四十五センチ先の月

四十五センチ先の月


「トレーナー君」


 夜の十二時を少し過ぎた頃。


 宿泊先から数分歩いた海辺、視界の両端に岩肌以外に水平線までを遮るものがない。雲一つない夜空に浮かぶ月が灯りのない砂浜を照らし、そこに立つ彼の影を浮かび上がらせている。


「ルドルフか」


 至極落ち着いた声色で私の名を呼ぶトレーナー君の隣に並び立つ。


 視線は常に上を向いて、遥か彼方の球体に注がれている。


「眠れないのか」


「ん……まぁ、そうだね」


 目線はないがこちらを気遣う短い言葉を何度聞いたことだろう。


 少々不器用な感が否めないが、だからこそこちらを想っているのが伝わる労わりの念────それがトレーナー君なりの、私への接し方なのだ。


「今日は軽めのメニューだとはいえ、休める時は休むんだ。自覚しにくい疲労は後からやってくる」


「心配は無用だよ。ただ、ほんの少しだけ目が冴えてしまってね」


 こちらを諭すような口調の彼にいつもの調子で返す。


 目が冴えている、というのは本当だ。


 しかし、ここまで来たのは浜辺に向かう彼の後姿が見えたからだった。月明りの届かない細道に消えていく君を、見失いそうで、そのまま二度と帰ってこないという、出自不明の恐怖が私をここへ駆り立てた。


 そんなことを言えるわけもないが、君の姿と声を確かめたかった。


「君こそ、どうしたんだい? 今日はトレーナー同士の話し合いやらで忙しい様子だったが」


 今度は私からここへ来た理由を投げかける。


 露骨な話の逸らし方ではあるが、このまま沈黙していたら聡い君はきっと気が付いてしまう。私の内心を、高潔なだけではいられない醜い部分を。


 私からの声に彼は首を傾けて視線をこちらへ投げる。


 些か不健康とも取れる肌の白さが降り注ぐ光で強調されているのに、輪郭の影は夜の闇に溶けそうに見える。隣にいるのに、姿形が消えそうに感じてしまうのは何故なのだろうか。


「……今夜は月がよく見えると思ったんだ」


 数刻の無言から彼は再び視線を上げてそう答える。


 彼につられて見上げれば、相変わらず輝く満月がそこにはあった。ただ遠くに浮かんでいるだけの、それでいてつい目を奪われるもの。


「あぁ、本当にきれいだ」


 ただ、本当にそう思っただけで口から思ったままのものが零れ落ちる。


 再び彼が私を見ると、その表情は少し驚きと困惑に揺れていた。


 冷静に考えればそうなのだろうが、嘘偽りないものなのだから勘弁してほしい。


「トレーナー君」


「うん?」


「改めて、礼を言わせてほしい。私一人ではここまで辿り着けなかった」


 本当に今の私はどうかしている。


 前後の脈絡もタイミングもない、闇雲に話しているようにしか感じられない。


 それでも会話を止めてしまったら、君が────私の大切な君が消えてしまいそうな気がして。




 そこから一分近く色々と話し続けた。


 レースのこと、生徒会のこと、ようやく昔のように話すことができた幼馴染のことなど。


 そうして浮かんでくる言葉を放り出して、ついにはもう形にできるものがなくなった。




 彼は私の言葉を黙って聞いてくれた。


 度の入っていない眼鏡の奥にある瞳でこちらを見据えながら、一字一句聞き逃すまいというような具合に。


 もう取り繕うことさえできなくなって、ただ口に出していなければならないという、脅迫めいた感覚を覚えていた私は、どう映っているのだろう。


「ルドルフ」

「……なんだいトレーナー君」

「大丈夫だ」


 たったそれだけ、その言葉を聞いて私は固まった。まさに心の不安を見抜かれていたようだ。


「俺は君から離れるつもりもない。それに君が言ったんだぞ? ”君を手放すつもりはない”、と」

「っ……」

 彼の瞳と視線が合う。微かに滲む視界で彼の輪郭が歪んでいる。

「もし、俺が離れるのに納得できないなら、追いかけてくればいい。皇帝シンボリルドルフなら捕まえられるだろう?」

 得意げな顔で、こちらを煽るように言い放つ。

 あぁ、本当に君は私の扱いを心得ている。


「……もちろん、例え君でも手加減なぞしてやるつもりはないさ」

「そうだ、それでいい」

 私の返答に満足したのか、安堵の表情を浮かべてくれた。


 もう、不安の霧は晴れていた。




「子供の頃、夜歩きが趣味だった」

 宿泊先へ戻ろうと告げようかと思った矢先に彼がそう言ってきた。

 時々漏れ聞こえる彼は、相当やんちゃしていたのだろうと思ってはいた。

「夜の空気が好きだったのかい?」

「そうかもな。あるいは一人になりたかったのかもな」

 どうしてか街中を徘徊する彼を想像できてしまい、笑いそうになってしまう。

「だが、街灯もない場所もあっただろうに歩き難かったのではないかな」

「そうでもない。存外、月明かりがあれば歩けるものだよ」

 そう言うと彼は私の方に手を伸ばしてきた。私の前髪、茶色の中に刻まれた白い毛を撫でる。


 そうして彼は続ける。

「あの頃は、まさか月に手が触れることになるなんて思わなかっただろうがな」

 その言葉の真意を、今でも測りかねている。


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