奈落の夢(前編)
※児童性的搾取を思わせる表現、若干のセンシティブ表現があります。
夢を見る。いつもの夢を。
まだ自分の記憶が今よりも残っていたあの頃。『エラン・ケレス』の姿に変えられてから、それほど経っていなかった昔の夢だ。
そこでの自分は、様々な学習をさせられていた。本物の代わりに通う事になる学園のカリキュラムを、早急に詰め込む必要があったからだ。
強化人士として選ばれる前にも基礎的な学習はしていたが、より専門的なものに切り替えられ、当時の自分は追い込まれていた。
なにせ学習以外に強化人士としての仕事も並行して行わなくてはいけない。学習と実験、どちらか一方ではなく、両方ともに高水準を求められた。
散々に体や脳を酷使されたあと、最後に一日の仕上げとして調整台の上でパーメットを流される。具体的に何をしているのかは知らないが、強化人士としてのパフォーマンスを維持するために必要なものなのだと聞かされていた。
調整が終わると、いつもぐったりと脱力して台の上に凭れ掛かってしまう。調整中の痛みや苦しみから解放され、後に残るのは体をすぐには動かせないほどの深い倦怠感だけだ。
そんな自分の体を、今日も誰かの手が触り始める。顔、首筋、鎖骨。服の上から上半身をなぞられ、それを何度も繰り返される。
不快だ。
あまりの悍ましさに鳥肌が立つ。
怒りを持って目を見開くと、いつの間にか、自分の視点が切り替わっていた。
調整台の近くに立ってその様子を眺める今の自分と、調整台の上に寝そべったまま理不尽な蹂躙を受けている昔の自分。
夢の中なのだから、自分が二人に分かれていても何らおかしい事ではない。
すんなりと受け入れた自分は、目の前の光景を無感動に眺め続けた。
もうすでに顔すら覚えていない当時の担当者が、まだ体の出来上がっていない少年だった自分に覆いかぶさっている。
切り離された自分とは違って、今まさに被害を受けている自分の方は、怒りが継続しているようだ。
もうひとりの自分は、まさしく子供のように怒った顔をして男を睨んでいた。気持ち悪そうに顔を歪めて、頬を赤く染めている。
少し違和感はあったが、夢の中の鈍い頭ではその正体に気付かなかった。
担当者…自分からすると変質者以外の何物でもない男が、今度は下半身を触り始める。
つるりとした未成熟な少年の足を、太ももから足先にかけて何度も往復しては擦っている。
切り離された昔の自分が苦しんでいる。けれど今の自分は何をしようという気も起こらず、ぼうっと調整台の近くにただ立っているだけだった。
その内、ぼんやりと目が霞み始めた。周囲の色が淡くなり、周りの景色が歪んでいく。
ああ、起きるんだな。
どこまでも冷静に夢の中の自分が思う。
汚らしい泡沫の夢。泡が弾ける最後の瞬間に、何となく男の方へと目を向ける。
───節の目立つ見慣れた手が、汚れのない白い制服を脱がしていく。
最後に見たのは、そんな光景だった。
「………」
目が覚める。エラン・ケレスはゆっくりと起き上がると、痛みを堪えるように目を瞑った。
恐らく今日も悪夢を見た。けれど、いつもの夢とは何かが違っているように感じる。
覚えていないのだから断定は出来ない。エランは前髪をくしゃりと掴むと、悪夢を振り切るようにしてベッドから出た。
毎朝のルーチンワーク。けれど今日はコーヒーではなく、昨日買ったココアを作る。出来上がったものは酷く粉っぽい味がして、一口飲んだエランは思わず顔を歪めてしまった。
自室であまり美味しいとは思えないココアを飲みながら、日課のニュースを流し見る。
一通り見終わっても特に物音がしないので、エランはふと思いついた事を追加で調べ上げてから、もう一度ダイニングへと向かっていった。
とりあえず、朝ごはんの用意をするべきだろう。
