在りし日の記憶 ──もう一つの歴史──

在りし日の記憶 ──もう一つの歴史──

66タカ

「──どうだい?」

「甘過ぎます」

「えー?これでも砂糖を減らしたんだがねぇ」

「…100から減らすのではなく0から足すことはできないんですか?」


0から足す…か、考えもしなかった。


「…ところで味見はしてるんですか?」

「する訳ないだろう」

「…味見しないからこんな甘い物になるのでは?」

「私が珈琲を飲むとでも?」

「…だったら飲ませてあげましょうか?」

「え?…ちょちょっと待ちたまえ──!」


バシャア!


「あっ…」

「まったく…私が君に珈琲を振る舞う理由を忘れたのかい?」

「…まだ慣れてませんから」


彼女の今の手ではマグカップを持つのがやっとだ。

だからこうして私は彼女の代わりに彼女が飲む珈琲を淹れている…まぁ、彼女のお気に召す珈琲には程遠いが。


「さて、私はこれで失礼するよ」

「…最近よく失礼しますね」

「研究が行き詰まっていてねぇ…一人になりたいのさ」


────────⏰────────


「…」


最近…研究の事よりも彼女好みの珈琲の事ばかり考えている。

彼女に残された時間を考えれば当然の事だろう。しかし、ここ数週間一切の実験も行っていないのは由々しき事態である。


「ふぅン…久しぶりにトレーナー君で実験しようか…」

「タキオン?」

「──おや奇遇だねぇトレーナー君。いきなりで悪いが」

「実はカフェの事で探していたんだ」

「…話したまえ」


「3回。後3回レースを走るとドーピング行為として珈琲を禁止される」

「─────────」


莫迦な…もうそこまで進行していたのか…


────カフェイン

詳しい事は省くが珈琲に含まれる有機化合物である。

摂取する事で中枢神経系を興奮させ疲労や眠気を軽減する等の効果があり、反応速度や集中力を向上させる事ができる。

…URA指定の特殊禁止薬物の一つだ。


カフェインは運動パフォーマンスの向上をもたらすが、人間の競技では禁止薬物とされていない。

それは人間の代謝機能ならばそこまで強く作用しないからである。人間に限りなく近いウマ娘も同様だ…一定の段階までは

ウマ娘は走れば走る程に肉体が変質する。

その過程で内臓の機能まで変化し、カフェインの代謝を行うCYP1A2という代謝酵素が減少する…人間よりも血中濃度が高まり作用が強く出てしまうのだ。

その為競走ウマ娘は一定のラインを超えると禁止薬物としてカフェインを含む物の摂取を禁じられる。

…彼女は珈琲を口にする事ができなくなってしまう。


「そうか…もうそこまで来たんだねぇ」

「そうだね。あの子のトレーナーとして誇らしいよ」

「…」


ウマ娘の完全な変質は無事に走り切った事の証明であり、トレーナーとその担当にとってとても名誉な事である。

私も彼女の友人兼同期として喜ばしい。

……喜ばしい…はずだ。


────────⏰────────


「うぅ…苦い……」


覚悟していたとはいえこれは苦い。苦過ぎる…

とりあえずありったけの砂糖をかき集め────


「…しまった」


これは私が飲む為の珈琲ではない事を失念していた。

溶解度を超過して砂糖が浮かび上がっている珈琲なぞ彼女の視界に入るだけで何を言われるか…


今私は寮の自室で珈琲の練習をしている…自身で味見をしながら。

今朝までの私からするとありえない事だろう。

だが彼女に残された時間が少ない…


…今日はもう止めておこう。深夜だというのに目が冴えて仕方がない。

明日は彼女のレースがあるのだ。


────────⏰────────


────タキオンさんタキオンさん、こんな所で寝ちゃったら風邪引いてしまいますよ。


「あぁ…すまないねぇ、デジ────」


───振り返った先には誰もいなかった。

…当然だ。同室のデジタル君はもう…いない。

何故今になって彼女の事を…


「12時…寝過ごしたか…」


今日は彼女のレースの日だ。

…今から出発しても間に合わないだろう。

大人しく彼女が帰ってくるのを学園で待つ事にした。









…何故私は醜態を晒してでも観戦に行かなかったのだ。

─────彼女は腕と声を失った。


────────⏰────────


「…どうだい」

『まえよりかなりよくなりましたね』

『なにがあったんですか』

「…味見するようにしたのさ」

『あしたはやりでもふるのでしょうか』

「ははっ…そこまで信じられないか」


タブレット端末を扱う知能が残っていてくれて助かった…現在彼女はタブレットに文字を書いて意思疎通をしている。

マグカップを持てない事に考慮して床に置いたマグカップにストローを伸ばして彼女に飲ませている。


───あの時四足歩行で帰ってきた彼女の姿を見て声を失った。

───発声機能が衰えて唸るだけの彼女の姿を見て崩れ落ちそうになった。


…もう彼女の声を聞く事ができない。


「…では得点をいただけるかな?」

『50てんです』

「手厳しいねぇ…」

『これまでは0てんいかだったんですよ』


…まだ50点か。

猶予はほとんど残っていないというのに…


「君の望む味までは遠いねぇ…」

『もういれなくてもいいですよ』

「…何を言っているんだい」

『わたしにかまわないでじぶんのことをやってください』

「────────────」


なんで…


『そんなかおしないでください』

『わたしはきにしていないので』


なんでそんな簡単に受け入れることができるんだ君は……

自分の好物を飲めなくなるというのに…!


「…失礼させてもらうよ」


────────⏰────────


「…」


どうする…どうすれば彼女の好みの味にできる…

どうやれば理想の珈琲を淹れる事ができる…!

どうすれば…「きゃあ!?」


「!?…すまないねぇ。考え事で前が見えてなかったみたいだ」

「あっ、いえ…前を見ていなかったのは私もなので…」


ふむ…肉体に変化が見られない所を見るにデビュー前の生徒だろうか。

私にも非がある以上後輩君の持ち物を拾うとするか…………ん?


「これは…」

「あっ…それは私の好物なんです」

「奇遇だねぇ…私の友人もそれを好んでいたよ」

「そうなんですね」


…私が使用している珈琲豆だ。

彼女が愛飲していた物と同一の物を購入して使用している。

だが…


「彼女に振る舞える珈琲を淹れれなくてねぇ…」

「え?」


…しまった。つい声に出してしまった…


「あの…でしたら淹れ方を教えてあげましょうか?」

「…いいのかい?」

「はい。私は困っている人を助けるのが好きなので」


この子は随分とお人好しのようだ。

だが…これは好機だ。


「では、君の好意に甘えるとしよう…立てるかい?」

「ふふっ…ありがとうございます」


芦毛の少女に手を貸す…私より大きいな。170くらいか?


