夏の葬列

　海岸のちまな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めとった。駅前の風景はすっかり変っとった。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く鋪装されてしまっとる。はだしのまま、砂利の多いこの道を駈けて通学させられた小学生の頃の自分を、急になまなましく彼は思い出した。あれは、戦争の末期やった。彼はいわゆる疎開児童としぃ、この町にまる三カ月ほど住んどったのやった。――あれ以来、おれは一度もこの町をたずねたことがあれへん。その自分が、いまは大学を出、就職をし、一人前の出張がえりのサラリーマンの一人としぃ、この町に来とる……。

　東京には、明日までにいねばよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で煙草を買い、それに火を点けると、ゆっくりと歩きだした。

　夏の真昼やった。ちまな町の家並みはすぐに尽きて、昔のままの踏切りを越えると、線路に沿い、両側にやや起伏のある畑地がひろがる。彼は目を細めながら歩いた。遠くに、かすかに海の音がしとった。

　なだらかな小丘の裾、ひょろ長い一本の松に見憶えのある丘の裾をまわりかけて、突然、彼は化石したように足をとめた。真昼の重い光を浴び、青々とした葉を波うたせたひろい芋畑の向うに、一列になって、喪服を着た人びとのちまな葬列が動いとる。

　一瞬、彼は十数年の歳月が宙に消えて、自分がふたたびあのときの中におる錯覚にとらえられた。……呆然と口をあけて、彼は、しばらくは呼吸をすることを忘れとった。

　濃緑の葉を重ねた一面のひろい芋畑の向うに、一列になったちまな人かげが動いとった。線路わきの道に立って、彼は、真白なワンピースを着た同じ疎開児童のヒロ子さんと、ならんでそれを見とった。

　この海岸の町の小学校（当時は国民学校といったが）では、東京から来たガキは、彼とヒロ子さんの二人きりやった。二年上級の五年生で、勉強もよくでき大柄なヒロ子さんは、いつも彼をかばってくれ、弱むしの彼をはなれへんかった。

　よぉ晴れた昼ちかくで、その日も、二人きりで海岸であそんできた帰りやった。

　行列は、えげつなくのろのろとしとった。先頭の人は、大昔の人のような白い着物に黒っぽい長い帽子をかぶり、顔のまえでなにかを振りながら歩いとる。つづいて、竹筒のようなものをもった若い男。ほんで、四角く細長い箱をかついだ四人の男たちと、その横をうつむいたまま歩いてくる黒い和服の女。……

「お葬式やわ」

　と、ヒロ子さんがいった。彼は、口をとがらせて答えた。

「へんやねん。東京じゃあないなことせぇへんよ」

「せやけど、こっちじゃああするのよ」ヒロ子さんは、姉さんぶっておしえた。「そしたってな。ガキが行くと、お饅頭をくれるの。おかんがそういったわ」

「お饅頭？　ほんまのアンコの？」

「そうよ。ものごっつ甘いの。ほんで、めっちゃおっきくって、赤ちゃんの頭ぐらいあんねんて知らんけど」

　彼は唾をのんだ。

「ね。……ぼくらにも、くれると思う？」

「せやな」ヒロ子さんは、まじめな顔をして首をかしげた。「くれる、かもしれへん」

「ほんま？」

「行ってみようか？　ほな」

「よし」と彼は叫んだ。「競走やで！」

　芋畑は、真青な波を重ねた海みたいやった。彼はその中におどりこんだ。近道をしてやるつもりやった。……ヒロ子さんは、畦道を大まわりしとる。ぼくのほうが早いにきまっとる、もし早い者順でヒロ子さんの分がなくなっちゃったら、半分わけてやってもええ。芋のつるが足にからむやわらかい緑の海のなかを、彼は、手を振りまわしながら夢中で駈けつづけた。

　正面の丘のかげから、おっきな石が飛び出したような気がしたのはその途中でやった。石はこちらを向き、急速な爆音といっしょに、不意に、なにかを引きはがすような烈しい連続音がきこえた。叫びごえがあがった。「カンサイキだあ」と、その声はどなった。

　艦載機や。彼は恐怖に喉がつまり、とたんに芋畑の中に倒れこんだ。炸裂音が空中にすさまじい響きを立てて頭上を過ぎ、ねーちゃんの泣きわめく声がきこえた。ヒロ子さんちゃう、と彼は思うた。あれは、もっと大人の女のひとの声や。

