君の瞳に

君の瞳に


『あー、俺、アサマノイタズラ。単刀直入に言うわ。レーベンがちょいやべーことになってっから来てくんね?場所はーー』




突然の着信音とあまり見慣れない名前に驚きながら電話を取り、告げられた衝撃の内容。一方的に切られたスマホをポケットに突っ込み、一目散に外へ飛び出した。走りながら、教えられた店の名前を検索する。居酒屋?一体何が?


こういう時、ウマで良かったとつくづく思う。専用レーンを全速力で駆け抜け、店に辿り着いた。



「あ、来た来た!」

「あら、本当にシャフリヤール君呼んだのね。ごめんなさいね、来てもらっちゃって。」

「ごめん、アサマを止められなくて……。」


店員にアサマの名前を告げると個室に通された。アサマの他にはマリリンさんとシュネルがいる。厩舎のメンバーで飲んでいたのだろう。


そして、問題の彼女は、マリリンさんの膝を枕にしてとても気持ち良さそうに寝ていた。



「ーー状況を説明して欲しい。」

「レーベンちゃんが、私が頼んだお酒を飲んじゃったのよ……。」


話はこうだ。マリリンさんが席を立っている間に、店員が飲み物を持ってきた。その際、オレンジジュースを頼んでいたレーベンが、間違えてマリリンさんのスクリュードライバーを飲んでしまったらしい。


「気づいたら『甘ーい』って言いながら結構飲んでて。」

「で、潰れて寝てしまったんで、お前に電話したって訳。」


口に含んだ段階で気づいて欲しい。思わず頭を抱える。

酒に弱いとは聞いていたけど、ここまでとは思っていなかった。


「私が連れて帰れれば良かったんだけど、今弟が部屋に来てて……。」

「ファンロンさんにも連絡したんだけど、音信不通なんだ……あ、心配しないで、偶にあることだから。」


高速バスにでも乗せられてんじゃね?とアサマが笑う。それで良いのかとは思うが、深く立ち入らないことにした。今は、目の前ですやすやと寝ている彼女が最優先だ。

よく見ると頬が赤い。少し空いた口が潤んで見え、思わず目をそらした。


こいつらは知らない。俺達が、まだキスすらしていないということを。


付き合い始めてからは、それなりに経っている。レーベンは人前でも気にせず引っ付いてくる方だ。距離の近さから、まさか何の進展もしていないなんて思われていないだろう。


ここまでの話で、何のために呼ばれたのかは分かった。

戸惑いはあるが、無防備に眠る彼女の姿をあまり見られるのも嫌だ。


「ーー連れて帰る。タクシー呼ぶからちょっと待ってくれ。」


レーベンを自宅へ招いたことは無い。ましてや、泊めるなど。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「はぁ〜〜〜〜〜」


ソファに座り込むと、思わず溜め息が出た。

彼女は寝室のベッドに寝かせている。シーツくらいは変えたかったが、そんな余裕も無かった。


腕に抱いた体の柔らかさ。寝かせた時に乱れたスカート。覗く白い脚。ベッドに無防備に横たわる、彼女の姿。


感触も吐息も、衝撃的な光景も、全て生々しく残っていて、頭から振り払うことができない。今も、寝室で彼女が寝ている。俺のベッドで!


リビングのソファは寝るのに充分な大きさがあるが、とても寝られる気はしない。そうだ、ゲームでもするかと部屋の隅にあるパソコンに向かったが、ゲームをする時に使っているヘッドフォンは密閉性が高く、彼女が起きた時に気づかないかもしれない。ヘッドフォンを置いて、どうせ寝られないのならと、過去のレース研究を始めてみたが、それも何とも集中が保たない。


気がつけば悶々とした気持ちを抱えたまま、焚き火の動画を眺めていた。



欲はある。抱きしめてキスをして、それ以上だって。あんなに可愛い彼女がいて、そんな気にならない方がおかしいだろう。

ただ、あまりにも無防備に彼女が触れてくるものだから、先へ進むことが出来なくなっていた。気持ちを疑ったことはない。甘い声で言う「大好き」が嘘なら、この世の全てを信じられなくなる。