────────⏰────────


「───では、始めましょうか」

「───あぁ、どんとこい」


…人に教えてもらう事を考えた事がなかった。

始めた当初は珈琲の淹れ方を無礼ていたのだ。

…彼女の症状をもっと深刻に捉えるべきだった。


「…あの、大丈夫ですか?心ここにあらずって感じですが…」

「あぁすまないね…今日は友人のレースの日なんだ」

「えぇ!?なんでそんな大事な日に私を優先したんですか!?」

「…見たくないんだ。何もかも」


──昔は普通に見れていた。

レース後にウマ娘が変貌する様もそれを好意的に見る観客もごく普通の光景なのだ。

だが今は…不気味でしかない。

まるで異界の地に放り出された気分だ。

あの場の人間全員が怪物に見えてくる……


「そうですか…模索はしません。ですが逃げたからには完璧に覚えてもらいますよ」

「元よりそのつもりだよ」











…何故私はいつも一歩遅いのだ。

─────彼女は知恵を失った。


────────⏰────────


「凄いです!これならお友達も喜んでくれるのではないでしょうか?」

「…」

「善は急げ。お友達に振る舞いに行きましょう!」

「…」

「…先輩?」

「…行きたくない」

「は?」


──怖い…私の頑張りが無駄になるのが。

──怖い…今の彼女を見るのが。

──怖い…彼女に否定されるのが。


「…また逃げるのですか?」

「前回はともかく今回逃げるともう取り返しのつかない事になりますよ」

「先輩が言いましたよね?次のレースでお友達が珈琲を飲めなくなると」


そうだ…もうチャンスは今しかない。

だが…恐怖で体が動かないのだ……


「──逃げれば一つ、進めば二つ」

「…私の好きな言葉です。」


逃げれば一つ…


「…かつて私は逃げました」

「自分の軽率な発言で友を三人失いました」

「夢を目前にして力尽きた友に託された想いを空虚なまま成しました」

「…変わっていく自分とそれを期待する人達を恐れて立ち止まりました」

「私が得た物は一つ…『一人置き去りにされた愚か者』という称号です」


一人置き去りにされた愚か者…はは、まるで今の私ではないか。


「今逃げれば先輩は『無駄に上手い珈琲の淹れ方』を得ることができます」

「ですがそれは飲んでほしい相手がいたからこそ得た物でしょう?」

「貴女のお友達はまだいます…失ってから後悔するのは遅いんですよ」


彼女は今も後悔しているのだろう。だからこそ私が同じ道を歩まないように…

…そうだ、私は彼女に再びあの珈琲を飲ませなければならない。

それに後輩君の言う通りならば彼女はまだ…いる。


「…本当にまだいるんだね?」

「はい」

「君の言葉の通りなら進めば二つ得る事ができるんだね?」

「もちろんです。そうですね…今先輩が進めば」


────お友達のお墨付きと新たな目的を得られるでしょう。



────────⏰────────


「──初めてここに入るねぇ」


トレセン学園には三番目の寮がある。肉体の変質が終盤に差し掛かったウマ娘が住む寮だ。

四足歩行になってしまったウマ娘はこれまでの生活が困難になる為必ずこの寮に移される。

…私は以前からここを避けてきた。

最初は言葉を話せなくなったウマ娘では実験に使えないと考えていたからだった。

今は…ここが隔離病棟みたいに見えてしまうからだ。


