地獄

地獄


白ひげ海賊団2番隊隊長、ポートガス・D・エース。

”鬼"の血を引く男の処刑は、十数時間後に迫っていた。

明日私は、戦友が、彼の母が、彼が父と慕う男が守ってきた秘匿を破り、その血をこの世界から絶やすべく戦うことになるだろう。

「東勤務の最後に会ってきたんですが、エース君には大泣きされちゃいました」

なんとか宥めようとしたガープ中将の右目に、思いっきりパンチを入れてましたよ。

赤い瞳を細めて困ったように笑う声が、今はこんなにも遠い。

子供は小さければ小さいほど苦手だと言っていたロシナンテは、東の海支部勤務時代には度々ガープの奴に引きずられて子守に駆り出されていた。休暇のたびに赤ん坊の世話をさせられたせいか、あいつには己の能力を"安眠において自分の右に出るものはいない"と紹介する癖ができてしまったらしい。音を絶つ壁の中で子守歌でも歌ってやれば、夜泣きもすぐにおさまるのだと。

「エース君もいつか、おれの後輩になるのかな」

あのガープの孫だぞ。始末書の山は覚悟しておけと答えた私は、上手に笑えていただろうか。

この時代には、この世界には赦されぬものが多すぎる。

なればこそ正義を掲げる者には、常に選択を迷わぬ覚悟が必要だった。

少しでも多くの命が、少しでも長く幸せを享受できる世界のために。

それが、私の選んだ生き方だった。


書類をまとめ人気の無くなった執務室を後にする。

明日、ひとつの時代が終わり、始まる。今の私に感傷に浸る暇などないのだ。

シャボンディでの黄猿の動きにインペルダウン収容の手続き、世界貴族に対し問題を起こした海賊どもの追跡について。明日以降処理を進める予定の書類をめくり自室への道を歩いていると、騒々しい足音がまた追いかけてきた。

どうやらこんな時間にまた厄介ごとが舞い込んだようだ。背後で小気味よく続いた敬礼の足音に、悟られぬようため息を吐き出す。

「センゴク元帥!!!海軍本部に侵入者が…!!」

「なんだと!!?」

頭の痛くなるような報告に振り返った私が目にしたのは、マリンフォードを見下ろす月に照らされた、私よりも更に長身の男だった。

白いスーツの上下に青いシャツ、白いタイを首元まできっちりと締め、正義のコートを羽織ったその姿が遠い記憶に重なる。月光を受けて輝く金の髪もおかしそうに細められた赤い瞳も、かつて見慣れたそれと同じ色に相違ない。

「侵入者は七武海一名…警備を見直すべきかもな?」

声が、違う。目元も違う。東の海の安く重たい煙草の匂いもなかった。

だが、よく、似ている。

「……ドフラミンゴか?」

「フフ…分かりやすくていいだろ?まあ"こいつ"は能力の応用だが…」

男の手指の動きに従い衣服ごとその身がほつれ、再び形を成していく。ややあって現れた姿は、包帯で目元を幾重にも覆い、あの医療の街ヤーナムの狩人たちが纏う独特の装束に身を包んだものだった。

イトイトの実の能力者、ドンキホーテ・ドフラミンゴ。

マリージョアの地を踏めぬその男の能力には、未だ不明な点が多い。とはいえ血の通わぬこの人形は、先の言葉通り能力で形作られたものに違いないのだろう。

「…本当に強制召集に応じるとはな」

「こっちは追加の条件まで出してんだ。来ねェほうがおかしいだろう」

糸で作られた人形は口元を三日月の形に歪め、からかうように答えた。

確かに今回の召集は七武海の参戦を文字通り"強制"するものだ。だがこの男だけは、ドフラミンゴだけは望めば回避できる類のものであるはずなのだ。

例え、"ポートガス・D・エースの遺体を譲り受ける"という要求を通したとしても。

「戦闘に参加するつもりか」

元帥となってから極秘に調べた限り、地に降りた竜の血を引く者たちの中でこれほど病を押しとどめた例は他に見られなかった。男の治めるヤーナムと医療教会は勿論のこと、地上において長く人を保つその血そのものが天竜人にとって一つの希望であるはずなのだ。当然、血を宿す当人にとっても。