昨日手を付けなかった方のスープと粥を冷蔵庫から出して、別の鍋で温める。もし彼女が起きる前に冷めてしまっても、もう一度温め直せばいい。
「お、おはようございますっ」
暫くして、慌てたような様子のスレッタ・マーキュリーが現れた。
いつものようなゆったりとしたシャツに、今日は学園の制服のような丈が長めの白いハーフパンツを履いている。
普段よりよほど露出は少ないのに、ハーフパンツを見た瞬間にエランの心臓はドキリと跳ねた。
「すいませんっ、寝坊しちゃいました」
「構わない。…おはよう、スレッタ・マーキュリー。昨日の残りで良ければいま温めてる」
「ありがとうございます、エランさん。スープとお粥があるなら、朝は小さめのパンケーキだけ焼いちゃいますね」
「うん。…体調はどう?」
「大分いいです。エランさんの買ってきてくれたお薬を飲んで、体を温かくして寝たらすごくスッキリしました」
笑顔のスレッタにほっとする。何故だか自分が許されたように感じて、緊張して強張った体からゆるゆると力が抜けていく。
「いま代わるから、少し待ってて」
「はい」
エランはかき混ぜていた粥入りの鍋の火を切ると、その場所をスレッタに明け渡した。温め終わった鍋は敷物の上に置いて、あとは器に盛るだけの状態にしておく。
交代したスレッタは手際よく混ぜたタネをフライパンに落として、いつものパンケーキを作り始めた。
無意識なのか小さく鼻歌が聞こえてきて、本当に体調が良いのだと分かる。
「飲み物はいる?」
「いえ、今日は汁物が多いので大丈夫です。でも、食後に作ってくれますか?」
「分かった。任せて」
「えへへ」
表面上は、何も気にしていないように思える。むしろ自分の方がよほど動揺が長引いている有様だ。
スレッタの強さを垣間見たようで、エランは思わず苦笑した。本当に、彼女には敵いそうにない。
「出来ました!」
「ありがとう、じゃあ食べようか」
「「いただきます」」
昨日とは少しスープの種類が違うだけの、似たような食事。
それでも、和やかな空気は昨日とは比べられないほど息がしやすいものだった。
「今日はコーヒーとは違う物を作るよ」
エランは食後に宣言すると、約束していた飲み物を作り始めた。
インスタントコーヒーとは違い、小さな鍋を用意してそこに粉と砂糖を入れる。あとはほんの少しの牛乳を入れてひたすらに練り上げていく。
ペースト状になったら更に牛乳を足していき、温まったら完成だ。
「はい、どうぞ」
「わぁ、ココアですね」
「うん。体を温めるにはいいと聞いたから」
正確には生理中にいい飲み物と聞いたのだが、それを口に出して伝える勇気はなかった。本当は昨日出せればよかったのだが、色々とあったので忘れていたのだ。
スレッタは目を細めて嬉しそうに笑うと、一口ずつゆっくりと飲んでいった。
「はぁ、美味しいです」
「よかった。最初作った時は粉っぽかったんだ。端末で調べた方法で作ってみたんだけど……うん、口当たりが良くなったかな」
エランとしてはもう少し甘くない方が好みなのだが、覚えた作り方が先に粉と砂糖を一緒にするやり方だったので、仕方がない
スレッタの為のココアなのだから、彼女が喜ぶならばそれでいい。
「ホットココアとハチミツのキャンディをひとつ…」
「え?」
唐突に言われた言葉に、エランは目を瞬いた。
ホットココアと、ハチミツのキャンディをひとつ。
聞いたことがないフレーズだが、何かの物語に登場する有名な言葉なのだろうか。
首を傾げていると、スレッタは懐かしそうな顔をして説明してくれた。
「ホットココア、思い出の味なんです。わたしがぐずった時に、よくお母さんが作ってくれました。ハチミツのキャンディもひとつ添えて…」
「………」
