地獄からの脱出RTA 9月9日/昼 ー①
(うえー、バス遅れてんじゃん)
めんどくさ、と肩を落としながら凪誠士郎はバス乗り場の行列に並んだ。
同じ県下とはいえ自宅から私鉄二本とJRを乗り継いで、そこからバスで少し。祖母の住む街には幼いころから訪れ慣れていたが、今回ばかりは気が重かった。
目的が遊びではなく手術の付き添いの為だから、というのも勿論ある。けれどそれ以上に、祖母のいつにない様子がトゲのように引っ掛かったままだったからだ。
幼い頃から面倒くさがりで『できる子がやってあげましょうね』という言葉が好きではなかった凪にとって、『出来ること』と、『やらなきゃいけないこと』『やった方が良いこと』をごっちゃにせずに接してくれる祖母の傍は居心地が良かった。
そんな、理不尽とは縁遠い祖母が、いきなり見舞いを断ってきた理由が凪にはわからなかった。まだまだ夏休みが明けたばかりの小学生の凪が行かなければ、もっとずっと忙しい人たちへシワ寄せが行くというのに
(なんで??何か、ばーちゃんにとって想定外だか想定越えてた情報でもポップした?)
見舞いはいらないからと、その代わり『面倒くさい』を引っ込めて誰かに何かやってあげて、その話を聞かせて欲しい…なんて取って付けたような宿題を出してきたのはまるで
ブー、と合図の音を立ててバスの扉が開いた。
杖をついた客の乗降をそれとなく見守りながら、凪は自分もバスに乗り込んだ。…どこかで見かけた、死ぬ前に姿を隠そうとする猫の話など、頭の隅に追い払うように。
(面倒くさいよ、ばーちゃん)
子供が病棟を出入りすると迷惑だからかな、なんて可能性の反証のような少年。あの日つい睨みつけてしまったのと同じ姿を車窓の向こうに見かけ、凪は視線を無理やりバスの車内へ戻してゲーム機を取り出した。
訊ねずとも勝手に耳に入ってきた病棟内の噂話、事故で意識を失ったまま眠り続けているというイトシさんとやらについ重ねるのは麻酔の副作用の…
電源を入れてソフトが立ち上がるまでの間に脳みそが勝手に再生していく情報を、スタートボタンを押すことで凪はシャットアウトする。
思考を塗りつぶすようにプレーしたゲームはハイスコアを叩き出したが、ちっとも面白く感じられなかった。
( う わ )
一瞬だけ医師の垣間見せた表情に、パズルのピースが一瞬で絵を描くように『答え』が導き出されたのは、そんなモヤモヤした疑問を凪が抱えていたせいだった。
まもなく手術が始まる…家族である凪は祖母の眼鏡と病室の引き出しの鍵とを預かり、麻酔用の麻酔で少しうとうとし始めた祖母と握手して別れ――そんな時だった、その報せが手術フロアにもたらされたのは。
内線の着信を受けた看護師が、小さく驚きの声をあげ「はい、…はい、お伝えします」と応じて通話を切った。
「先生、病棟からです。糸師さん…女性のほう意識回復されたそうで、特に指示がなければこれからJCS等の確認に入るとのことです」
その、刹那。
妄執に憎悪、焦燥、憤怒…そしてもっとどす黒く冷たい刃のような感情を目に浮かべた医師は、まばたき一つでその全てを覆い隠した。けれど凪誠士郎にとっては、その一瞬で充分だった。
(うわー…ヤバいひとだ)
気付いたことに覚られてはならない、だから凪は全力で、先ほどまで祖母の手を握っていた己の手のひらを見つめるフリをした。
いきなり見舞いへ来るなと言い出した祖母、主治医の養い子である少年、少年の母親がようやく意識を取り戻したことに医師の向けた黒い感情…
(ばーちゃんが言わないわけだ、執刀医ヤバいから見舞いに来んなとか病院内じゃ言えるわけないし)
