夢は変わらず

夢は変わらず


※ifDR本編風SSの続きです。



 争いの本質が椅子取りゲームだとして、最初から椅子を与えられなかった者はどうすれば良いのだろうか。


 奴隷に産ませた奴隷の子。帳簿上、消耗品に分類される存在として、その少年は生まれる。

 所有者の血を半分引くも容姿は醜く貧相。彼は幾度も払い下げられ続けた。

 所有者の子から農園主へ、さらに農園主の子、そのまた子どもへ。齢十に至る頃、彼は巡り巡って自身の姪の奴隷となり、生まれた家に引き戻される。


 姪にあたる少女は少年を通常の使用人として、まるで家族のように扱った。


「あなた、名前は? 嘘、名前もない? お祖父様もお父様も考えが古いのね」


 少女は少年に文字を教え学を与え、自身の隣で学ぶことを許す。


「真似して書いてみて。“トレーボル”、あなたの名前。気にいるといいのだけど」


 少女は微笑み、枷を外した。


 少年は知っている。少女に本来贈られるはずであった仔犬が前日になって死んだこと。場繋の玩具が自分であること。与えられた名は本来仔犬のものであったこと。

 美しく心優しい主人に仕える醜くも幸運な従者、その真似事が彼の仕事であった。


 ある晩、主の家に神が来た。頭に被り物を被った人型の神だ。

 醜い従者を可愛がる主、その奇特さが神の目を引いたのだという。

 二人はこの晩、神の所有物となった。


 神が二人を捕らえたのは娯楽のため。『悪魔の実』を奴隷に与えて戦わせ見世物にする、そんな遊びが神の国で流行っているのだと言う。

 少女が得たのは吹けば消える程の弱々しい火の力。少年が得た力はと言えば、醜さに輪を掛ける粘液の力。

 神々の前で対峙した二人には殺し合う道しか残されていない。戸惑う少年の目前、優しい主の仮面を奪われた少女は一等醜い顔を晒していた。


「お前のせいで。お前が死ね!」


 言葉と共に放たれた火。それは粘液に燃え移り、小さな爆発を起こした。少年の身体は弾け飛び、少女は能力を制御できず燃え盛る炎に撒かれ命を落とすこととなる。

 この結果は神々を大いに笑わせ、気を良くした神は少年を殺さず、ただ棄てることにしたのだ。


 さて、少年が廃棄されたのは元の居場所。始まりの所有者、つまりは血縁上の父が住まう屋敷の軒先である。

 神の訪れにより使用人が逃げ出した家。そこは二体の死骸が残されていた。一体は父。もう一体は名もなき女奴隷。

 朝焼けの中、少年は死骸を押し退けて食卓につく。

 腐りかけたスープの冷たく甘い味わいと共に振り返るのは一夜で得た学びだ。


 少年は知った。

 上には上が、下には下がいること。それは容易にひっくり返ること。

 どんなに高潔を装おうと人は堕ちるモノであるということ。上手くことが運べば、堕落の先に神の如き享楽が待つこと。

 少女は自身の零落と死を以て、この世の全てを教えてくれたのだ。


 空となった皿を見つめ、少年は思う。

 満たされない。この程度では何も満たされはしない。


 神によれば、この世の富や財には限りがある。その多くは神の物であり、『下々民』は搾りかすを啜りあっているそうだ。

 限りあるものを奪い合う。だからこそ、人は争うのだろう。

 争いの本質は椅子取りゲーム。最初から椅子を与えられなかった者がどうすべきかなど決まっている。

 与えられなければ奪うのみ。

 簡単な話だった。



 スラムに住まいながら、元主達の財を元手に、武器や情報を扱う商人として身を立てる。快く生き心地良く堕ちるには金と権力がいるのだ。

 手足を増す内、自身が動かずとも彼らが動くようになり楽が出来るようになった。

 だからこそ、油断したのだろう。


 本日奪ったモノは悪魔の実。己やかつての主が得た物とは比較にならないほどの価値を秘めた、とっておきの果実だ。

 腐敗した海兵と海賊、取引する両者の裏で糸を引き、潰し合わせて得た極上の収穫物である。

 そう、奪取までは順調だったのだ。

 確かに敵性勢力の壊滅確認を怠った。しかし、まさか単騎突っ込んでくる手負いの獣がいるとは思わない。

 突如現れた死に体の海兵は組織のアジトである廃屋で暴れに暴れ、トレーボルの手足達を捥いでいく。

 無様に地に伏せ、迫る銃口に死を幻視した時、目の前が赤く染まった。


 海兵の頭上、通気口から飛び降りてきた少年が海兵の首を掻っ切ったのだ。

 助かった。そう思ったのも束の間、少年が手にしたものを見て目を剥く。


 今後の命運を左右するはずの宝。海兵と海賊が奪い合うほどに希少な果実。億を超える価値を有する強力な悪魔の実。


 それが既に齧られているではないか。


「な、はァ……?」


 呆気に取られたトレーボルを尻目に少年は脱兎の如く走り出した。慌てて粘液を放ち捕まえようとするが、海兵が暴れ回ったせいで死体や物が散乱し射線が確保できない。少年もそれを理解しているのか物陰を縫うように走り抜ける。


