女神の影

女神の影

61氏より


 フローレンス・ナイチンゲールの献身的な看護を受けて深い敬愛を抱いた兵士は、ランタンを手に去ってゆく彼女の地に落ちた影に口付けたと言い伝えられている。

 授業はロクに聞いちゃいないから、何でそんな話になったか前後は知ったこっちゃない。ただそのエピソードだけは妙に記憶に残って、そして今、思いもよらない形で掘り起こされていた。


「ウッッッッッッッ冴ちゃん!! 冴ちゃんの影のナカに出すよ!!!!」


 ……凛は風邪で休んだ日の、学校からの帰り。発熱する弟にゼリーとアイスを買ってやるために、スーパーに寄りたくて、いつもは通らない近道を使った。

 そこで途中からヒタヒタと足音をさせ追いかけて来たのが、現在も一定の距離を空けて後を付けている知らない変態野郎だ。

 振り返って目を合わせたら何をされるかわからないから、どんなに気色の悪い言葉を吐かれても擬音を出されても視線を向けないように努力はしている。しているが、一度カーブミラー越しにうっかり見てしまった。

 自分の両親よりも歳のいった頭髪の薄い、中年と呼ぶべきか老人と呼ぶべきか迷いの生じるような男が、そこだけ若者のような雄々しさでそそり勃たせた大きな“モノ”をしごいて自分の影にぶっかける瞬間──冴はそんなものを目撃したのだ。

 咄嗟に肺の中の空気を全て吐き出し、それから上手く吸えなくて、数秒ほど絶息した。短時間で何度も何度も放ったのか、変態の後ろにも白い汚物の塊が点々と路上に残されている。悪い意味で目の眩む光景。

 直接ぶっかけられるよりマシじゃないか。地面なら掃除もしなくていいし。何分もこうしているんだから襲ってくるつもりも無いだろう。ただ気持ち悪いだけの無害な不審者だ。……そう必死に言い聞かせ、痙攣する肺と喉で無理やり呼吸を再開させる。鏡から視線を逸らす。歩き出す。いつまでも止まっていると、このまま蹲って消化途中の昼食をぶち撒けてしまいそうだった。


「ハァッ、ハァ……冴ちゃん……直に触れるのも恐れ多い、ボクの小さな女神……」


 無視しろ。無視しろ。無視しろ。

 己に命令して足を動かすスピードを速める。

 妖怪や幽霊と同じで、こういう奴らはこっちから応じてはダメなのだ。クソ。早く家に帰りたい。

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