それでも、無邪気な笑顔がそれ以上を感じさせないから。

どうしても、自分から触れるということが出来なかった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



何時間もパチパチと爆ぜる薪を見ていたら、段々と窓の外が明るくなっていった。ああ、もう夜が明けたんだなぁとぼんやり考える。


すると、寝室の方で小さな物音がした。「えっ?」と戸惑ったような声も聞こえる。


ふぅーっと息を吐いて覚悟を決める。冷蔵庫にミネラルウォーターを入れていたはずだ。持っていこう。



「おはよう、レーベン。」


ドアを開けると、ベッドの上に起き上がっていたレーベンが目を丸くしてこちらを見た。


「えっ、えっ?シャフくん?」


レーベンの顔が真っ赤に染まる。混乱した様子で、自身の姿を確認し、布団を捲って中を覗き込んだ。


「ーー何もしてないから、安心しろ。」


喉乾いてるだろ、と持っていたペットボトルを渡すと、か細い声でありがとうと答えながら受け取った。


手櫛で髪を整えながら、ペットボトルを抱え込んだ彼女は先程から目を合わせてこない。

顔は赤いまま、酷く落ち着かない様子で、あー、とか、うー、とか言っている。


「あの、昨日手塚厩舎の皆と一緒にご飯食べて……」

「お前がマリリンさんの酒間違えて飲んで潰れたから、アサマが俺に電話してきたんだ。」


ご、ごめんね…迷惑かけて、と言いながら布団に顔を埋めた彼女に、良いから気にすんな、と答える。今までにないくらい鼓動が高まっていた。良かった、今、レーベンが俺の顔を見ようとしなくて。



めちゃくちゃ意識されてんじゃん、俺。



レーベンのこんな姿は初めて見る。抱きついてきてもニコニコと笑顔で、ちょっと撫でてやれば幸せそうな顔をして。そんな、触れ合いしかしてこなかったから。

恋人のベッドの上で目覚めた事に気がついた時、彼女は何を考えた?そういうこと知ってたんだ。コウノトリやキャベツ畑を本気で信じてるんじゃないかと、そう思ったこともあったのに。



「ーーーレーベン」


起き上がった彼女の目を覗き込む。戸惑ったように瞳が揺れる。吸い込まれるようにベッドに手をつき、顔を近づけた。


「シャフくん……」


声は震えているが、拒絶は感じられない。爆発しそうな鼓動をおさえながら、ゆっくりと目を閉じると、唇を重ねーーーー



「♪〜〜〜」


携帯の着信音が鳴った。サイドテーブルの彼女の鞄からだ。

嘘だろ?このタイミングで?



顔が離れる気配を感じてか、彼女が目を開けた。見たこともないぐらい顔が赤い。

無粋なメロディーはまだ鳴り続けている。


「いいよ、出ろよ電話。」

「う、うん……」


体を離すと彼女は鞄を探り始めた。ショルダーストラップが付いたスマホを取り出す。マリリンさんか、アサマあたりが心配して連絡してきたんだろう、そう思っていると、画面に表示されていたのはーー


「お兄ちゃん、どうしたの?」


思わず固まる。そんな自分の様子には構わず、少しずついつもの調子を取り戻してきたレーベンは通話を続けた。


「今どこいるの?え?漁港?」


何があったんだ、一体。どんな厩舎なんだよ、お前んところ。

お土産はあたりめが良いなぁじゃねえよ。


「私?今ねぇ、シャフくんのお家!」


ーーーー待て。

事情を知ってるアサマ達ならともかく、ファンロンさんは何も知らないだろ。彼氏の家に泊まったことを、平然と兄に言うな。すごく動揺してる声が聞こえるぞ。どうすんだよ、これ。


暫く、えー、うーん、と相づちを打ちながらファンロンさんの話を聞いていたレーベン。そんな心配しなくても……などと困った様子で答えている。

自分が事情を説明した方が良いかと思い、電話を代わろうとしたその時、彼女がとんでもない爆弾を落とした。


「大丈夫だよ、シャフくんとっても優しかったから!」



朝日に照らされる、とろけるような笑顔。

どこまでも甘い、無邪気な声。

ああ、今日も彼女はとても可愛い。



絶望的な気持ちで、電話の奥から聞こえる悲鳴を聞いた。

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