名前はまだ決めてない
大きく膨れた腹をそっと撫でながらふにゃふにゃとした顔で笑う撫子を見ていると、ずいぶんと遠いところまで来た気がするものだ。
腹の中にいると聞いたときはどうしたものかと思ったし、産まれてからもどうなることやらと思ってきたが親が思うよりも子供は強いのかもしれない。
「お腹ん中に二人おるんやって、喧嘩したりせんかなぁ」
「そんな狭いとこで揉め事なんてしてられへんやろ」
誰かさんの血のせいか自分よりも少しだけ体格はいいものの、それでも薄かった腹に二人はそろそろ窮屈だろう。
小さく産まれた娘でさえ腹にいたときはでかいなにかがそこにあるという感じがしたものだ。
……実際に産まれてくるまでなにかわからなかったというのは置いておく。
「まぁ俺もこっちに長いことおれんから、頼るんならひよ里を頼ったり」
「そういやひよ姉は二人おるって言うたら『ポチとミケにでもしろ』言うてたわ」
「ほんまにそうしたら一番怒鳴り散らすやろうになぁ」
「アタシが変な名前付けそうになったらベッドの上でも蹴りとばされそうや」
あれはあれで妊婦や子供を産みたての母親にはわりと優しい、とは言うまい。あのときとは事情も様子も異なっている。
「人間にも死神にもやらん!」と可愛がっていたら滅却師を連れてきた撫子の子供なら、産まれてくるまで愛せるか不安に思うこともないだろう。
しかし腹の中の子供が憎い男の血を引いていると知って葛藤からかしおらしかったあのときと比べれば、元気にギャンギャン言うことも想像できる。
それでも俺に最近は布オムツなんて使わないらしいとか離乳食が山ほど出てると言う程度には気にかけているのだから、存分に頼ってやればいいのだ。
「すいませんお義母さん、お忙しいのに」
「平気や平気、俺なんておらんくてもどうにかなるわ」
「またそんなこと言うて、桃さん困らせたらあかんよ」
「その桃が俺に孫産まれるっていうんで張り切りよるねん」
俺を現世に送り出すときによくわからない気合いに満ち満ちていた副隊長を思うと、頼もしいやらなんとやらだ。
なんなら孫の顔を見ないで帰ったら戻ってくるなと現世に送り返されそうな気迫すらあった。ちょっと逞しくなりすぎているかもしれない。
「雨竜は義理の母なオカンがおったら窮屈やないの?」
「君と子供が何事もなく過ごせて産まれてくることが出来るなら構わないよ」
どこぞの百年娘がいることにすら気づかなかったボケナスに爪の垢でも煎じてやりたいほどに娘婿は献身的だ。
なんやかやと忙しいらしいのにそれでも甲斐甲斐しく産まれてくる子供たちの父親として頑張っているらしい。
むしろ頑張りすぎて娘が気を揉むほどらしく、子供が産まれたら夫を寝かしつける方法も探さなくてはと贅沢なことで悩んでいる。
旦那が家事を全部やってしまって自分はなにもできないと妊娠したてで不安定な娘が泣くという、本当に犬も食わないどころか噛んだとたんに吐き出すような夫婦喧嘩を聞かされたのがつい昨日のようだ。
精神的に落ち着いた後から聞いてみたら「なんでアタシあんなことで泣いたんやろ……」と言っていたのであれはマタニティブルーの一種だったのかもしれない。
「ま、産まれたらアホほど忙しいんやから今の内にのんびりしとき」
「やっぱり赤ん坊の世話って大変?」
「お前んときはよってたかって世話したもんやけど、ほんまなら親ってもんは二人やからな。手が足りんなら使えるもんはなんでも使ったったらええ」
生きて産まれるかも定かではなかった今にも死にかけの子供と双子では大変の種類も違うだろう。
しかし必死だったあの頃はそこまで気を回せなかったが、産まれたばかりの撫子相手に一番神経を磨り減らしていたのは喜助だったのではないかと今になると思う。
よってたかっても出来ないことは多かった。
「ひよ里も勿論やけど、近くに母親の先輩もおるし誰でも頼れるなら頼りや」
「織姫ちゃんは今でも色々教えてくれとるよ」
「産まれてからはもっと聞きたいことも増えるやろうから、先に菓子でも贈っとくとええぞ」
「せやなぁ、お世話になったからで贈るにも暇がなさそうや」
よっこらしょと重い腹を抱えて立ち上がり、さっきから台所でせっせと作り置きを作っている娘婿のところに相談しに行った娘の背中を見送る。
寄り添う姿はまさに幸せな夫婦といった様子で、何度目かわからない感慨に浸りながら温くなった茶を飲んだ。
なんだかんだ俺に出来ることはここにいてやることで娘を安心させてやるくらいで、もう世話してやれることなんてほとんどないのかもしれない。
産んでから百年以上経って親離れを実感するのはなんとも時間がかかったような気もするが、案外となんとかなるものだ。
「しっかし、俺が祖母ちゃんとはなぁ……」
嫁にも妻にもなったことがないのに母になって今度は祖母とは、随分と歯抜けな気がするが仕方あるまい。
小生意気なガキンチョにババアと呼ばれるのは勘弁したいなと思いつつ、無事に育つならなんでもいいかもしれないと娘に何度も思ったことをもう一度考えた。