地獄の沙汰も拳次第
黄泉の一日は早い。
死者への刑罰を与える官吏達がそれぞれの管轄での仕事を始め、閻魔が奏上された案件に判決を下す。
いつもと変わらぬ一日の始まりの仕事の段取りを終え、一息と茶を用意する官吏に騒がしい声が飛んでくる。
「おい煩いぞ」
「か、官吏!大変です!」
「なんだまた脱走しようとした奴が出たか?連れ戻してこい」
死者が刑罰から逃げ出そうとするのはよくある事だ。
それをどうにか出来る者のみがなれる黄泉の官吏なのだからいちいち報告せずに行けばいいのに、と茶を啜る。
「ゴールド・ロジャーがまた三途の川を泳いで現世に行こうとしてます~~~!!!」
飲んでいた茶が霧になった。
「牢に鍵かけてたんだろうな!?」
「かけてましたよ!ガッチガチで隙間なく!おかげで最近溶接まで出来るようになりました!」
「そうかそりゃよかったな!じゃあ何で逃げ出してんだ!!」
「牢の柵折り曲げて逃げたんですよぉ!!!どうしろってんですかあんなの!!!」
慌てて映像電伝虫に映させれば無惨にひしゃげた檻を目の当たりにする。
ゴールド・ロジャーという男はただの人間……人間である筈だが……人間かな?
「官吏ぃ!もう黄泉平坂の千引岩まで行ってますぅ!」
「スゥーーーー……まあ座れ。茶でも飲もう」
「諦めんなよ!!!」
遠い目をして茶を勧める官吏にツッコミが入るが彼は知っているのだ。
「そこまで行ったなら戻ってくるまで放置しておけ。どうせまた現世で被保護者に何かあったんだろう」
何せ黄泉の刑罰中官吏相手に長々と語る程なのだから。
「なんで焼かれながら『そういや焼き芋でもやりゃあよかったな~』とか笑顔で語れるんだろうな」
「あの……人間……ですよね……?」
「資料によると人間だ。ルナーリアとかでもなかったぞ」
「なんで針山にぶっ刺さりながら『そういや俺が剣教えたって言ったらレイリーから拳骨食らったな』とか話してるんでしょうね……」
ロジャーの資料を捲りながら新人官吏も遠い目をする。
「とにかく帰ってきたら新しい牢に入れとけ」
無駄だと思うが、という疲れ切った声には気づかない振りをした。
後に担当官吏が胃潰瘍で倒れ、新人官吏にお鉢が回って白目を剥く羽目になるのだが彼はまだ知らない。
三途の川をバタフライで泳ぎ切り、黄泉平坂を駆けあがり、千引岩のど真ん中に拳一つで粉砕して現世へと飛び出したロジャーがまずした事は怒り狂う妖刀の領域へと飛ぶ事だった。
鬼哭の領域である雪原は荒れ狂う吹雪に覆われていた。
禍々しい覇気を巻き散らし、ローの怒りと呼応して咆哮を上げる獣の頭目掛けて拳を叩きつける。
鉄を殴ったような硬質な音と共に僅かに理性が戻ったのか、放たれる覇気が僅かに揺れた。
しかしそれでも怒りに満ちた相貌に舌打ちを一つ零す。
『っち、何があったか知らねえがお前が暴走したらローがやべえって判ってねえのか!』
鬼哭はそもそも持ち主であるローと強く結びついている。
ローが怒りに我を忘れても鬼哭が平常ならそれほど問題ではないが、妖刀の核であるコラソンがキレてしまえばローの感情の昂りも合わさってロー自身を疲弊させてしまう。
その辺りは目覚めた時に理解している筈だが、それでもここまで怒り狂う何かがあったのか。
もう少し早く来るべきだったかと思うが四六時中一緒にいられるわけではないのが死者である弊害だ。
そもそも死者がこんなにフットワーク軽く地獄と現世を反復横跳び出来ている時点で何かおかしいが、何せ彼はゴールド・ロジャー。世界で最も自由を謳歌した男だ。それくらい出来てもおかしくない。
唸り声を響かせ、毛を逆立てた獣にさてどうすべきかととりあえず拳を鳴らす。
何発か殴ればどうにかなるか。
だがそれよりも早く獣の耳が何かを聞き咎めたのかぴくりと跳ねる。
「コラさん……」
『……ロー?』
濃密な殺気が霧散し、呆けたように空を見る姿に拳を解いた。
どうやらいつぞやの海王類にやったように骨という骨を拳で砕くような事にはならないで済みそうだ。
ロー自身は鬼哭の中にコラソンの意識がある事は知らないからこれは彼の心が鬼哭を通じて聞こえているだけのようだが、その内容にロジャーの眉間にも皺が寄る事になる。
俺はあいつの『コラソン』なんかじゃない。
コラさんが引けなかった引き金は俺が、絶対に。
麦わら屋達に手出ししたのは、俺がいると判っていたから?
……なら、俺の船のクルーたちも?
おれのそばにいたら、あいつらも。
みんな、コラさんみたいにいなくなる?
『違う、違うんだロー!』
とうさまも、かあさまも、らみも、しすたーも。
おれのだいじなひとは、みんないなくなる。
おれがそばにいるから、いなくなる?
