大学における法と礼を考える

大学における法と礼を考える

名無しの権兵衛

孔子は、社会の安定のためには「法」だけでは不十分であり、礼が必要だと言った。私は大学の規則にこれが当てはめられるのではないかと考え、これについて考察したいと思う。まず大学における「法」と「礼」の定義についてだが、「法」とは大学から学生側に課される規則のことである。これに対して「礼」は学生自身が自分で自分に課す規則である。

近年、京都大学では新しい規則が次々に増えている。たとえばタテカン規制が始まったり集会規定が厳しくなったり、またコロナが始まってからの課外活動制限などである。これら一つ一つについて詳しく見ていきたいと思う。

まず、タテカン規制について考えていく。以前は京大構内に勝手に立てることができたタテカン(立て看板)だが、今ではタテカン規程という規則ができ、大学の許可を得ないといけない、許可を得ても短い期間しか立てられない、責任者の情報を明記しないといけないなどの事項が定められている。規程の根拠としてはタテカンが京都の景観を損なうこと、台風などの時にタテカンが危険であることなどが用いられている。タテカンの種類は多種多様でサークル情報の宣伝や芸術的な絵画、はたまた政治的な内容を含むものまで。不特定多数の人が通るところに自分たちの主張を掲げられる。多くの人にその主張を見てもらえる。あんなにも自由で開放的な情報の発信手段が他にあるだろうかと思う。Twitterはものすごくバズらない限りフォローしている人などの共通の界隈にいる人にしか届かないし、道端に広告などを掲げようと思えば多額の資金が必要になる。タテカンは資金がなくても人脈が狭くても情報を発信できる唯一無二の手段であると思う。さらに、これは個人的見解ではあるがタテカンは京大や京都の守るべき伝統的文化であると思う。タテカンの問題に「法」と「礼」を当てはめてみると、「法」は大学側が学生にタテカン規程を出すこと、対する「礼」はタテカンを書いている学生たちが自分たちで道徳的な基準に照らし合わせて考えながらタテカンのあり方、立て方を決定していくことである。孔子は「法令によって民を導き、刑罰によって民を治めようとすると、民は法令や刑罰の裏をくぐって恥じることもない。道徳によって民を導き、礼儀によって民を治めることで、民は悪を恥じるようになり、反省するようになる」と言ったが、これはタテカン問題にも当てはまると思う。大学側はタテカン規程に「規定により撤去を求めたにもかかわらず、立看板が撤去されない場合、本学は、当該立看板を撤去することができる。」と書いてある手続きを行わず無許可のタテカンは即座に撤去してタテカンを撲滅しようとしているが規程を無視して許可を得ずにタテカンを立てる人は後を絶たずその場しのぎの対応になってしまっている感がある。そこで「礼」のやり方、すなわち大学側は過度に悪い景観を作り出さないように気をつけることや災害時に人に危害を与えないように工夫することなどを学生側に求め、その道徳的な基準に基づいて学生がタテカンのあり方を決めるようなやり方で進めるべきだ。そうすれば、例えばタテカンが倒れて人に危害を与えてしまったときなどに学生側は自分たちのタテカンの立て方を反省してどうしたら良かったのか考えるようになるだろう。景観に害があるかどうかを考えながらタテカンを立てる、危なくならないように安全なタテカンの立て方を学生の中で継承していくそういう方法でタテカン問題を解決することは十分に可能だと思う。大学から与えられた「法」によって規制するよりもずっと効率的で良い解決法だと感じる。