 残されたのは無惨に死んだ手足達と海兵に、壊滅したアジト。

 悪魔の実が鎮座していた机の下には蓋の開いた宝箱が転がっていた。

 そろりと中を覗き込む。

 海賊共から奪った財宝入りの宝箱。金貨と宝石が山と敷き詰められていたはずのその箱は、よく見れば二重底になっていた。


 してやられた。


 思わずその場に座り込み、項垂れる。

 最悪だ。宝は奪われ組織はほぼ壊滅状態。金も知識も武器も残ってはいるが、ここ数ヶ月は手足共に丸投げしていたため、いざ自力で動くとなると面倒が先に立つ。

 残った手足はといえば、悪目立ちするため計画から外した悪童三人くらいのもの。


 ふと、思い返す。

 悪童三人。いや、ヴェルゴだ。


 同郷の仲間を殺され消沈していたはずのヴェルゴ。ここ数日は急に生気を取り戻し、せっせと食糧や何やらを集めていた。

 一丁前に好いた女でも出来たかと思っていたが、考えてみれば、あれは惚れたはれたというより親鳥のような在り方だ。


 宝を齧った鼠。やけに小綺麗で、スラムの空気に馴染まない毛並みの良い子ども。


「成程なあ……」


 昏い声が倉庫に響く。

 今回の計画は破綻した。しかし、一度は手にした宝。奪われたものは奪い返さなければならない。

 悪魔の実が鼠に成り変わっただけのこと。捕まえ躾けて、芸を仕込んでやればそれで済む話である。

 何にせよ、まずは確保だ。今度こそ、横から掻っ攫われないようにしなければならない。


 粘液を引きずり、男は動き出した。



 数日後、鼠は呆気なく捕まった。

 柄にもなく、捕獲というより保護に近しい形である。火の海に飛び込もうとする少年と彼を必死に押さえ込むヴェルゴを見つけ、慌てて介入したのだ。

 頭を殴り気絶させた少年を新たなアジトへと運ぶ。


「んねー、あの中に誰かいたのか?」

「彼の妹がいる、らしい」

「『いた』だ。ありゃ死んでる」

「トレーボル!」

「静かにしろ。起きる」


 ヴェルゴが暑苦しく声を張り上げるものだから、手を振って制止した。

 大声はまずい。気絶させたとは言え一時的な処置。錯乱に近い状態だったのだ。今起きても面倒だろう。

 そう思いソファに寝かせた少年を見れば、彼は既に目覚めていた。


 虚な瞳。まるで亡霊だ。

 そう思う。


「ロー、すまない。おれが声をかけたばかりに。荷物などおれが運べば良かった」

「ちがう。おれが悪い。ぜんぶ」


 ヴェルゴが声を詰まらせながら謝罪するが、少年はかぶりを振り再び目を閉じた。



 また数日が経ち、少年はベッドの上で起き上がり、食事を摂れるまでに回復した。

 回復したはず、なのだが。


「おい、鼠。食事だ」

「必要ない」


 にべもなく断る少年。一応、返事はするものの拒絶以外の反応はない。

 面倒臭さのあまり、早々に投げ出したくなってきたトレーボルである。


「ヴェルゴが可哀想とは思わねェの? お前のために必死なのにねー」

「……関係ないのに」

「スラムは一蓮托生。関係ねェなんてことはないってのがここのルールだ」


 少年の手を掴み、スープの入った器を押し付ける。贅沢育ちにありがちな癇癪持ちとは違うようで、少年は黙って受け取った。その上で、口をつけずにサイドテーブルに器を置く。


