夢の始まり

夢の始まり


 一人の時間を過ごすのは昔から得意だった。幼児が喜ぶようなものなどろくにない狭い海賊船の一室で幼少期を過ごしてきたのだ。それに比べてこの島は広く、自由に空間を使うことができる。相変わらず娯楽となるようなものは何もないけれど。最近は、歌の練習ばかりをしている。

 別れは唐突にやってきた。その時は悲しかったけれど、シャンクス達はちゃんと別れの言葉を言ってくれたから、もう悲しくはない。その言葉の一つ一つに十分過ぎる程の愛がこもっているのが分かって、そうまでして愛してくれているのなら、もう十分だと思った。ここまで育てあげてくれたことを、感謝すらしている。

「この島で待っていれば、必ずお前を迎えに来る奴が現れる。暫くの辛抱だ。寂しい思いをさせることになるだろう。不甲斐ない父親を許してくれ」

本当に不甲斐ない父親だった。大泣きしている私に対し、負けじと鼻水を垂らしながら男泣きするような父親だった。そんな父親を憎めるはずもない。

でも、

「私、一生ここに一人の気がするよ」

私が待っている誰かは、いつになったら迎えに来てくれるのだろう?シャンクスが残してくれた帽子だけが、今の頼りだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 嫌な予感がした。その日の赤髪海賊団の空気は重く、いつも自分の周りをうろちょろとする少女の姿が見えない。十中八九少女の身に何かがあったのだろう。胸の奥が、ざわりとする。それを聞いたら、今度こそ立ち直れないような気がした。世界は無情だ。いつだってそれは、やっと生まれてきた希望をいとも簡単に奪い去ってしまう。

 

 ルフィが話を聞く前に立ち去ってしまおうとすると、赤髪はルフィの手を引いた。ルフィが投げやりな視線を寄越しても赤髪はルフィの腕を掴む力を緩めない。そのまま聞いてもいない少女の境遇をつらつらと述べられ、ルフィは心底嫌そうな顔をした。

「ウタのことを、頼む」

深々と頭を下げられたところで、ルフィの心は動かない。

「そんな義理はねェ」

ルフィはその切なる願いをぴしゃりと跳ね除けた。

「いや、お前は必ずウタに会いに行く。お前はもう、ウタから離れることは出来ないよ」

癪に障るその呑気な顔を、ルフィは容赦なくひっぱたいた。

 程なくして赤髪海賊団は村を発ち、二度とフーシャ村に戻ることはなかった。「お前ならやってくれると信じてるよ!」と言って笑って去って行った男を、ルフィは不本意にも釣り場から見送る形になってしまった。ルフィが「誰がやるか」と毒づいて、むしゃくしゃした気持ちのまま近くにあったバケツを蹴飛ばすと、折角釣れた魚は喜んで海へと戻って行った。そのせいでマキノに「また釣れなかったの?」とバカにされたのでもう散々だ。ルフィは早々にやけ酒をキメることにした。陽気な海賊団が居なくなった酒場はまるで知らない場所のように静かで、よく風が通る。ふと、少女がよく歌っていた歌を思い出した。

 ルフィの酒の量は日に日に増えていった。見かねたマキノはルフィから酒を取り上げて、当分の間店に来ないよう言いつけた。好きでもない酒を飲むのは、心が弱っている証拠だろう。

「ウタちゃんの歌があればなあ」

ルフィの前では言えない嘆きを、マキノは静まり返った店内でぽつりとこぼした。

 ルフィも流石に自分の様子のおかしさについては自覚している。空腹でもないのに、イライラしていることが多い。気もそぞろで、仕事にも手が付かない有様だった。何もすることがない時は、長い仮眠を取る。夢の中だけは落ち着いた状態で居られた。


「いつになったら迎えに来てくれるの?」


夢の中に居る少女は問いかける。それにルフィは何も答えないままだった。

「私はいつでもいいよ。でも、あんまり長いとーーー

今度こそ居なくなっちゃうかもよ」


少女が黒い翼に覆われていく姿を最後に、目が覚める。呼吸が荒くなって、眩暈がした。長く睡眠をとった後の倦怠感で、頭が重い。一筋の涙が頬を伝って、意図せず馴染み深くなったフレーズが口からこぼれ落ちた。



