夢のような世界で・後
一二一その日は、普通の一日になる筈だった。
いつも通りログポースが指した島に上陸して、航海の中で消費した物資を補給したり各々息抜きをして。そうしてまた海へ出る。
そのはずだったのに────。
「もう戻ってたんですね、キャプテン」
数時間前に別れたローの姿が見えたから、普通に声をかけた。ただそれだけ。
もっと長く掛かると思っていたのに案外早かったな、と呑気に思ったのはほんの一瞬だった。
「────ペン、ギン。………意外と、早くようじが済んだんだ」
「そうなんですね。ベポと本屋行くって言ってたからもっと掛かると、思って…て……」
振り返ったローの顔を見て、絶句する。
どうしてあんなに血だらけになっているんだ。
ここは海軍の駐屯地もない平和な島だ。
ちょっとしたチンピラはいても悪人なんていないような、穏やかな場所の筈だ。
なのにどうして───!!
「一体なにがあったんですか!?」
「……な、なにがって」
「あんたが顔にそんな傷を負うなんてッ、相手は!?いや……そんな事より! 手当しましょう手当!」
慌ててローの側に駆け寄り顔がよく見えるように帽子を取れば、明るい陽の下で全てが露わになった。
本来なら青みがかった黒髪には多くの白髪が混じり、瞳は澱み切っている。伸びた前髪の下の肌は太陽の下でもわかるほど白くなっていて頭からの流血で赤く染まっている。すり傷や打撃による裂創、細いもので切られたような切り傷など多くの怪我があり痛々しい。
あまりの状態に叫び出しそうになりながらも、自然とペンギンの視線は下へと下がっていく。普段タトゥーが見えるように着ている服じゃなくて、明らかにローの趣味ではないドレスシャツが肌を隠すように首元まで覆っている。悪趣味なピンク色の紐で編み上げられたブーツを黒いズボンの上から履いていた。
なによりペンギンの目を引いたのは、身体の右側。本来なら右手があるはずのそこには袖が風に揺らめいている。
彼には右腕がなかったのだ。
「……ぁ、…………」
「なん、何が……え…………は?」
一瞬でペンギンの頭は真っ白になった。
だって、意味がわからなかった。
ただでさえ怪我している事実が信じられなかったのに、右腕がある筈のそこにはなにも存在してなくて。
かつて、ローと出会った13年前。
ペンギンも自らのミスで右腕が千切れたことがあるからわかる。想像を絶する痛みだった。とにかく痛くて痛くて、喋るのも辛くて。なのに、目の前のこの人は普通に会話している。
つまりそれは右腕を失くしても痛みを感じていないということで。未だに混乱する中、どうにか状況を整理しようと考えていた時だった。
「す、まねェ……」
聞こえてきた小さな言葉に、ペンギンは顔をあげる。今にも泣き出しそうな顔でローが謝っていた。
自分と2歳しか違わない筈なのに、今のローはもっと幼く見えた。髭が剃られているせいもあるかもしれない。
ペンギンはローのそんな表情を、初めて見た。どうしてそんな顔で謝るんだ。
「なに、を…謝ってんですか…!? と、とにかく今は治療を…怪我の治療しないと…!!」
「わる…かった……」
ローは再び謝ると地面に膝をついて蹲ってしまった。長い手足を折りたたんで、蹲る姿はとても小さく見える。
どう対処したらいいかわからない。
なんでこんな事になっているんだ?