プロスペラ・マーキュリーとの思い出の話だ。彼女はよく水星での事を話してくれるが、直接プロスペラの事に言及するのは珍しい事だった。
エランにとってはスレッタを奪おうとする敵だとしても、彼女にとってはとても大事な母なのだ。
スレッタの言葉は続いていく。
「お母さんのホットココアは甘くて、美味しくて、すっごく温かいんです。わたし、大好きでした。それを飲むと、機嫌がどれだけ悪くてもすぐに直ってしまって、よくお母さんに揶揄われてました」
「………」
優しいばかりの、温かく綺麗な思い出の世界。
スレッタが教えてくれる、彼女の大切な記憶の世界だ。
「スレッタ・マーキュリー、その…きみのお母さんとは…」
すぐには会えない、と言おうとして言葉が尻すぼみになっていく。
会えない、ではない。エランは意図して会わせないつもりでいる。
なのに、彼女に希望を持たせるような嘘を言うつもりなのだ。
エランは自分がとてつもなく卑怯で汚い存在のように思えてしまって、それ以上言葉を出せなくなってしまった。
不自然な沈黙をどう理解したのだろう。スレッタは深く頷くと、逆に慰めるように話しかけてきた。
「大丈夫です。分かってます。少なくとも、すぐには会えないって…。わたしは、エランさんと一緒にいます」
「───」
「エランさんのホットココア、とっても美味しいんです。お母さんのと、同じくらいに。…また、作ってくれますか?」
「……作る。作らせて欲しい」
「嬉しいです」
無邪気に笑うスレッタの顔が、エランの目にはとても眩しく輝いたものに見える。
自分がどれだけ汚らしくなっても、彼女はいつまでも綺麗なままでいて欲しい。
その為なら、自分は何でもできる。…そう思えた。
………。
また夢を見る。昔の夢だ。
調整台の上に乗せられる自分と、それを近くでぼんやりと見ている自分。
担当者の男が覆いかぶさり、また少年だった自分を好き勝手に触っている。
同じような夢でも、細部は少しずつ違っているようだ。
今日の自分は少し困ったような顔をしていた。困惑と、少しの羞恥。…怒りの表情は浮かんでいない。
こんな日もあったのだろうか。…あったのかもしれない。
担当者の男は検査着を脱がそうと四苦八苦している。ゆったりとした服なのに、何をそんなに苦労しているのだろう。
鈍い頭ながらも疑問に思っていると、ようやく景色が歪み始める。今度はだんだんと周囲が暗くなり、室内なのか外なのかも分からなくなっていく。
もうすぐ泡沫の夢から覚める。そう確信すると、外していた視線をまた男の方に向けた。
暗闇の中、そこだけ淡く浮かび上がるように、オレンジ色の何かが見える。
泡と共に弾けながら、その一瞬を目に焼き付ける。
───最後に見えたのは、揺れ動くジャボと、柔らかな曲線を描くインナースーツを着た誰かの姿だった。
「………」
エランは今日も午前中のモビルクラフトの操作を終えた。予定していた時刻より大分早い段階で仕事が終わるのだが、今のところ追加での仕事が回ってきたことはない。
おそらくクーフェイ老から仕事を教わっていることを、上の役員も知っているのだろう。
その老人は、少し前から下でエランを待っている。先日に手助けをしてもらってから、今日が初めての対面だ。
モビルクラフトを所定の位置に戻すと、各種簡単な点検をしてから機体から降りた。
「クーフェイさん、この間はありがとうございました」
恐らくだが、初めて自分から話しかけたかもしれない。クーフェイ老はチッと舌打ちすると、妹は大丈夫だったかと聞いてきた。
妹ではないのだが、それを訂正するつもりはない。エランはこくりと頷くと、簡単にその日のスレッタの様子を老人に説明した。
自分たちにしては随分と朗らかな会話を行いながら、工作機械がある場所まで歩いていく。この会話が誰かに聞かれているなんて思っていなかった。