「はは、薬みたいだな」

彼女の声が聴きたくて、気が狂いそうになる。



「ねえ、ルフィ。私、ウタちゃんの歌がもう一回聴きたいの。だからこれ、お願い」

ルフィはマキノからトーンダイヤルを持たされ、無理やり海へと放り出された。丁寧に行き方を記した紙まで持たせて、マキノは船に乗るルフィを見送った。ガキでもあるまいし、と一度は捻りつぶしてしまった紙を再び開くと、ルフィは不平不満を垂れながらもキチンと乗り継ぎしていった。

愈々島が近くなって、ルフィは今更ながら尻込みした。段々と動機が早くなり、船乗りに何度もあれが紙に書いてある島かどうか確かめた。返ってくるのは肯定の返事ばかりである。ルフィは奇妙な緊張を感じていたが、それが何に対しての緊張なのかは自分でもよく分からなかった。頬が紅潮して、汗が滴り落ちる。そのことにルフィは益々焦って、そこまで動揺している自分を恥ずかしく思った。年端の行かぬ少女に会うだけで、何をこんなに緊張することがあるのか。自戒をしてみた所で緊張感はかえって高まるばかりであった。

 島に着くと、その大半の家屋が倒壊していて尋常ではない様子であったが、ドコドコと音を立て続ける心臓を落ち着かせることだけに集中しているルフィには何も奇異なものとして映らなかった。ルフィの今の状態は、告白する前の緊張感がずっと続いているようなものだ。マトモな思考など働いているはずがない。ロボットのようなぎこちなさで歩くルフィに、島に降り立ってからずっと付きまとっている一つの影があったが、ルフィはそれに全く気が付いていなかった。立ち止まっては追い、また止まっては追いを繰り返しているその影も、何やら困惑しているらしい。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 る、ルフィだ。ルフィが来た。

 船から下りてくる人物の顔を認識した途端、ウタはどてっと後ろに倒れた。来る日も来る日も待ち人を待ち続けていた彼女は、島に近寄る船の存在を敏感に感じ取っていた。

「シャンクスが言ってたのって、ルフィのことだったの?まさか、ルフィが来てくれるなんて」

私、嫌われてると思ってた、と呟くウタは、動揺の余り心の声が全て口から飛び出ている。

「な、何か、ルフィ異常に汗かいてない?お腹でも痛いのかな」

すぐにでもルフィに駆け寄ろうとしたウタは、しかし明らかに挙動がおかしいルフィに戸惑っていた。何か、近寄りがたいオーラを放っているルフィは、中々こちらに気付かない。普段のルフィなら絶対にありえないことだ。

何かサプライズでも仕掛けた方が良いのだろうか?ゴードンさんと練習した歌で、驚かせてあげようかな。ウタの心にむくむくと悪戯心が湧いて起こり、大声で歌を響き渡らせてやろうという気になった。単純に、上手くなった歌を褒めて欲しいという心もあった。ウタが建物の裏に隠れるのをやめ、すうっと息を吸った瞬間、それまで見向きもしなかったルフィが急にウタの方を見た。その目力に驚いて、ウタは一瞬歌うのをやめそうになった。しかしルフィが催促するように眼光鋭くにらんできたので、ウタはもう一度大きく息を吸って島全体に行き渡るほどのその美声を響かせた。ウタがトントンと足を鳴らすと、ルフィがウタの元へと寄ってきて、その小さな体を抱き上げた。