ウマ娘は変化の過程で脳が縮小する…それが原因で性格が変貌するウマ娘は少なくない。

家族思いで心優しかったウマ娘が近寄れば指を噛みちぎるのではないかと言われる程に凶暴化したという事例を聞いたことがある。

…顔見知りがそのような事になっているのではないかと恐れていた。


「…広い」


変質するウマ娘は全体的に大きくなる。だからこそ廊下や扉が広く設計されているのだろう。

一通り見て回ったがこの寮ではそれぞれに部屋が割り当てられるようだ。部屋の入口に対して扉が小さいのが特徴だ。

…訂正しよう。隔離病棟みたいではない…清潔さで誤魔化しているだけの家畜小屋のようだ。

何故彼女達はこれを受け入れるのだ…悪意無くこの場所に連れて行く人間達もそうだ…何故疑問にも思わない…


ガンッガンッ


「ん?」


私が前を通過した瞬間に音を鳴らすウマ娘がいた。

ふむ…完全に変化しきったウマ娘か。この栗毛のウマ娘には見覚えがないが…


「!」


彼女は私が気付いた事に喜んでいた。

一体誰なのだろうか…私は確認のためネームプレートを────


「──君はデジタル君なのかい?」

「(小さく頷く)」


…彼女の特徴だったピンク色の髪が栗色の体毛に生え変わっていた為気がつかなかった。

それに…自分の名前と私の事を覚えているとは思っていなかった。

こんな姿になって長く経過しているだろうに…私を覚えていてくれた事が嬉しく思う。

これは期待できるのだろうか…後輩君の言う通り彼女がまだいる事を…


────────⏰────────


「──見つけた」

「…」


まだ頭髪が生え変わっていないみたいだ…頭髪以外はもう彼女の面影が無い。

彼女は私を見たきり何も反応していない…頼む…覚えていてくれ…


「君が珈琲を飲める最後のチャンスだからねぇ。わざわざ珈琲を淹れに来た私に感謝したまえよ」

「…」


──飲み皿に珈琲を注ぐ。ついでに持参したタブレットにわずかな希望を掛ける。


「…」


数刻待って彼女が珈琲を飲み始めた…まるでペットみたいだ。

これがウマ娘の辿る運命なのだと思うと虚しさが込み上げてくる。


「………どうだい」

「…」

「………」

「…」


…駄目か。

だが最後に彼女に珈琲を飲ませる事ができたことでも────


「…」

「……!?」


──彼女がタブレット用のペンを咥える。

そのままタブレットにペンを走らせ……



『◎』



「──ク、ククク…ハハハハハハハ…!そうか…!君はこんな味が好みなのか!」


残念だが私は彼女の好みを理解できないようだ。












……こんな苦くて塩辛い珈琲が好み、なんて。


────────⏰────────


「トレーナーになる…ですか?」

「ああ」


あの一件以降新たな目的ができた。

ウマ娘の変化の抑制…そして変質したウマ娘を元の姿に戻す。

その二つの為に私はトレーナーを目指す事にした。


「そんなに意外かい?」

「えっはい…てっきり学者になるのかと…それにウマ娘のトレーナーなんてあまり聞かないので…」


トレーナー資格はウマ娘でも取得できる。

だが、トレーナーになろうとするウマ娘は数少ない…

理由としては『試験に挑戦できないレベルで人間としての機能が残っていないウマ娘が多い』事と『早期に引退したウマ娘は「置いていかれる」事に強いトラウマを抱く者が多い』…との事だ。