「な、なぁ、カリバン。君、妹さんがいるんだって?」
「………」
昼間の食堂。たまに食事を一緒に取る事になった上役と、その人に付いて来ている職員の一人がエランのそばにやって来た。この二人は同じ時間に昼休憩を取るようで、よく一緒に食事をしている。
初日に大立ち回りをしてしまったので、周りから遠巻きにされているエランの近くは空いている席が多い。まずは上役の男が自分の対面に座り、その横に職員の男が座るのがいつものパターンだった。
上役の男はこの地域一帯の工場を運営する一族の末子で、単なる工場の上役よりも重要な立ち位置にいる人物のようだ。
そんな彼から、『妹』の話が出てきたことにエランは驚いた。
「……なんですか、その話は?」
『妹』の話などクーフェイ老以外に話したことなどない。もしや、あの老人から漏れたのだろうか。
口が軽いとは思えないが…。
訝しんでいると、職員の男が話しかけて来た。
「いや、俺が偶然クーフェイ爺さんとの話を聞いちゃったんすよ。具合が悪くなった妹さんって聞こえたから。…もう調子はいいんすか?」
職員の男の話に納得する。彼は毎日のように工場内を見回りしては、仕事が滞りなく進んでいるかを確認している。同様に他の職員と話している姿もよく目にする。
どうやら同時に工場内の情報収集も行っているらしく、その日集めた噂などを纏めて上役の男に報告しているようだ。
今回も偶然聞いた会話からエランに妹がいると知り、これも噂話の一つとして上役に報告したのだろう。
仕事内容はともかくとして、彼自体は気のいい男ではある。
今も『妹』を心配する様子を見せる職員に頷いて、心配はいらないと返事をする。
「もう大丈夫です。ですが、あまりその話は広めないで頂けると助かります」
ただし、牽制はしておく。これは職員の男ではなく、上役の男に対しての方が大きい。
上役の男は職員の男に噂話を持って来るように命令するほど、目新しいものや珍しいものを好んでいるようだ。
自分も目を付けられていて、こうして時折昼食を共にしている。
彼の口から『妹』の話が広がるのはあまり歓迎すべき事ではない。スレッタに繋がるような情報は出来るだけここで塞き止めておきたい。
さらに、エランが危惧すべきことがあった。上役の男。彼は、無類の女好きでもあるのだ。
特に人妻や、すでに付き合っている人がいる女性にコナをかけ、一時の遊びを持ちかけるのを至上の喜びとしているそうだ。
そのことで起こるトラブルはすべて金で解決しているらしい。正直に言うと、あまり近づきたくないし、近づかれたくない男だった。
「カリバンの妹なら、可愛いんだろうなぁ。少し会ってみたいな。紹介してくれたまえよ」
案の定、上役の男は『妹』の存在に興味を持ったようだ。エラン・ケレスの容姿は優れているので、その妹なら美しさは保証されていると思ったのだろう。
「───お断りします」
「え」
エランにとってはごく当たり前の返事に、上役の男は呆けたような声を出した。今までは彼の権力に抗う事ができず、家族や配偶者を差し出した者がいたのかもしれない。
けれど、エランにとって彼女を差し出すなどありえない話だった。
「彼女を誰にも会わせる気はありません」
彼女は…スレッタは、エランが命と引き換えにしてでも守りたいと思っている存在だ。
その彼女を、興味本位で穢そうとする男など、許せるはずがない。
相手が誰だとしても、彼女を害する存在など…許せるはずがなかった。
「この話はもう二度としないでください」
そう言い放った自分の目が、どんな色をしていたかなどエランは知らない。
不満はあれど、出来るだけ平静に…感情を表に出さないように注意をしていたつもりでいる。
だから。
彼を見る自分の目が。
まるで『緑の目の怪物』のようだとは、今のエランは気付かなかった。