「二機や、かくれろ！　またやってくるぞう」奇妙に間のびしたその声の間に、べつの男の声が叫んだ。「おーい、ひっこんでろその女の子、あかん、走っちゃだめ！　白い服はぜっこうの目標になるんだ、……おい！」

　白い服――ヒロ子さんだ。きっと、ヒロ子さんは撃たれて死んでまうんだ。

　そんとき第二撃がきた。男が絶叫した。

　彼は、動くことができなんだ。頬っぺたを畑の土に押しつけ、目をつぶって、けんめいに呼吸をころしとった。頭が痺れとるみたいで、せやけど、無意識のうちに身体を覆おうとするみたいに、手で必死のパッチで芋の葉を引っぱりつづけとった。あたりが急にしーんとしぃ、旋回する小型機の爆音だけが不気味につづいとった。

　突然、視野におっきく白いものが入ってきて、やわらかい重いものが彼をおさえつけた。

「さ、はよ逃げるの。いっしょに、さ、はよ。だいじょうぶ？」

　目を吊りあげ、別人のような真青なヒロ子さんが、熱い呼吸でいった。彼は、口がきけなんだ。全身が硬直しぃ、目にはヒロ子さんの服の白さだけがあざやかに映っとった。

「いまのうちに、逃げるの、……なにしとんの？　さ、はよ！」

　ヒロ子さんは、怒ったようなこわい顔をしとった。ああ、ぼくはヒロ子さんといっしょに殺されちゃう。ぼくは死んでまうんだ、と彼は思うた。声の出たのは、その途端やった。ふいに、彼は狂ったような声で叫んだ。

「よせ！　向うへ行き！　目立ってまうじゃないかよ！」

「たすけにきてんで！」ヒロ子さんもどなった。「はよ、道の防空壕に……」

「いややったら！　ヒロ子さんとなんて、いっしょに行くのいややで！」夢中で、彼は全身の力でヒロ子さんを突きとばした。「……むこうへ行き！」

　悲鳴を、彼は聞かなんだ。そんとき強烈な衝撃と轟音が地べたをたたきつけて、芋の葉が空に舞いあがった。あたりに砂埃のような幕が立って、彼は彼の手で仰向けに突きとばされたヒロ子さんがまるでゴムマリのようにはずんで空中に浮くのを見てん。

　葬列は、芋畑のあいだを縫って進んどった。そらあまりにも記憶の中のあの日の光景に似とった。これは、ただの偶然なんやろか。

　真夏の太陽がじかに首すじに照りつけ、眩暈に似たものをおぼえながら、彼は、ふと、自分には夏以外の季節がなかったような気がしとった。……それも、助けにきてくれた少女を、わざわざ銃撃のしたに突きとばしたあの夏、殺人をおかした、戦時中の、あのただ一つの夏の季節だけが、いまだに自分をとりまきつづけとるような気がしとった。

　彼女は重傷やった。下半身を真赤に染めたヒロ子さんはもはや意識がなく、にーちゃんらが即席の担架で彼女の家へはこんだ。ほんで、彼は彼女のその後を聞かんとこの町を去った。あの翌日、戦争は終ったのや。

　芋の葉を、白く裏返して風が渡って行く。葬列は彼のほうに向かってきよった。中央に、写真の置かれとる粗末な柩がある。写真の顔は女や。それもまだ若い女のように見える。……不意に、ある予感が彼をとらえた。彼は歩きはじめた。

　彼は、片足を畦道の土にのせて立ちどまった。あまり人数のようけはない葬式の人の列が、ゆっくりとその彼のまえを過ぎる。彼はすこし頭を下げ、しかし目は熱心に柩の上の写真をみつめとった。もし、あのとき死んでいなんだら、彼女はたしか二十八か、九や。

　突然、彼はけったいな歓びで胸がしぼられるような気がした。その写真には、ありありと昔の彼女の面かげが残っとる。そら、三十歳近くなったヒロ子さんの写真やった。

　まちがいはあれへんかった。彼は、自分が叫びださなんだのが、むしろ不思議なくらいやった。

　――おれは、人殺しではなかったのや。

　彼は、胸に湧きあがるものを、けんめいに冷静におさえつけながら思うた。たとえなんで死んだにせよ、なんしかこの十数年間を生きつづけたのなら、もはや彼女の死はおれの責任とは言うてもへん。すくなくとも、おれに直接の責任がないのはたしかなのや。