多くの血が流れる戦場に、むやみに身を置くべきではない。

「…深入りするなと、釘を刺したはずだが?」

「海賊の言い分などいちいち聞いていられんのでな」

探るような声色に、鼻を鳴らして返した。

ロシナンテはうちの子だぞ。無辜の市民の命が左右されるというわけでもないのに、何も調べん方がどうかしている。

「海兵の血をウチに横流ししてる人間の言葉とは思えねェな」

「人聞きの悪い。信頼のおける加盟国の民間組織に血液検査を依頼しているだけだ」

「フフフ…!!フッフッフッフッ!!!」

耐えきれないといった風に笑い声を上げた人形の瞳を隠す包帯に、ロシナンテの姿を思い出す。昔から夜目がきいたあの子は真昼の太陽を眩しがり、子どもの頃は前髪を切るのを嫌がっていた。海兵になってからは目元が見える程度には髪を切り揃えていたが、代わりにフードのある服やサングラスを着用していることが増えていった。

今は知る者も少ないだろう古い手配書に写った、彼の兄と同じように。

「流石政府に黙って厄ネタを抱え込むだけのことはあるな…フッ…フフフ!」

「誉め言葉と受け取っておこう」

そうしてくれ。

続いた言葉に引き出されるのは、どうしてもやりきれない思いだ。

何を言われずとも、もう分っている。

かつて孤児たちの手に銃を握らせ巷では人を壊す薬を売りさばき、世界の全てを裏切りながら生きたこの男が真に求めたものが何であったのか。

一夜にして凪いだヤーナムの海。時を同じくして奪取されたオペオペの実に代わり現れた、"奇跡の医療者"。それまでの狂気が嘘のように、街を守り育てた男。残された悍ましい噂の主の名は、ロシナンテのコードネームと同じだった。

ナギナギの能力は、使用者の死後解除される。

ならば絶えぬ凪に守られたあの医療の街には今も、ロシナンテが居るのだろう。

「そうそう…弟のことだが」

「……なんだ」

「あんた、あいつをどこで見つけた」

問いかけの形をとったそれはどこか、答え合わせをするような色を帯びていた。

あばら家の中にうずくまる、動く力もないほどに痩せ細った幼い体を思い出す。

「北の非加盟国のボロ小屋だ。食糧もなく傷だらけで、ひどく衰弱していた」

「……」

「保護してすぐに、天竜人の血を引いていることも分かった。私はずっとロシナンテのことを、地に戻された落とし子だと思っていたのだ」

だからこそ、血の繋がった家族にその血を疎まれ見捨てられたのだと。

それから私は政府に、何の報告もしなかった。それがあの時の私が選べる、精一杯の正義だった。

腕を組んだまま私の言葉を聞いていた人形は、呼吸を必要としないはずの口から長く息を吐きだした。俯いたその表情は、狩人帽のつばに遮られ窺い知れない。

「裏切ったのは、おれのほうだな」

確かめるような声が、暗い廊下にこぼれ落ちた。

今になってまたひとつ、分かったことがある。

あの日私はロシナンテに、身寄りがないのかと尋ねた。

それを聞いて火が付いたように泣き出したあの子は、家族の帰りを待っていたのだ。死に触れるほどの飢えと痛みと孤独の中で、戻らぬ兄をそれでも待っていたのだ。

マントと薄紅の羽根飾りを翻した背中越しに、男の姿を模したそれが振り返る。

「じゃあな、センゴクさん」

最後に、どこか弟に似た笑みを浮かべた人形は、闇夜にほどけて消えていった。


ああ。

もしも私がもっと早く、きっと彼らが離れてしまったその時よりも早く、彼らを見つけていたならば。

小さなロシナンテと同じように、たった2年早く産声を上げただけの小さな子どもの手を掴めていたならば。

彼ら兄弟が手を取り合う未来があったのだろうか。

嘘を吐かせてばかりだったロシナンテが年相応のわがままを言って、存外に穏やかな暮らしを好むらしい彼の兄と笑い合う未来が、どこかに。

この世界が、ほんの少し優しければ彼らは。


だが、そうはならなかった。

ならなかったのだ。


積もるばかりの後悔を振り払い、暗い夜に歩を進める。

この世界に居場所なき忌み者の血を絶やす為の、明日の戦争に向かって。

正義の城に独り残された私を、今宵も冷たい月が見下ろしていた。





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