「うわっ」

高く持ち上げられた少女は小さく悲鳴をあげ、

「違う!運んでほしかったの!」

と不満をもらした。しかしルフィは瞬きもせずウタを見つめている。

「何?」

「夢じゃない」

「あは、それ、私も思った!夢じゃなかったね」

ウタはその小さな額をぐりぐりとルフィの額にすり合わせる。ルフィは毒気が抜け、何もかもがどうでもよくなって、ウタの体を強く抱きしめた。そこでルフィは漸く再会の喜びをかみしめることができた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 正気に戻ったルフィは先ほどまでの自分の一連の動きを振り返って、猛烈に穴があったら入りたい気分になっていた。ウタに無邪気に「体調悪いの?」と問われたことで、ルフィは最初からウタに見られていたことを知った。複雑怪奇なルフィの心情を、9歳かそこらの少女が理解するのは難しかろう。

ルフィはまた汗をかいて、「いや、何でもねェ…」と誤魔化した。ふーん、と興味なさげに呟いたウタは、不意に真剣な顔をして、

「ルフィは、私を迎えに来てくれたの?」

と聞いた。それは、ウタにとって重要な問題だった。言い淀むルフィに、ウタは尚も畳みかける。

「ルフィは何のために、この島に来たの?」

ウタの剣幕に押され、マキノに無理やり来させられたとは言えなかった。いや、しかしそれも時間の問題で、自分はいずれこの島に来ていただろう。


それは、一体、誰のためだ?


「……もしかして、シャンクスに言われたの?」

「…っああ、」

「嘘でしょ!信じられないっ!!あのヘタレ親父、ルフィに私のこと押し付けたの!?」

「いや、違う、違う」

ルフィの咄嗟に出た言葉を肯定として受け取ったウタは、怒りの矛先を父親に向けた。怒っているウタをよそに、ルフィの頭は変に冷静で、自分が何故ここにいるのかをぐるぐる考え続けている。やがてそれはある答えにたどり着いて、ルフィは自分の顔を覆った。

「うわ~~、マジか……」

「どうしたの?」

急に項垂れたルフィを見て、ウタは怪訝そうに眉をひそめた。

「今日のルフィ、何かずっとおかしいよ?」

「今日だけじゃなくて、お前に会ってからのおれは常におかしいんだよ」

「?何それ」

やけくそになったルフィは少しだけ自分の心情を明かしたが、ウタは全く理解していないようだった。

「あー、もうダメだ。深く考えたおれがバカだった」

お手上げだ、と言わんばかりにルフィは両手を上げた。

「さっきから何?私に分かるように言ってよ」

小さな歌姫は、先ほどから自己完結しているルフィがお気に召さないようだ。ルフィはウタが首に下げていた麦わら帽子をかぶせると、

「おれは、お前に会いたかったんだよ」

と言った。



◇◇◇




 ウタは帽子の鍔を上げ、期待を込めた瞳で

「ルフィは私を海に連れて行ってくれる?」

と聞いた。

「私をこの島から連れ出してくれるのは、ルフィしかいないんだよ」

お願い、と縋る少女は目の前に広がる無数の選択肢にまだ気付いていないだけで、ここで自分を選ぶ必要性はまるでない。そう頭で分かっていても、それは甘美な状況だった。

「ルフィ?」

ここで頷いたらもう負けだ。自分の人生を丸ごとこの少女に渡すことになる。でも、もうそれで良いんじゃないか?ウタは、相変わらず何も知らない綺麗な瞳でルフィのことを見つめている。始めから、こうなることは決まっていたのかもしれない。


「……あ〜〜、もう、分かったよ。抵抗すんのはやめる。おれがどこまでも連れて行ってやるから、ウタは、その先で夢を叶えればいい」


ウタの顔がみるみるうちに華やいでいく。何度もルフィの頬を叩いて本当かどうか確認し、何かを溜めこむようにぷるぷる震えると、ウタはやっと喜びの声をあげた。

「やったあ!!」

ウタはそのままタタっと走って建物の周りを一周すると、ぴたっと止まって楽しそうに歌い始めた。聞いたことのないメロディーをその感情のまま歌いあげると、今度はルフィの体に飛びついてくる。

「ありがとう、ルフィ!大好きだよ」

「あんま、大好きとか言うなよ……」

「私たちで、新しい時代作ろうね」

晴れやかに笑うウタを見て、ルフィは意地なんて張らずにもっと早く来ればよかったかな、と少し後悔した。


Report Page