『ロー!』
泣きそうなコラソンの声はローには聞こえない。
それに難しい顔をしたロジャーが腕を組む。
夢に招いてケアをする事は出来る。
だが既にいなくなった自分やコラソンに出来るのは慰めだけだ。
ロー自身が体感した喪失をなかった事には出来ないのだ。
それは鬼哭の領域に現れている解けない雪のように、ずっと彼の奥に積もり続けている。
『…こういうのを歯痒いっつーのかな、レスト…』
返る言葉は無い。
いつの間にかローの声も聞こえなくなっている。
鬼哭を離したか、眠ったか。
せめて夢は穏やかであってほしいが、舌足らずだった最後の方は寝落ちる寸前だっただろうから難しいかもしれない。
また滝のように涙を流すコラソンに溜息をつき、そして静かになった雪原のど真ん中に見えたそれに目を瞠り、笑った。
『どうやら骨のあるやつが傍にいてくれてるみてえだな』
にょっきりと雪を割って鮮やかなひまわりが一輪咲いている。
風に揺らされながらもきらきらと陽の光を浴びて輝く花の上には見慣れた麦わら帽子が乗せられていた。
『うん…ちょっと前に咲いたんだけど、そこだけ温かいんだよ』
ほら、と近くに座り込んだコラソンの身体に積もった雪がみるみる解けて落ちていく。
溶けない筈の雪を割って咲いたそれが示す希望をロジャーだけが理解する。
現世にいるローを引っ張ってくれる相手がその帽子を持っている事に喜べばいいのか笑えばいいのか。
『よし、これ以上ローに影響出さねえように鍛えてやるよ』
『へ?』
『ローを護るっつったのに危険に晒したやつはどこのどいつだ?』
『俺だけどぉ!』
『明日からボッコボコにすっから強くなるんだぞ~』
にこにこと笑うロジャーにコラソンが尻尾を膨らませる。
しかし鍛えなければローを護れないし、今のように暴走する度ロジャーに殴られるのも勘弁してほしい。
『や……優しくしてね……?』
『生娘みたいな言い方するな気持ち悪い』
かくして次の日から毎日のように黄泉を抜け出す事が確定し、数日後に担当官吏の胃に穴が開いた。
「ああ…ああ、予定通りに合流出来るだろう」
僅かに開いた扉から聞こえた声に中を覗き込めばローの背が見えた。
ポーラータングとの連絡中らしく、声がほんの少し柔らかい。
「食料の買い出しと整備はしっかりな。体調は?…そうか」
聞こえる声は様々で、クルー達が集まって話しているのだろうと察する。
仲が良いなぁ、と見ていれば会話が済んだのか背もたれに身体を預けて大きく息を吐いた。
その音に盗み聞きしちゃったと慌てて足音を立てずに去ろうとすれば電伝虫の鳴き声が聞こえて足を止めた。
それだけなら何か伝達忘れかなと思ったが、ローの反応によってそれは否定される。
立ち上がった拍子に椅子が倒れ、派手な音が響く。
鳴き続ける電伝虫を前に立ち尽くし、僅かに後ろに下がって首を振る。
「なんで……」
呟かれた声は震え、焦燥が滲んでいる。
暫くして鳴き止んだ電伝虫に手を伸ばし、触れられずに下ろす。
「俺がここにいるって……わかってる、のか?なら、やっぱり…」
机についた手が震えるのが見える。
泣いているのかと思ったが、あれだけ派手な音を立てたのだから誰か来たらまずいと扉をノックすればはっと頭が上がったのが見えた。
「トラ男、どうかしたのか?凄い音だったぞ」
「……トニー屋か」
振り返ったローはいつも通りだ。
「悪いな、椅子から落ちた」
「ええっ!?医者ー!俺だー!?」
「どこも打ってないから平気だ、落ち着け」
溜息をついてしゃがみ込んだローが頭を撫で、後ろから顔を出したロビンが微笑ましいとばかりに笑って地面から生えた手が椅子を戻してくれる。
「怪我がないならいいんだ、けど……」
「騒がしくて悪かったな」
「気にしなくていいわ、食堂の方がもっと凄い音してるもの」
「それはまあ…仕方ないんじゃねえか、あいつらなら」
そう返すローに笑い、ロビンがチョッパーを抱き上げる。
「医療物資の確認に呼びに来たの、このまま連れて行ってもいいかしら」
「それはいいけど自分で歩くぞ?」
「抱いていきたい気分なの」
片手でチョッパーを胸元に抱え、ひらりと手を振る。
それに返すように手をあげたローが扉を閉めたのを見届けてロビンがチョッパーに声をかけた。
「盗み聞きは駄目よ」
「それは悪いと思ってる」
偶然とはいえ知られれば気分のいいものではないだろう。
だが先程の反応は何だったのだろう。
ローがサニー号に乗ってる事は口外していないが補給の時に一緒に動いているのを見た人からの連絡だったかもしれない、けれどあの反応はまるでこの船に乗っている事を知られてはいけない相手からのようで。
「…うーん」
「何か気になる事でもあるの?」
「勘なんだけどな…電伝虫かけてきた相手、会わせちゃいけない気がする」
あれほどに動揺する相手。
ローの反応。
「きっと会わせたらトラ男、嫌な気持ちになる」
「…そう」
ロビンも悟る。
恐らくその相手はヴェルゴに近しい誰かだと。
そしてもしその相手とローが対面する事になったなら……きっと、ただでは済まないと。
「あっちのクルー達との会話は可愛らしかったのにね」
「ああ、ってロビン、もしかして!」
そっちも盗み聞きしてたんじゃと視線で訴えてくるチョッパーににっこりと笑いかける。
「だって心配だったんだもの、ね?」
笑顔の圧に押されて頷く。
とりあえずルフィには話しておくべきだろうと二人が去った後、ローは再び電伝虫を持ち上げた。
「…俺だ。合流したらすぐに潜る。用意を今のうちに済ませて…後はお前ら、絶対一人で行動するな」
それだけ言って切る。
「もう奪わせてたまるか……っ!」
胸元のタトゥーに触れ、心臓の上で握る。
窓の外、決意に輝く目と同じ色の月に雲がかかりその輝きが隠される。
まるで彼の行く先を示すかのような、分厚く昏い雲で。