どうしてそんな怪我をしているのか。
何故、右腕がないのか。
「キャプテンッ………ローさん!!」
ペンギンは思わず昔にように名前で呼んで、ローの側にしゃがみこんでいた。
とにかく今は治療をしてゆっくり話を聞きたい。そう思って肩に手を置こうとした時だった。見慣れた青いサークルがローを中心に広がり始めたのだ。
「!!! 待てよッ!あんた何して───」
「………“しゃん…ぶるず”」
その言葉を最後に、一瞬でローの姿は掻き消えてローのいた場所には欠けたカップが現れた。
カップは空中から地面へと落下してガシャンという音と共に砕け散る。砕けたカップの残骸を、ペンギンはただ呆然と眺めていることしか出来なかった。
「なん、で……………ローさん?」
青いサークルはもうない。
ローは消えた。消えてしまった。
消える直前に見せた顔が頭から離れない。あんな昏い笑顔で、笑いかけられたことなんて今までなかった。
頭がおかしくなりそうだ。
手に持っている薄汚れた帽子がなかったら夢かと錯覚してしまいそうなほどに、ローの痕跡はなくて。ただペンギンは地面に膝をついたまま帽子を眺めることしか出来なかった。
「ペンギン? 何してんだよそんなところで」
「────ッ!!」
バッと振り返れば、そこには荷物を抱えたシャチが立っていた。近くに来ているのに気付かないほど動揺していたらしい。変わらない相棒の姿に安堵しながら、差し出された手を握って立ち上がる。
「顔色悪ィけどなんかあったのか?」
「それが……おれも未だに信じられないんだ。だって、キャプテンが───」
「おれがなんだって?」
疑問符を浮かべているシャチに先程のローの事を説明をしようとした時だった。
すぐ後ろから聞き慣れた声が響いた。
「えっ…………」
「?」
「おい、本当にどうした?顔色悪いぞペンギン」
そこにいたのは今しがたシャンブルズで消えた筈のローが立っていた。
黒いシャツに、デニム。右腕に鬼哭を持って、左手は腰に置いてこちらを見ている。数時間前に別れたペンギンの記憶通りの姿をしたキャプテンだった。ベポも一緒にいる。
「な、んで……だってキャプテンはついさっきシャンブルズで───」
「何の話してんだ?おれは今、街から戻ってきたばかりだぞ」
「キャプテンはおれとずっと一緒にいたよ」
どういう事だろう。
いや今思えば確かにおかしい点は多くあった。
短時間であんなにローの髪が伸びるわけがないし、あんな服を着るはずもない。それでもローと同じ顔で、掠れてはいたが同じ声で、タトゥーも、能力も同じ人間なんてあり得るだろうか。
とにかく混乱する頭で、3人に今しがた起こった事を説明した。半信半疑で話を聞いていた3人だったが、ペンギンのあまりの必死さにこれはただ事ではないと理解したらしい。残された自分のと全く同じ形の帽子を見ながら、ローは問いかける。
「それで、おれのソックリさんはROOMを出してシャンブルズで消えたんだったな?」
「……はい。入れ替わりにこのカップが」
「これかぁ。なんかどっかで見たことあるんだけど、どこでだっけ…?」
「うーん、あ!思い出した!先月、ウニの奴が洗い物してる時に割ったカップだ!」
云々唸っているベポの横で同じようにカップの残骸を見ていたシャチが声をあげる。思い出せてスッキリしているシャチを横目に、ペンギンも思い出す。
「でもそれ、危ねえからって倉庫の奥に仕舞ってなかったか?」
「…………つまりそれがここにあるってことは、」
「おれの能力と同じなら、倉庫にいるってことになるな」
青いサークルはあれ以来出ていない。
つまり、今もポーラータング号の倉庫内に重傷を負ったローそっくりの男がいるということだ。それに気付いた瞬間ペンギンは走り出していた。
「おい!?勝手に動くなペンギン!」
「キャプテンすみません!!でもおれ放っておけないんです……!」
他の海賊の罠かも、なんて考えられなかった。
ただあの人を、ローそっくりの彼を助けたいという気持ちの方が強かったのだ。
傷らだけの身体で、泣き出しそうな顔で謝っていた顔を思い出す。
どうしてもあの表情が忘れられない。
あれが嘘とはどうしても思えなかった。
甲板へと上がって、勢いよく扉を開けながら奥へ奥へと走っていく。何事かと顔を覗かせるクルーに謝りながら、目的の倉庫までたどり着いた。
息を整えながら扉を開けようと手伸ばした瞬間、肩を掴まれる。驚きながら振り向けば、そこには同じように息を切らしてるシャチの姿があった。
「お、前ッ……本気で走りすぎ、だろ…!」
「……シャチ」
「そうだよペンギン。何も一人で行くことないのに」
「ベポ」
すぐ後ろでペンギンを追いかけて走ってきたらしい。
無我夢中で気付かなかった。
カツカツと靴の音が聞こえて、後ろから呆れた顔をしたローも姿を現した。
「ペンギン、勝手に突っ走んな。診ないとは言ってねェだろうが」
「キャプテン…!」
「ただし……おれが最初に入る。お前らは後ろからついて来い。いいな?」
「……わかりました」
ローはペンギンに代わって扉の前に立ち、取っ手に手をかける。
見聞色で探れば、中に誰かにいるのは間違いない。どうにも”声“が弱々しい。
どこか敵船のスパイという線はやはりないだろう。ペンギンを信じなかったわけではないが、まぁ念のためというやつだ。
そしてゆっくりと扉を開いていった。