四十日間の魔術師

四十日間の魔術師


 真夜中の中学校には耐え難い闇が潜んでいるような気がする。

 その屋上、空に溶け込むような黒いコートを着て少女は星座を眺めていた。上方に北斗、その下に牛飼いと乙女、獅子。街の灯りのほとんどが消え、車のライトも数カ所に見えるだけで、それでも思いの外明るいのは満月のせいだ。

  こんな金曜の夜は、普通の人間でも何かを感じるだろう。すでに多くの人間は眠りに着いているが、人のない街を眺め、あたかもその主になったように感じるのは、この時間に起きている者の特権であるようにも思える。少女もまた「特権者」の一人であった。

 足下のコンクリートには二つの鏡が向かい合わせに平行に立てられ、その間に水を満たしたガラス瓶が置かれている。風に少し長めの髪が舞う。少女は右手に持つ鴉の羽を掲げ正面に大きく十字を切った。


私と主人 生きる神々とその名によって

精霊とその地母神の純潔によって

おまえの住処たる九つの天によって

人の姿となって眼前に現れることを祈る

  

  それははっきりとした発音の、力強い声だった。ありとあらゆるものを従わせようとする、意志に満ちた声だった。

  風が少女を掴み、紺の制服が嫌な音を立てた。少女の声に答えるように、空気がきしむような音がする。街の救急車のサイレンや犬の声がやけに大きく聞こえる。自分の体内からうまれた筋肉のきしむ音、血液が流れていく音がどこか遠くの方から聞こえた。

 身体に力を入れ直すと、少女は再び右の手を掲げガラスの瓶を指し示した。

 

ここに用意した小瓶に入り望みに答えよ


 きしんだ音が止み、風が少女のそばを抜けた。何も変わっていない。星空も、それを含む闇も。しかし瓶の中の水が奇妙に濁り、不穏に揺れている。月光の加減のせいだけではない。

 少女は肩までの髪を掻き上げ、ほっと息をついた。成功を確信し、ほんの少しの不安と大きな期待を持って――少女はすばやく瓶に栓をした。ほっとしたように笑って瓶を手に取る。

  思ったとおり、瓶の中にはそれがいた。

  赤黒い肌に尖った耳、黒光りする角と爪、ぎょろりとした金眼、唇からはみ出た牙。背には蝙蝠のような羽を背負っている。見まごう事なく「悪魔」だった。

 少女は瓶をじいっと覗き込んだ。そして一言。

「……醜い」

  確かに人間の感性から考え、可愛らしいとは言い難い。しかしあまりに酷い台詞ではないか。さすがに悪魔もむっとしたように顔をしかめる。

「本で見たのと違わないね……」

 まじまじと悪魔を見て、少女は言った。

「しかし、本当に捕まるバカがいるとは思わなかった」

 少女の言うとおり、こんな簡単な罠に引っかかるのは低級悪魔だけなのだ。なるほど、この悪魔の階級は最下位であった。

 悪魔は不機嫌になりその台詞を聞いている。『人間に捕まった悪魔はその人間の言うことを聞かなければならない』。大昔からある、魔術師との契約だ。

 普通、魔女と言った場合、力の無い人間が悪魔の力を借りて魔術を行うものであり、魔女は悪魔に服従する形となる。それに対し、魔術師と言ったときは主に悪魔と対等、もしくは悪魔を服従させて契約を結ぶ形を取ることが多い。

 それは悪魔を誘拐、略取し、身代金を要求するようなものである。

「しかし、これでは気に入らない奴を転ばせることぐらいしか出来ないな……。それはそれで面白いけど」

 とはいえ少女が言うように、低級の悪魔にできることはそう多くはない。普通の人間に瞬間移動や大空散歩を頼むようなものだ。できるのはそれこそ気に入らない奴を転ばせることぐらいである。

 悪魔はようやく彼女にまともな視線を向けた。肩までの黒い髪に大きな目。目立って美人というわけではない。

「……クーリング・オフしようかな」

「は?」

「私はただ大いなる術に興味があっただけ。やってみたかっただけ。おまえのような小物を捕まえてもしょうがない」

 それは、子どもが虫や小動物を捕まえていたぶり楽しむ姿に似ていた。

「ぐ」

「それともあなたを人質に魔界へ乗り込んでみようか?」

「やめっ。お願い、止めて下さい。ストップ、ストーップ!」

  少女が瓶に手を掛けるより早く、悪魔が叫んだ。驚いて手を引っ込めた少女に、息を荒げた悪魔が懇願した。

「いえいえ、一生お仕えいたしますから。洗濯、掃除、皿洗い、何でもやりますから。世界一のお金持ちにして差し上げましょうか。それとも世界一美しくして差し上げましょうか。あ、いや、今のままでも十分お綺麗ですが」