次に集会規則についてだが、京都大学にはキャンパス内で集会をできるのは本学職員、学生生徒の団体で、総長の承認したものまたは官公庁または団体で、そのつど総長の承認するもののみで基本的に学外者の参加は認めないという規則がある。規則そのものに根拠は書いていないが、キャンパス内の他の学生の迷惑になることや集会の開催主体が京都大学全学自治会同学会と関係ないことなどが説明に用いられたことがある。そもそも集会一般について考えてみると、集会を行う権利は自由権の一つとして基本的に皆に認められている。大学の中の問題について同じ問題意識を持っている人が集うことは、社会の中で集会が民主主義に必要不可欠なものであるのと同様に重要なものである。大学内の問題について主張や問題意識があるとき、同じ問題意識を持っている人たちと集ってその主張をキャンパス内で全学に向けて発信することは大きな影響力を持つし問題意識を広めるために重要である。この件について「法」と「礼」を当てはめると、「法」は大学が集会についての規則を学生に対して出すことであり、「礼」は集会のあり方を集会を行う学生自身が考えて行うということである。この「礼」に従って集会を行った場合、集会を行ってもしかしたら苦情がでたり誰かに迷惑をかけることもあるかもしれないが、自分たちで考えた理倫理で行っているから反省してやり方を変えたり、色々話し合って試したりすることでよりよい集会のあり方を形作っていけると思う。孔子の「法」より「礼」という考え方の通り、大学が集会を行わないように学生に命じ、それをやぶったら刑罰を与えるようなあり方ではなく、学生自身が道徳的な基準をもとに集会のあり方を考えていくやり方が良いと思う。

続いてサークル等の課外活動制限について考えていきたい。コロナ禍になってからサークルは夜の活動ができなくなり、同時に活動できるのは3人までという規制がかかった。しかし、よく考えてみるとコロナは朝だろうが夜だろうがうつる時はうつるし、うつらないときはうつらない。夜だから活動してはいけないというのははたして合理的なのだろうか。繰り返しになってしまうが、「法」より「礼」も考えに従って、活動する時間は学生自身が考えて活動すれば良いのではないだろうか。規則に書いてある時間にどうしても活動しないと重要な大会やコンテストに進捗が間に合わないというようなことは十分考えられるし、昼は他のことで忙しく、夜をサークルの時間帯に当てたいというような学生だっているだろう。大学側が提示している規則はそういったしょうがない事情を抱えた学生を切り捨てるものであるように思える。この場合において「法」とは大学がサークルなどに対して活動時間や活動人数の上限を決めることである。それに対して「礼」は学生自身が自らの道徳に則って活動時間や活動人数を決めるということである。そして例えば狭い部室で大人数での活動を行ったためにクラスターが起こってしまったとして、そのときに大学側は人数が多かったことを責めるのではなく、自分たちでリスクマネジメントできていなかったこと、すなわち「礼」がなっていなかったことを責めるべきであると思う。

大学において大学改革が進められているが、これは大学における「法」の重視、強化であると感じる。なぜなら大学側の規則はどれも学生の行動を具体的に規定するものであり倫理的なことや「法」の根拠を説いていることはほとんど無いからである。「法」は大学を安定な場として維持していくために手っ取り早い方法であるかもしれない。しかし、孔子の考えの通り、法は具体的に規定するものであるから時代の移り変わりや変化に対応できないし、強制的・外圧的であるために一時的な応急措置にしかならないし反発を生みやすい。時代の移り変わりに対応しできるだけ多くの人が納得する形で大学という場を安定的に維持していくためには、学生自身が禍考えた節度やけじめを用いて作られる規則で大学を維持していく「礼」のあり方が必要だ。

ここまで色々書いてきたが、まとめると現在大学内では法が重視される傾向が高まっている。しかしそれでは長く安定して大学を維持していくことはできないし反発も起こりやすく大学のあり方として良くない。学生自身が考えて様々なことのあり方を決定していくのが大学のよりよいあり方だと感じる。

 

 

参考資料

・京都大学立看板規程

https://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w002RG00001405.html

・京都大学学内集会規程

https://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/kitei/reiki_honbun/w002RG00000287.html

・集会の定義について

https://www.kyoto-u.ac.jp/sites/default/files/embed/jaeducation-campusclimaildocuments2019a0425.pdf



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