姉様と父上

姉様と父上






 痛い程に張り詰めた空気の中で炭が爆ぜる音と男の上擦った呼吸音だけが静寂を掻き乱す。

 男は辛うじて動く頭だけを持ち上げて勝手知ったる様子で暖を取る女をどうにか視界に収める。暗がりの中、橙色に浮かび上がる紅葉の柄は封じ込めた筈の記憶を嫌でも呼び起こす。

だから男は自分の妻には決して紅葉柄の着物を贈らなかった。密かに言動に滲ませたねだるような物言いにも気付かぬ鈍い男の振りをした。

「恨みを、晴らしにでも来たつもりか」

 女に届くのがやっとのか細く震えた声でも一言発するごとに男の割かれた腹からは血がごぽりと溢れ白い布には汚れが広がっていく。

 緩慢な動作で姿勢を変えた女の、返り血が跳ねた頬を洋灯が照らす。男と同じ沈んだ黒色の目と視線がかち合うよりも僅かに早く、男は咄嗟に瞼を半分ほど伏せる。

 女の顔は男のそれとよく似ていた。男と似ていない部分は、男がかつて戯れに愛を囁いた女と似ていた。

だから男には女の顔を直視する事が出来ずにいる。娘の形は己の犯した罪の具現そのものだった。

「恨み、とは違うように思います。あなた、これを覚えていたでしょう?」

 女は自分の着物の袖を摘まんで振るって見せた。かつては彼女の母が着ていたであろうそれは既に端が男の血で濡れそぼり二度と本来の役目を果たせそうになかったが、それでも女は一人満足げに頷いた。

「贈った着物の柄のことまで覚えていてくれたのなら母も少しは報われるでしょう。できれば葬式にくらいは来て欲しかったですがね」

 淡々と話す女に恨みや憎しみから来る感情の揺らぎはなく、ただ静かに男の反応を受け入れていた。

男の中には僅かでも母への情が残っていた。それだけで女は満足だった。たとえそこに女の存在がどこにも無かったのだとしても。

「そういえば勇作さんにお会いしましたよ」

 突如飛び込んで来た男の嫡子の名に浮かんだ脂汗が一筋流れて襟に染み込む。

「立派な方ですね。姉様姉様とまとわり付かれたのには驚きましたが、山猫の子は山猫だと揶揄する者達から健気にも守ってくださる。品行方正、眉目秀麗、成績優秀……なんと聯隊旗手まで務めあげた。さぞご自慢の子息なのでしょう?」

 女はゆるりと立ち上がって、畳の目に足袋の裏を滑らせながら男の前に立つ。右手に握った短刀から男の血がぽたりと一滴落ちてまた女の着物の裾を濡らした。

「でも本当は勇作さんに死んでいて貰った方が都合が良かったのでは?」

 膝を付いた女が逃がさないと言わんばかりに伏せた目元を覗き込む。

同じ形の瞼を細めて嘲笑う女に、男はとうとう追い付かれたのだ。

「日露では無能な指揮官のせいで多くの兵が死にました。そのせいで父を、息子を、孫を、兄弟を、夫を、恋人を……それらを失った者は数多い。けれど勇作さんが死亡率の高い旗手を務め、その任を全うする事なく戦地に散っていたならば。師団長殿も一人きりの我が子を失ったのだと多少は風当たりも和らぐ」

 決してちゃちな保身からではなく軍人としての性が同じ結論を弾き出していた。女の言うとおり皆に愛される立派な息子を失っていたならば、愚かな父の面目は保たれた。何をするにしても、微かに残った求心力は役に立ってくれただろう。

「ねえ父上、今ならまだ助かりそうですね」

 嗤う女の短刀が傷口に添えられ、中身に触れる。命を握る愉悦がそこにあるようで、どこか縋るようでもある。

 そんな女の様子に男が気付くよりも早く更に身を寄せ、いっそう蠱惑的な色を滲ませながら男に囁いた。

「みっともなく声を上げて助けを請うて……誰か人でも来ようものなら私も私の協力者もただでは済みますまい。けれどもし、このまま大人しく私に殺されてくれるのならば……」

 腹の中身がぐちゃりと鳴って、誘惑は畳み掛けるように続く。

「勇作さんを師団長にして差し上げましょう」

 いよいよ男は息を呑んだ。舌をなめずる山猫の爪も牙ももはや男の想像を超えた所にまで及んでいるらしい。

「何も酔狂でこんな事言っちゃあいません。アテぐらい有りますとも」

 もはや男は戯れにいたぶられる弱った獲物でしかない。喉笛を食いちぎられるか、爪で裂かれるか、せいぜいがその程度の差だろう。

「選んで下さい、父上」

 女の問いに、男は青ざめた唇を開いた。




 女の前で馬車の扉が静かに開かれる。中で待っていた額当ての男は女の血で濡れた指先に躊躇いもせずしっかりと手を取って、女を馬車に迎え入れた。

「ありがとうございます、鶴見中尉殿。おかげで父と話せました」

「お父上は君になんと?」

「ただ一言。呪われろ、と」

 女は堪えきれないとばかりに吹き出して、なんとか小さく抑えた笑い声を上げて身を震わせる。

 そうして額当ての男に身を寄せ体を預ければ、慰めるように肩を抱かれるであろう事を女は知っていた。御者の男が不機嫌そうに手綱を強く握り締める事にだって気付いていた。

 山猫の爪が瀟洒に整った男の肋骨服に小さなほつれを作る。

今はまだこれだけで充分だ。




いつもの三行

父「勇作はお前なんぞの手を借りんでも自力で師団長になれるが~!?」

姉「わかる~~!!では○ね」

弟「また私の知らない所で姉様が暴走しているような気がする!」




Report Page