「なんで面倒を見てくれる。おれはあんたから宝を奪ったのに」

「宝を奪われたのはおれが間抜けだったからだ。お前にゃ助けられた。危うく死ぬところだったんだから、むしろ儲けだわ」


 少年は口を引き結んで眉を顰めた。『死』という言葉に反応している。それが分かっていてわざと口に出した。


 これまで、ヴェルゴとトレーボルで何度も語りかけた。しかし、当の少年本人に生きる気力がない。死んだような目をゆっくり瞬かせては空返事を返すばかりだ。

 とはいえ、贅沢者の緩やかな自殺に付き合う気は毛頭ない。一度冷静に考え直す。

 ヴェルゴの話によれば、少年は自身と妹の命を繋ぐためにオペオペの実を奪った。火事の日、少年は『摘出も移植も成功した』と言っていたそうだ。


「拾った命は大事にするもんだ」

「分かってる」


 返ってくるのは全く意思の宿らない返事。届いていない。少年自身を主格に話を進めても意味がないのだろう。

 さらに思考を巡らせる。

 医療知識のある、良家の子ども。兄妹。親はいない。危険を冒してまで海兵を殺した。オペオペの実。移植。


「ねーねー、お前の身体はお前だけのもんじゃねェんだよなァ?」


 反応があった。成程この路線か、とトレーボルはサングラスの奥で目を細める。


「そいつを殺しちまってもいいのか?」

「ちがう、そんなつもりは」

「そいつはお前の中で生きてるのに、お前が死んだら全部なくなって終わりだぞ」

「おれの中……」


 届いた。

 これまでとは違い、視線が揺れる。明らかな動揺が細波のように少年の全身へと広がっていく。


「おれの、中」


 噛み締めるように繰り返した少年はそっと自身の腹を撫でた。指は上へと滑り、胸の上で止まる。


 沈黙の中、ノックの音が響いた。


 入ってきたのはヴェルゴ。全身が黒ずんで汚れている。しばらく躊躇った後、彼は煤けた手を差し出した。


「奥は崩れていて入れなかった。手前の部屋の、多分、鞄の中身だ。鞄は床に張り付いて取れなくて、これくらいしか」


 そこにあったのは溶けて歪んだ小さな金属。原型を止めていないが恐らく元は髪留めだったのだろう。

 少年は呼吸すらも忘れたような有様で、手渡された金属片を呆然と見下ろした。


「すまない」


 謝るヴェルゴの目を見返し、少年は口を開く。だが、言葉どころか声も出せず、喘ぐように細い息だけが漏れた。

 そんな失敗を何度も繰り返した後、少年の喉からひしゃげた嗚咽が溢れる。

 金属片を握る両手を額に押し付け、息を詰まらせて震える少年。唇でも切れたのか、涙と共に流れる血。


 ヴェルゴの背を押し、少年を一人残して部屋を出た。扉の向こう、堪えきれず次第に大きくなる声は言葉の形をなさない。

 矮躯に抱えきれぬ感情全てを絞り出すように、少年は一晩中泣き続けた。


 翌朝、静かになった部屋。宝物を抱くように身体を丸め、少年は眠る。瞼が醜く腫れ上がり、身も世もなく嘆いた痕跡が其処彼処に残る姿を見て、ヴェルゴが唇を噛み締めた。


