!」


脇目も振らず、彼の肩に手を伸ばし掴んで引き止める。危なかった。あと少しでも遅かったら……。


「…………フリ、ル?」


まるでスローモーションのようにこちらを振り向いた彼。

その顔を覗き込んで、思わず息を呑んでしまった。


まるで死人のような、生気を吸い取られたような顔。

光ですら飲み込みかねない、漆黒を宿した瞳。

私の知っている、美しい硝子玉のような青年の面影は、どこにも残っていなかった。


「っ……赤信号を渡っていいのは、みんなと渡る時だけ!一人で渡らないで!!」


こんな時でも冗談じみたことを口走ってしまう自分にほんの少し嫌気がさす。

それでも、ほんの少しでも、彼が笑ってくれたら。


「え…………あっ」


駄目だ。笑ってくれるどころか、顔の筋肉一つ動かしてはくれない。

ゆっくりと自分が進もうとしていた方向を見て、彼はようやく事態を飲み込んだようだった。


「……赤、だったんだ。ごめん、フリル。それとありがとう」


こんな時まで律儀だ。どう考えても自分が大丈夫じゃないっていうのに、君は……。


「……何が、あったの?」


問いたださずにはいられなかった。本当に心配だったから。

それでも、私の中で考えられる可能性はただ一つにまで絞られていた。

今日彼が言っていた「外せない用事」、それが彼に何かとてつもないダメージを与えた。そして周りが見えなくなるまで、聞こえなくなるまで追い込んだ。


「それ、は……」


硝太が言い淀む。彼は嘘が一切吐けない。だから、言いたくないことがある場合は、必ず沈黙する。

きっと、言葉に出すことすらためらわれることがあったのだろう。

―それでも。


「おぉ~い!フリルちゃ~ん!!」


そこへ、小走りでMEMちょさんが追い付いてきた。うっかり私が店に置き忘れた調理器具までちゃんと持ってきてくれている。


「っはぁ、はぁ、足速過ぎ……って、あれ、硝ちゃん?」


硝太の存在に気付いたMEMちょさん。でもすぐに異変に気付いたらしい。


「えっと、硝ちゃん?どうしたの?元気なさそうだけど」


「MEMちょさん、今から硝太を私の家に連れていきます。一緒に来てくれませんか?」


「え?!いきなり何!ってか良いのホイホイ男の子連れ込んで!?」


「この状態の硝太を放っておけないので。それと、私一人だと荷が重そうなので、MEMちょさんのおねえちゃんパワーを貸してください」


MEMちょさんは一瞬鳩が豆鉄砲をくらったついでに「ω」の口になったような顔をしたけど、事の重大さに気付いたのか、


「……分かった。ミヤコさんにはこっちから連絡しておくから」


二つ返事でOKしてくれた。流石私の最推し。今すぐチャンネルのいいねボタン100万回押してあげたい。


「硝太も、良いよね?」


「………………」


硝太は何も言わなかった代わりに、黙って頷いてくれた。



今の彼はまるで、雨に濡れた子犬のようだった。

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