(…どうしよー)
(気付かなかったで済ませちゃえば、普通に手術してもらえるならそれで)(けど)
短く指示を出していた医師が、重心を移動させるのを凪は視界の端でとらえた。
(あ)
咄嗟だった。『ここで行かせるのはダメだ』という衝動に、凪は咄嗟に従った。
「お…おめでとうございます」
歩き出す寸前だった医師の視線が向けられる…凪は表情が出にくいと言われる自分の顔に改めて感謝した。
「えっと、親戚なの聞いてたし。良かったですね。良かった、ラッキーのおすそ分けもらうから、ばーちゃんもきっと大丈夫…大丈夫…」
そうして、先日祖母が同意書を書く手伝いをした時に一読した全身麻酔の副作用の記述、循環器や呼吸器に重篤な副作用が出るケースが…などの症例をつらつら呟き、時折祖母の顔に視線を落とす。
祖母の手術を前に不安で仕方がない子供だと、侮ってくれれば都合が良かった。
「みんな言ってた、先生の手術なら絶対大丈夫だって。ばーちゃんをお願いします」
凪はさりげなく退路塞ぐような位置で深々と頭を下げる。
手術の成功を切に願う、その気持ちはどこまでもホンモノだった。
(シロならごめんなさいでいいや)
(けどもしコイツがクロなら。今出て行かせたらばーちゃんの手術、何かのアリバイとかに使われるかもしれない)(それは……イヤだ)
「そうね、先生なら大丈夫だから、手術が終わるまで安心して待ってましょうね」
宥めるように声をかけてくれたのは、入院病棟から祖母に付き添ってくれていた看護婦さんだった。
「先生、そろそろ…」スタッフに促され、「あ、ああ」と応じる医師の声。
(よっしゃタイムアップ)
判定勝ち、と内心呟きながら凪は顔を上げた。そうしてストレッチャーに載せられ手術室へ向かう祖母を見送る。
これから四・五時間はかかる手術だ、患者の家族にあそこまで麻酔への不安を口にされた上に執刀医の立場では、おそらくその間このフロアを離れることは無いだろう。
(ばーちゃん、頑張ってね)
(俺も宿題、ちょっとだけ頑張ってやっとくから。……正直、すっっごく面倒くさいけど)
「ねえ、オマエの親って意識無くなってて当然のクズだったりする?」
「あ”?…おい、今なんつった!?」
先ほどバスの中から見かけた公園。
実の親に虐待されてたって可能性も一応あるのかなーと念のために尋ねた凪に返ってきたのは、乱暴に襟首を掴み上げてくる手と、射殺すような視線だった。
「あ、やっぱり違うんだ。おめでとー、イトシさん?意識戻ったってさ」
「……は」
凪の襟首から手を離した相手にの眼前に。
「せんせー今オレのばーちゃんの手術中だから先に知らせに来た」
と言いながら凪は、文章の作成画面を表示させたゲーム機を見せつけるように掲げた。
【大きい声出すなよ
あの先生は、あんたの後見人やら財産管理の立場を返せって言われて大人しく返す人?そうじゃないなら時間むだにすんな】
ざぁっと青ざめる顔色に、凪誠士郎は二つのことを悟った。
一つ、執刀医はクロである
もう一つ、クロはクロでも想像以上の、医療・生命倫理さえドブに捨てかねないと同居親族に疑われるレベルの真っ黒である…
(うわ…ばーちゃん医者ガチャ大爆死じゃん、ホント勘弁して)
「ゲーム機今あるならフレンド登録してくんない?ばーちゃんから宿題もらってんだよね」
こないだすれちがい通信してたし持ってんでしょ?と。
いきなりゲーム機をかざした手前、盗聴や盗撮を警戒してわざと子供らしく出した声が、不自然でないことを凪は願った。
地獄からの脱出RTA 9月9日/昼 ー① 了