「大切なものだと思ったんだ」

「んー?」

「あんなもの、見せない方が良かった」


 トレーボルにしてみれば、むしろ遺品などという概念をヴェルゴが理解していたことが不思議である。

 スラムの人間の『大切』とはただ必要性を示す言葉。物を測る尺度は使えるか使えないかの二極。宝物などと言う贅沢は意味合いすら理解できない者ばかりだ。

 そんな人間が去り行く者のよすが、ましてや溶けて崩れた金属片などに何の価値を見出せるだろうか。

 ヴェルゴと鼠。ヴェルゴの仲間が死んだ頃、二人は出会った。経緯からして、恐らく鼠自身が何かの弾みで教えたことがあったのだろう。


 悔やむヴェルゴの肩を叩き、トレーボルは笑う。


「そうでもない」


 テーブルの上には空となったスープ皿。

 少年は感情という贅沢を全て吐き出し、生きる上で必要なスープを飲み下した。

 それは彼なりの決意の表れであろう。

 スラム外の価値観と高度な医療知識を持った幼い子ども。さらに言えば、惨事を経て思考に隙があり、誘導しやすくなっている。間違いなく使える部類の人材だ。

 今回の件で組織は再出発を余儀なくされた。このスラムを離れ、別の場所でやり直すのがいいだろう。いっそ互いに新たな名を付け合い、家族の真似事をしてもいい。

 胸に空いた穴と喪ったモノ。完全に成り代わることは出来なくとも、素知らぬ顔で空席を埋めることは容易い。

 結局のところ、スラムに落ちるようなゴミクズの人生は徹頭徹尾、全てが真似事なのだから。



 時が立ち、組織も大きくなった。

 かつての鼠も今や一廉の悪党。彼は旗揚げの面子と個々に約束を交わしていた。

 トレーボルとトラファルガー・ローの約束。それは約束というより契約に近い。


『年に一度、勝負をする。その結果、敗者は勝者の願いを一つ叶える。約束を違えた場合、敗者はその全てを勝者に明け渡す』


 他の面々とは違い、遊びの延長でしかないこの契約。

 これまでに両手両指では追いつかない数の勝負が行われ、トレーボルはその全てに勝利してきた。当然だ。元よりローから勝負を持ちかけることなどない。有利な条件下でのみ勝負を行えばいいだけのこと。

 つまり、この契約の本質は、年に一度、ローがトレーボルの願いを叶えるという点にある。他の面子が一つに絞った望みを年更新式にして利を得た形だ。

 ここ数年の願いは単純。『トレーボルが向こう一年に起こす悪事全てをローの名において行ったものとすること』である。


「おれはてめェの隠れ蓑じゃねェ」


 そんな文句を言いつつ願いを叶え続ける不肖の弟子。彼が契約を違えたことは一度もない。

 二人は契約で繋がっている。

 トレーボルは安全圏から事を為すために、自身の罪と責任をローに被せてきた。当然のようにファミリーの伝手を使い事を為し、利益は総取りが基本である。

 しかし、一方で、これはトレーボル自身のためだけを考えての行動ではない。未熟な悪党ごっこを続ける弟子の悪名を高め、その計画を揺るぎないものとするためのアフターフォローのようなもの。