「……この人、ビッコやった？」

　彼は、群れながら列のあとにつづくガキたちの一人にたずねた。あのとき、彼女は太腿をやられたのや、と思いかえしながら。

「ううん。ビッコなんかやんけ。からだはぜんぜん丈夫やったで」

　一人が、首をふって答えた。

　ほな、癒ったのや！　おれはまったくの無罪なのや！

　彼は、長い呼吸を吐いた。苦笑が頬にのぼってきよった。おれの殺人は、幻影にすぎなんだ。あれからの年月、重くるしくおれをとりまきつづけとった一つの夏の記憶、そらおれの妄想、おれの悪夢でしかあらへんかったのや。

　葬列は確実に一人の人間の死を意味しとった。それをまえに、いささか彼は不謹慎やったかもしれへん。しかし十数年間もの悪夢から解き放たれ、彼は、青空のような一つの幸福に化してもうとった。……もしかしたら、その有頂天さが、彼にそんなよけいな質問を口に出させたのかもしれへん。

「なんの病気で死んだの？　この人」

　うきうきした、むしろ軽薄な口調で彼はたずねた。

「この小母さんねえ、気違いだってん」

　ませた目をした男の子が答えた。

「おとついねえ、川にとびこんで自殺してもたんや」

「へえ。失恋でもしたん？」

「アホやなあ小父さん」運動靴のガキたちは、口々にさもおかしそうにわろぉた「だってさ、この小母さん、もうお婆さんだってん」

「お婆さん？　なんで。あの写真やったら、せいぜい三十くらいやんけ」

「ああ、あの写真か。……あれねえ、うんと昔のしかあらへんかったんだってよ」

　洟をたらした子があとをいった。

「だってさ、あの小母さん、なにしろ戦争でね、一人きりの女の子がこの畑で機銃で撃たれて死んでもてね、ほんでずっと気が違っちゃってたんだもんさ」

　葬列は、松の木の立つ丘へとのぼりはじめとった。遠くなったその葬列との距離を縮めようっちゅうのか、ガキたちは芋畑の中におどりこむと、歓声をあげながら駈けはじめた。

　立ちどまったまま、彼は写真をのせた柩がかるく左右に揺りぃ、彼女の母の葬列が丘を上って行くのを見とった。一つの夏といっしょに、その柩の抱きしめとる沈黙。彼は、いまはその二つになった沈黙、二つの死が、もはや自分のなかで永遠につづくだろうこと、永遠につづくほかはないことがわかっとった。彼は、葬列のあとは追わなんだ。追う必要があれへんかった。この二つの死は、結局、おれのなかに埋葬されるほかはないのや。

　――でも、なんっちゅう皮肉やろう、と彼は口の中でいった。あれから、おれはこの傷にさわりたくない一心で海岸のこの町を避けつづけてきたっちゅうのに。そうして今日、せっかく十数年後のこの町、現在のあの芋畑をながめて、はっきりと敗戦の夏のあの記憶を自分の現在から追放し、過去の中に封印してもうて、自分の身をかるくするためにだけおれはこの町に下りてみたっちゅうのに。……まったく、なんっちゅう偶然の皮肉やろう。

　やがて、彼はゆっくりと駅の方角に足を向けた。風がさわぎ、芋の葉の匂いがする。よぉ晴れた空が青く、太陽はあいかわらず眩しかった。海の音が耳にもどってくる。汽車が、単調な車輪の響きを立ちぃ、線路を走って行く。彼は、ふと、いまとはちがう時間、たぶん未来のなかの別な夏に、自分はまた今とおなじ風景をながめ、今とおなじ音を聞くのやろうっちゅう気がした。ほんで時をへだて、おれはきっと自分の中の夏のいくつかの瞬間を、一つの痛みとしてよみがえらすのやろう……。

　思いながら、彼はアーケードの下の道を歩いとった。もはや逃げ場所はないのだっちゅう意識が、彼の足どりをえげつなく確実なものにしとった。