  ここまで悪魔とは腰の低いものだっただろうか。ここまで人間にへつらうことがあるだろうか。人間臭く手をもみ合わせている悪魔に彼女は不審の表情を向けた。

  先程から悪魔が考えていたことだが、この少女、顔にも声にも表情といったものがあまりない。悪魔を前に作っている部分もあるのだろうが、おそらく、これは元からそうなのだと納得した。で、その冷たい声で少女は言った。

「ああ、帰れないのか」

 人間に負けた悪魔がどうなるのか彼女は知らない。ただ、悪魔とは実力と、それによる階級を重んじると本に書いてあった。人間の仕掛けた簡易な罠に引っかかるようなやつに居場所はないのだろう。

「弱いのね、あなた」

 少女にしては悪気のない台詞であった。

 ただ、言ったあとで少女は、少しまずかったかな、と思った。というのも悪魔は狭い瓶の中で固まったように動かないのである。左右に揺すってみたがまったく反応がない。少し心配になってさらに強く上下に揺すると、派手にガラスにぶつかる音がした。

 悪魔はやっと顔を上げた。金の眼には涙の跡がついていたが、それが先程の少女の台詞のせいなのか、ガラスにぶつかった痛さのせいなのかは解らなかった。

「大丈夫?」

「おまえな、いいかげんに……」

「仕方ない。しばらく私に仕えてみなさい」

 大きな金の眼球がこぼれ落ちそうなほどに悪魔は目を見開いた。なにがなんだかわからないといった様子で少女を見ているので、少女はわずかに口元を緩める。

「信用ない? 私は悪魔のことなんて、どうでもいいんだよ。だからウチにいて魔界に帰らなくてもかまわないの」

「……神に誓って?」

「神だけでは不服? なら仏様にも誓いましょうか?」

 そう言いつつ、少女は左手人差し指で地面を指していた。もちろん悪魔からは見えないように。ぽんと小気味いい音を立ててコルク栓が抜かれると、少女の眼前には男が立っていた。身の丈は少女より二十センチくらい高い、ひょろっとした中年男だった。

 浅黒く、整えられた髪型に、眼だけが瓶の中にいたときのままである。着ているスーツは、似合っているといえるのだろうが、なぜかその背中から翼が生えていた。しきりにその、いわゆる「悪魔らしい」羽を曲げ伸ばししている。

「うー、羽がこった」

「その羽は何とかしてほしい。目立つから」

「わかったよ」

 器用に悪魔は翼を折りたたんで消して見せた。少女の身長は同年代の女の子と比べて低いとは言えないが、当然、悪魔を見上げなければならない。不条理だが、少し腹が立つ。

「で? これからどうするんだ」

「いや、何もしなくていい」

「何もって」

「何かしたいの?」

「いや……」

 この子が死ぬまでたった百年の辛抱だ、と悪魔は思った。人間が不老不死になれるはずもない。上手く立ち回って死んだとき魂を喰らえば、自分の階級を上げることも出来る。そうして魔界へ戻ればいい。

 悪魔が未来へ対して希望を持ったとき、少女は「ねえ」と声をかけた。ふと見ると、手を広げて真上、満天の星空を仰いでいる。満月のせいで小さな光は見えないが、それでも昨日の雨のおかげでひどく鮮明に見える。

「さっき、『悪魔』とは呼びにくいと思ったんだ」

「そうか」

「……なんて呼べばいい?」

 向きなおって、しかも真面目な顔でそう聞かれても困る。

「名前は、あることにはあるが、人には教えられないものだ。名前を知ると言うことはそれそのものを知ることだ。縛りつけることも煮て焼くこともできる」

「そうか。確かに……」

 少女はまた空を見上げた。悪魔は同じように上を見る。ずっと疑問に思っていたことだが、たとえ最下級でも悪魔を呼び出すことは容易ではないはずだ。ただ興味があっただけと言ったのは本心だろうか。

 満月は既に西に傾いていたが、街が目覚めるまでまだ時間がある。東の空に目立つ明るい星はなかったが、ぐるりと見回して少女はある星に目を付けた。

「ヘラクレス座のアル=ラス=アルグル。変光星アルゴル……」

 上を向いていると、冷たい空気が星と共に落ちてくるように感じる。しばらくそれを眺め、何度も繰り返し呟いてから少女は言った。

「よし……アル、がいいな。うん、言いやすい」

  隣の悪魔に目を移した少女は笑っているようだった。ぎこちなかったが悪魔は笑っているのだと理解した。子供らしく笑うこともあるんだなと悪魔は困ったようにそっと頭を掻いた。

 そんな悪魔を「アル」と呼んで、少女は言った。

「私の名前も教えておくね。……ひろみ。たかはしひろみ」

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