 それを理解しているからこそ、ローはトレーボルを裏切らず、切り捨てないのだ。


 しかし、この関係も終わりが近い。

 このままいけば、ローは間違いなく契約を破棄するだろう。


「トレーボル。おれが死んだらおれのもんは全部やる。約束だからな」


 予測は外れず、ローは唐突にこう告げた。契約履行期間中に死ぬ、つまり約束を違えると堂々宣言する彼にうんざりする。


「お前がいなきゃおれはどうなる」

「何も変わらない。おれの代わりを見つけて新しく契約を結べばいい」

「ファミリーはどうする」

「形式上あいつらはおれの配下だ。契約に則れば、お前に任せることになるな」

「ファミリーでもないおれに、ねー」


 そう。

 敵も味方もローの崇拝者も全員が全員誤解しているが、トレーボルはファミリーの正式な構成員ではない。長の座をローに譲った後、組織を抜けているのだ。 

 現在の役どころは外部顧問に近い。

 この誤解についてはローも放置しているため、二人は共犯関係にあると言える。


「ヴェルゴは」

「ん?」

「わざわざ離れてまでお前の為に動いてるのに悪いと思わねェのー?」

「おれとあいつなら離れてても約束は果たせる。どちらかが死んでもだ」

「ディアマンテは」

「事が成れば世は荒れる。戦いには事欠かないだろうよ」

「ピーカは」

「そもそも死んだら嘘はつけねェからな。あいつだけ損な気もするから何か残してやりてェけど、おれのもんはお前に全部やるわけだしどうしたもんか」


 淡々と語り、思案するロー。覚悟が決まっているというよりはただ穏やかな様子に苛立った。

 ここ数年で彼に起こった変化を振り返り、トレーボルは舌打ちをする。


 きっかけは、トラファルガー・ラミ。

 死んだと思われていた女がローの目の前に現れたことだった。


 一目見て分かった。

 あの女は、奪う側の人間だ。


 ローは変わっていく。時折、穏やかに笑うようになった。食事や睡眠を摂るようになった。悪事は相変わらず続けていたが、思考に雑念が混じるようになった。


 苦しむようになった。

 悩むようになった。


 ファミリーの面々はローの変化を良いものと捉えている。自身らがいつか捨てられるとしても、彼が望むならばそれでいいと身を引こうとしていた。


 何を馬鹿な。

 あの女は違う。

 あの女は奪う側の人間だ。

 あの女はローを不幸にする。


 あの女に何を言われようとローは必ず目的を成し遂げる。ならば、悩む心などない方が良いはずではないか。


 あの女は劇薬だ。


 ファミリーの面々の馬鹿さ加減には虫唾が走る。

 正義は決して人を救わない。光は暗がりに慣れた者とって眼を焼く毒でしかない。

 見捨てられるどころか存在ごと否定され、散々甚振られてきたゴミ屑共がそんなことも分からないのか。


 宝なら隠せ。仕舞い込め。守れ。決して奪わせるな。指一本触れさせるな。逃すな。意思を封じてでも手放すな。

 見ろ。しっかり見ろ。

 ローは自身の目的のためだけでなく、あの女のために殺されようとしている。


 何がこれほど己を苛つかせているのか。本当のところはトレーボル自身にも分からない。

 勿論、トラファルガー・ローを失うのは痛い。優秀な隠れ蓑であり、癖はあるが一等強い駒だ。

 また、己がどんな下衆であろうと、駒も武器も長年使っていれば愛着くらい湧く。ましてやそれが手塩にかけた駒であればなおさら。


 だが、本当にそれだけなのだろうか。


 分からないというのが既に答えなのだと薄々理解しながら、何度も否定する。


 計画は最終段階に入った。確実性を上げるようにと進言し続け、穴を指摘し、引き伸ばし続けた計画。蜘蛛の巣が如く広がって緻密さを増し、いまや世の至るところに仕掛けられた、世界転覆のシナリオ。

 全ての因果を己が存在に結びつけた男、トラファルガー・ロー。

 その死によって善悪の盤面は覆され、世界は形を失う。


「おれが勝ったらお前にファミリー入りしてもらいたかった。結局、お前の勝ち逃げだな」


 過去形で語るロー。

 その唇は緩く笑んでいた。


 全てが覆り、壊れた後。

 そこにローはいない。


 滲む不快感に耐え、常と変わらぬ態度を意識してトレーボルは問いかける。


「それで。誰にやらせるんだァ?」

「分かりきったことを聞くんだな」

「べへへへ! ねーねー、あの女にそんな度胸があると思うー?」

「失礼なことを言う。あいつだって立派な海兵だ。しかも、危険をおして潜入するほどの気概がある」

「リスクに見合った成果が出てりゃ良いんねー。大体、あの女がおれ達の会話を訊いてたらどうすんだァ」

「あいつは今、孤児院だ」


 傘下や崇拝者を無駄に増やす傾向のあるロー。命を救って世話を焼き、鍛え抜いて生きる力を付けさせる。そこまで面倒を見るわりに、この男は他者に興味を示さない。動向を追うことなどありえない。

