天啓IF

天啓IF


 さぁちゃんと、いっちゃんが亡くなってから、一年が過ぎた。私はというと、私のように遺されてしまった、さぁちゃんの教え子の啓くんと共に生活をしている。

 二人が亡くなったあの日から、私の心は、ぽっかり穴が空いてしまった。埋められない寂しさが、私の胸の奥でずきずきと痛みを放っている。そして、その胸の穴を埋めるために、私はいつからか彼を求めるようになった。先に手を出したのは、私だった。あれは、半年前のことだったと思う。

 「それじゃあ、また来ます。お休みなさい。」

 あの日も啓くんは、いつものように私の世話を終えて病室から去ろうとしていた。いつも通りの夜の病室…の、はずなのに。なのに私の目には、いつもより克明に孤独が姿を見せていた。いつもなら、特に何も思わないのに、今日に限っては「また、ひとりぼっちだ」という思いが胸を締め付ける。

 啓くんがいなくなれば、私はまたこの狭い篭にひとりきり。私はひとりが怖かった。誰かにそばにいてほしい、誰かで私のこの孔を埋めてほしい!そんな思いが溢れ出して…

 気がつけば私は、彼の袖を掴んでいた。

 「天音さん?どうしたんですか?」

 「寂しいの。一緒にいてほしいの……」

 「……わかりました」

 優しい顔でそう微笑んだ彼は、そっと私の隣に身体を横たえた。学生の頃はどこか中性的だった風貌も、がっしりと随分逞しくなっていた。でも下まつげや鼻筋、指先にはまだ幼く柔らかい、女性らしさのようなものが残っている。頼もしく、そして端麗な顔立ちに私は思わず見惚れてしまっていた。そして…気付けば私は、彼を思い切り抱き寄せていた。

 今思えば、私は酷い女だ。彼が妹に恋慕していることも、口には出さぬとも妹が彼を密かに想っていたことも、全て分かっているのに、なのにこんな、想い人の死に付け込むような真似をしている。本当に酷い女……

 急に抱き寄せられた彼は驚いて、私の顔と自分の体を掴んで離さない腕を交互に見比べていた。

 「えっと、天音…さん…?」

 私の名前を呼ぶその声は、戸惑うような声音をしていて、逞しいその身体とは裏腹に若々しい愛らしさを漂わせていた。

 

 「…………ごめんね」

 その言葉は誰へ向けられた謝罪なのか、俺にはとても分からなかった。そしてその日から、俺と天音さんは、引き返すことなど出来はしない地獄へと歩みを進めていくことになってしまう事も、その時の俺には、まだ分からなかった。

 朝、鳥の囀る音で目を覚ます。見慣れたシングルベッド、見慣れた自分の部屋。そして……見慣れた、先生と撮った写真。昨日の柔らかい感触は、未だに全身にはっきりと残っている。軽くシャワーを浴び、一人分の朝食を作り、一人には似つかわしくない大きさのテーブルで朝食を食べ、着替えを持って俺は病院へと向かった。

 病室の戸を軽くノックすると、中から「はーい」と軽い返事が帰ってくる。

 「入りますね」病室に入った俺の目に、天音さんの顔が映る。それと同時に、昨日の様子が、鮮明に思い出される。褐色の柔肌、美麗な銀髪、豊満な肢体…恋い慕っていた“あの人”とよく似た姿。そして…俺達が犯してしまった罪。世界に取り残された者達の傷の舐め合い。埋まらないと分かっているはずの孔を、お互いの肉体で埋めようとするためだけの行為。純愛とは程遠い、一夜の過ちを。

 だが、当の天音さんはというと、そんな事していないとも言うような、いつもと変わらない素振りで明るく俺に笑顔を向けてくる。その笑顔が可愛くて、俺は再び性懲りもなく興奮してしまった。

 にしても、今日の天音さんはいつにも増してやけに明るい。先生や一花さんが亡くなってからというものずっとどこか沈んだ表情をしていた彼女が、鼻歌を歌うほど明るいテンションをしていた事実は喜ばしい一方で、俺の胸の隅に僅かな違和を感じさせた。

 話を聞いていると、天音さんのテンションが高い理由がなんとなく見えてきた。何やら、医者から退院の許しが出たらしい。俺が来次第、荷物を纏める準備を始めるらしかった。

 「良かったですね、天音さん」

 なんとなく、そんな言葉をかけた。

 「そうね、本当に良かった…」

 そう言う天音さんの顔は、どこか蕩けていて、俺に触れる天音さんの指先は、どこか淫靡だった。そしてその時、俺はやっと初めて気が付いた。俺は…本当に、取り返しのつかない分岐点を、最悪の方向へ舵を切ったまま通過してしまったのだ、と。

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