後者はこの前までの私も該当していた。

…私は無意識に彼女に置いていかれる事に恐怖していたのだ。

あの日勇気を振り絞って彼女達に会いに行こうとしなければ今頃学者の道を目指していただろう…勇気を与えてくれた後輩君には感謝しきれない。


「学者よりもトレーナーの方が実験しやすいと考えたのさ」

「確かに…URAと学園とトレーナーの同意が必要な学者よりもトレーナーになれば担当で研究ができますし、チームトレーナーになれれば…」

「そういう事だ。理解が早くて助かるよ」


それにトレーナーならば彼女を手元に置いておく事ができる…

完全に変質したウマ娘は卒業後に生まれ故郷に帰る事になるが、中央トレーナー資格がありデビュー前から深い交流がある者ならば申請すれば学園に留めておく事ができるのだ。

…卒業するまでにトレーナー資格を取れればデジタル君も手元に置いておけるだろう。

可能ならばデジタル君も優先して救いたい。



「ええ!?学生の内にトレーナー資格ですか!?」

「そうだねぇ。既に引退している身だから時間に余裕があってね」

「短期間で意識改革し過ぎだろコイツ…(ボソッ)」

「ん?」

「ああいえなんでもないです!!」

「そ、そうか」

「ゴホン!…とりあえず資格勉強を手伝いましょうか?一応暇潰しで受けた模擬試験で満点を取った事があるのですが」

「ちょっと待ちたまえ」


暇潰しで満点を取るなんて何を言っているんだ彼女は…


「?証拠ならありますよ。ほら」

「ええ…」


いつも思うのだが後輩君はハイスペック過ぎるのでは?

容姿端麗、文武両道。欠点があるとするなら時折エキセントリックな行動をする。

何故彼女がデビューしていないのか謎だ…


────────⏰────────


「──卒業おめでとうございます。先輩」

「ありがとう後輩君」


──あの後、後輩君の手伝いもありトレーナー資格を手に入れる事ができた。

何から何まで彼女に頼ってばかりだったと思う。


「すぐにでもトレーナー業を?」

「まずは世界中を回ってウマ娘の肉体の研究を行おうと考えているよ。それからトレーナー君のチームの元でサブトレーナーとして研修。そして独り立ちまでだいたい5年かな?」

「そうですか。先輩の初担当に会うのは当分先ですね……」


5年──

短いようにも感じるがタイムリミットを考えるとこれでも長い…独り立ちできるまでにどこまで研究が進んでいるかが鍵だ。


「──では、これで先輩ともお別れになりますね」

「私は君に頼ってばかりだったよ」

「いえいえ。私は人助けが好きなので」


本当にお人好しな子だ。


「そうだ。最後に聞きたい事がある」

「はい、なんでしょう?」



「──君は今逃げているのかい?進んでいるのかい?」




「今は進んでいる途中です」

「…そして進んだ先に『友と再び笑い合える日々』と『先輩の心からの幸せ』を得られると信じています」


「この先先輩は何度も壁にぶつかるでしょう」

「ですが私は信じています。先輩がいつか世界中のウマ娘を救う事を」

「──めいいっぱいの祝福を、貴女に」













────────⏰────────


「あれからもう5年か」


現在私はトレセン学園の新人トレーナーとして活動を始めた所だ。

──あれから研究が進み、進行を抑制する薬を開発する事ができた。

もっとも、抑制するだけであり完全に進行を止める事はできないが。

サブトレーナー時代に私に懐いてきたウマ娘とそのライバルは私の薬のおかげで人としての生活を継続する事に成功している。

…もうサブトレーナーではないのだから私のお世話をしようとするのは辞めてほしいのだが、何故か口にできない。


…変質した肉体を戻す技術はまだ確立できていない。

薬である程度元に戻す事ができたが、その後しばらくするとまた変質してしまう。

おそらくあと一歩の所まで進んでいるのだ…このままでは後輩君に示しがつかない。


あの後私は後輩君の名前を聞いていなかった事を思い出した。

よくもまぁあそこまで世話になって相手の名前を聞こうともしなかったものである。

おかげで未だに見つかっていない。



…物思いにふけるのは一旦止めよう。

今から担当を見つけなければならないのだ。


「ふぅ…よし。では私のお眼鏡に叶うモルモット君を探しに行くとしよう」


30分後に選抜レースがある…今度は間に合わせてみせよう。

そう心に誓い私は扉を────


ドカァァァァァァァン!!!!!!


「うおおおぉぉぉおお!?」


…開けようとして扉に吹っ飛ばされた。痛い。

うつ伏せの状態から視線を上げると扉が破壊されて床に倒れていた。

そしてその先には学生服が見える。

やれやれ…随分と厄介な生徒に…




「ちぃーす。ここに『世界中のウマ娘の救済』とかいう理想を掲げてる新人の変人トレーナーがいるって聞いたんだけどよぉ」



「──え?」


懐かしい声が聞こえる。


「勧誘してくるトレーナーはみんなつまらねー奴ばっかでなー」


あまりにも性格が違い過ぎるが。


「そろそろ鬱陶しく感じてきたからトレーナーになってくんね?」


恐る恐る顔を上げる────




「────トレセン学園OGのアグネスタキオンセ・ン・パ・イ?」




────あの日別れたはずの芦毛の後輩が私を逆スカウトしてきた。

End


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