 金の眼差しが注がれるのはあの女だけ。


 無駄と分かりながら、視点を変えさせるために別の案を提示した。


「海軍ならヴェルゴは? 大悪党に成り下がった幼馴染を泣く泣く裁く悲劇の英雄……とか適当なカバーストーリーをでっち上げるぐらいわけねェだろ」

「繋がりが弱い。ヴェルゴとおれは現状全くの無関係だ。インパクトに欠ける」

「まァ、な。本物の兄妹に比べりゃ、どんな関係も陳腐だわ」


 嘲笑と共に込み上げた自嘲を飲み下す。

 所詮、スラムの仲間など紛い物なのだ。生まれてこのかた本物になどなれたためしのないトレーボルは知っていた。

 紛い物が抱く本物へ感情。ローには理解できないであろう、それらも含めて。


「一応聞くが。ファミリーがあの女に復讐するとは思わねェのか?」

「復讐? 何のだ」

「はア?」

「世界を壊せればそれでいい。そのためについてきた奴らだろ」

「…………」

「おれの死は必要経費みたいなもんじゃねェか。それに、結局のところ、これはおれの自殺だ。違うか?」


 呆れて声も出ないトレーボルを見て、ローが不思議そうに首を傾げる。そして、普段通りの、何か企みを持ちかける際に出す密やかな声で囁いた。


「一回きりの爆弾だ。最大限に利用したい。そこでだ、トレーボル」

「馬鹿なの? 最後ぐらい自分で考えろ」

「けちくせェな。それこそ最後なんだぞ」

「────分かった。方法は任せてもらうが、おれの方で焚き付けてやる。それでいいんねー?」

「勿論だ。おれは表立って動けねェしな」


 そこはかとなく満足気な様子の弟子を睨むが、どこ吹く風で流される。昔から言いつけを聞かないガキだったと思いつつ、トレーボルはかつりと杖を鳴らした。


「ただし、条件がある。いつもの勝負だ。今回はただの賭けだが。乗るかァ?」

「聞かせろ」

「あの女がお前を殺せばお前の勝ち。殺し損ねればおれの勝ち。勿論、おれはお前に協力するし、手も抜かねェ」

「お前がラミを害するのはなしだぞ」

「べへへへ、当然だ。おれはあの女に手出しをしない。指一本触れもしねェ。お前に嫌われたくないもんねー」


 素直に考え込んだローがふと視線を上げて眉を顰める。


「待て。その条件だとおれは勝っても既に死んでる。願いも何もねェ。ずりィだろ」

「今回は特別だ。先に願いを言え。万年敗者の願いだからな、何でも聞いてやる」

「それなら決まってる。ファミリーに入れ。これ一択だ」

「べへへへ、いいぞ。お前が勝てばおれはお前の部下だ。なんなら晴れて免許皆伝を認めてやってもいいもんねー」

「そりゃいい。最高だ」

「まァ、お前死んでるけどねー」


 トレーボルが水を差してもローはただ瞬きを返すのみ。燻む金の瞳の奥にあるのは透徹した思いだ。


「いいんだ、それで」


 いいわけがない。いいわけがないのだが、トレーボルはローに反対する合理的な理由を説明できなかった。

 頭を締め付けられているような、気味の悪い感覚に悩まされつつ、ぼそりと言う。


「ロー。もし、あの女がお前を殺そうとして仕留めそこねた場合、他所にばれねェならおれが手を下してもいいか」

「何だ、急に」

「あの女、虫も殺せそうにねェ。半端なことをしそうじゃねェか。可愛がってきた鼠が苦しんで死ぬのはさすがに胸が痛む」

「お前でもそういうこと言うんだな」


 気が抜けているのか、ソファに寝転がったローは微かな笑いを含んだ声で答えた。


「いいぞ。バレねェようにやれよ」

「この場合、おれの勝ちだぞ?」

「分かってる。それでいい」


 目を閉じたローがごく小さな声で呟く。


「気ィ遣わせて悪ィな」

「……べへ、おれがお前に気を使う理由なんてねェ。おれはおれのためだけに動く」


 瞼を閉ざしたまま吐息だけで笑う、珍しく安らかな様子に苛立ちが募った。

 どうやら今日は寝るらしい。もうそろそろ強制的に消耗させねばならない頃合いだったため、丁度いいと言えばその通りなのだが。


「そういえば、トレーボル。お前の願いは何だ。先に聞いて準備しないと、死んだら果たせねェ」


 うとうとと寝入りかけながら問うローを見下ろし、トレーボルは絞り出すように答える。


「十五年。あと十五年、生き続けろ。それがおれの願いだ」

「お前が勝ってもおれが死んでるかもしれねェぞ……それに、そんな願い……」

「べへへ、その場合はお前の財産持ってとんずらするだけで許してやる。だが、あの女に殺され損ねたらおれの言う事を聞け。いいな?」


 返事はない。

 眠ったようだ。


 眠るローを部屋に残し、トレーボルは行動を開始した。

 約束は約束。まずはトラファルガー・ラミを焚き付けねばならない。


 揃って思い込みの激しい兄妹だ。ましてや善に傾倒する者の思考は偏りやすい。

 正義や道徳を叩き込む軍隊の教育は一種洗脳に近く、さらに言えば潜入捜査員は特殊な思考回路を強いられる。敵に惑わされ飲み込まれぬよう、自身の理念や思考が正しいと思い込めるように鍛えられている。

 それはつまり、こちらが悪性をひけらかせば、それを鵜呑みにして容易く網にかかるということ。


 勿論、みすみす負けてやるつもりはない。勝利条件はローの死そのものの回避ではなく、あの女による殺害の回避だ。

 最悪、トレーボル自身が出るか、ヴェルゴに連絡して先手を打てばいい。

 ローが死んでもかまわない。その死を齎すのがあの女以外でありさえすれば問題はないのだ。


「お前は死なない。死なせない」


 一片の明かりも差さぬ廊下の暗がり。聞き覚えのない、煮えるような声がする。

 思考と矛盾する言葉を吐きながら、トレーボルは光のない道を進んだ。




 ドレスローザの地下。

 暗がりの中、逃走を選んだトレーボルは張り巡らされた糸に足を取られ、血溜まりの中に倒れ伏す。

 その背を追ってドフラミンゴの分身が現れ、さらなる追撃を放った。転がりながら回避するも足に違和感。見れば、左膝から下が欠損している。


 失策だ。

 一人で対峙すべきではなかった。本体でない、糸など絡め取り燃やせばいいと油断したのだ。


 いや、本当は焦っていたのだろう。

 もう止められない。何をしても止まらない。ロー本人の言葉を借りれば、歯車は壊れ時は動き始めた。

 トラファルガー・ローが躊躇う理由など、この世のどこにもないのだ。


 ドンキホーテ・ドフラミンゴが宣戦布告をした時、ローは秘めやかに笑った。


「ちょっと早いけど、いいよな?」


 十三年前、トレーボルは勝利した。無駄な延命措置だと分かりつつ、宣言した通りの願いを改めて告げ、ローもそれを了承したはずだった。


 あの日から時を止めたままのロー。


 本来、ローは動き始めれば周囲を振り切ってでも進む男だ。時すら置き去りにして行ってしまう嵐のような人間だ。

 それを何とか引き留めた。引き留め続けた。今も、時間稼ぎにしかならない枷をかけてまで留めている。


 それなのに。

 弱く取るに足らない存在だったドフラミンゴ。トラファルガー・ラミの遺した宝。

 あの女の遺志が、動かぬはずの針を動かしたのだ。


 ローに弱さを植え付けた女。死してまでこの地にローを縛り付ける亡霊。


 ローにとって、ただ一人の本物。


 分かっていた。

 結局のところ、紛い物は紛い物でしかないのだ。


 奪った椅子に腰掛け、家族のような面を演じても、所詮はただのままごとだった。

 奴隷は人間にはなれない。

 モノは、人の家族になどなれない。


 本物には勝てない。


 胸を貫かんとするドフラミンゴ。それすらも分身でしかなく偽物。全く、おあつらえ向きの最期ではないか。


 襲いくる糸の波濤を眺め、トレーボルは空しく笑う。

 覚悟でなく諦めを以て抵抗を止めた男。

 

 その目の前で糸の波が砕けた。


 広がる薄い被膜の先、ドフラミンゴの分身が掻き消え、代わりに薬剤瓶が転がる。


「無様だな」


 聞こえるのは普段と変わらぬ冷えた声。


 やはり、枷程度では留めおけなかったか。諦めの境地で顔を上げる。


 ああ、それでも。

 まだここにいる。生きている。


「しっかり繋いだはずなんだがなァ」

「人を犬みてェに言いやがって」

「誰に助けてもらった? ドフィか」

「ドフィ? ああ、あいつか。何であいつがおれを助ける。普通に考えて拘束されて寝惚けてる敵を見たら殺すだろ」

「べへ、べへへ! お前が普通を語るな」

「昔、別のやつにも言われた。そいつがおれを助けてくれた正義の海兵さんだ」

「あァ、あの犬っころ。随分踏ん張ったのに、最後の最後で堕ちたのねー」

「顔面ぶん殴られたけどな」


 失血で青褪めるトレーボルを見下ろし、ローは分断された足を拾い上げた。


「ちゃんと勉強してやがる。振動に加えて熱も発生させてんのか。だが、この程度は何とかなる。ほら、『気を楽にしろ』」


 手早く止血と縫合を始めるローの顔に怒りや憎しみは見られない。その一方で言葉の上ではやり返してくる。これは皮肉や精神的報復ではなく、単なる負けず嫌いからくるものだ。


「ロー」

「なんだ」

「今年の勝負がまだだったよなァ」

「さっき、ジョーラを使った勝負でおれが勝っただろ」

「それは契約外の勝利だろうが」


 明確に詐称を狙うローだが、無策の思いつきに誤魔化されてやる謂れがない。

 トレーボルが折れないことに気付き、恐ろしいスピードで治療を進める手はそのままに、ローが問いかける。


「何の勝負にする? これが最後かもしれねェから願いも先に聞いてやるぞ」

「久しぶりに賭けだ。これからのクソガキ共との戦い、お前が勝てばお前の勝ち。お前が負ければおれの勝ち」

「分かった。それで、願いは?」


 処置を終え、あぐらをかいたローが首を傾げて先を促す。

 これが最後。もう止まらない針の先、望みなどないとして。


 それでも、夢を見るならば。


「おれを、ファミリーに入れてくれ」


 丸くなった目と薄く開いた唇。ローは珍しく純粋な驚きを露わにし、ゆっくりと瞬きを繰り返して、最後に瞳を輝かせた。

 これ程喜ぶのであれば、自分を餌に言う事を聞かせることも出来ただろうに。

 全く、失策だ。


「願いが一緒じゃ賭けにならねェな」

「べへへへ、お前が勝って戻れば別の願いに変えりゃいい。負け続きのお前に与える最後の温情だ」

「新入りのくせに師匠面してんじゃねェよ。大体、七武海とは言え新人ごときに負けやがって」

「新入りじゃねェ。まだ負けてねェし加入してないもんねー」


 繋がれた足を引き摺るように、トレーボルは立ち上がる。ローもまたその横に並び、能力で引き寄せた刀を担いだ。


「ところで、トレーボル。お前、こんなところで油売ってていいのか?」

「なんだァ?」

「ヴェルゴを連れてバッファローがこっちに向かってる。十中八九、お前の独断専行は伝わってると思うぞ」

「…………」

「楽しみだな。鬼の中将の新人しごき」


 言い捨てて姿を消したロー。

 彼が最後にみせた表情がどこか楽しげだったことに満たされてしまい、トレーボルは苛立ちと共に杖を打ち鳴らす。


 眼裏に浮かぶ金の輝き。

 暗がりでみるそれは存外心地よかった。

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