同胞殺しと集合の話①

同胞殺しと集合の話①


 雨があがり、なおも残った雲が空一面にこびり付いた朝。

 弱々しい朝日のもと、うらぶれたレンガの町を進む小さな影があった。壁が汚れていることを気にもかけず、手をついて震える体を支えながら歩を進めている。服は汚れ、桃色の乱れた髪にも精液がこびり付き、股から腿にかけて血の筋が伝っていたが、それも意に返さない。

 少女は通りにちらほらと湧き出した人々を避けるように隅を歩き、細い路地に入った。このあたりでも浮浪児は珍しくない。人買いでもなければ、じとりと一瞥してすれ違うだけ。はぐれ者の町。死体すら転がっているそこの日常の一コマでしかない。餓死した乞食だろうか、ハエの集るその死体を素通りして更に進み、奥に転がる小さな襤褸の塊へ急ぎ歩く。

 否、襤褸ではなかった。襤褸布を被り、少女の足音を感じてモゾモゾと動きだしたそれにようやく安堵の表情を見せ、少女は「キット」と声をかけた。

 少女の名はフェリジット。幼い妹のキットを連れ、盗みと売春で生計を立てている猫型獣人だ。彼女がキットと呼んだその小さな山から猫の耳、そして顔が覗いた。頬はフェリジットより幾分かふっくらしていたが青白く、紫の唇を微かに震わせている。そのひび割れが見える口から「リズねえ…おかえり」と掠れた声が漏れた。

「もう大丈夫だよキット。ほら、お金なら用意できたから。今度こそちゃんと治療しよ」

 フェリジットは腹を抑えて震える妹を起こし、水を飲ませた。吐き気。腹下し。なんらかの食あたりだろう。それがここ数日間続いていた。これが親の庇護下にある子どもならば、清潔な環境でもっと早く治療できていたのだろうが。貯めていたなけなしの金も、比較的いい食べ物と足元を見られた治療行為――それも根治に至るものではなかった――で底を突こうとしていた。

 だが、それもこれで終わりだ。昨晩もフェリジットはその身体を売ることで収入を得た。客の無茶な要求にも従い、値段を吊り上げて。キットを預けたときにでも、後処理をしなくては。

 影に覆われていた小路に、ようやく日の光が届き始める。妹を抱いてその背をさすりながら、フェリジットは診療所が開く時を待った。







「足りない」

「えっ…」


 しわくちゃの手で札束を数え終わった医師は、興味が失せたと言わんばかりにそれをフェリジットに投げ返した。

「こ…これでも足りないんですか…?」

「あんたの妹はただの食あたりじゃない。流行り病だ。寄生虫にも感染している。隔離と治療、継続的な投薬、適切な食事。それでも虫がでなければ必要に応じて切開、外科手術。入院が必要になるが払えるのかい」

「払います!」

「15万だ」

「じゅ…、え…?」

「他んとこでは適当に投薬だけされたんだろう。これはそれじゃ治らない。あたしゃ治るまで治ることをするよ。金を出せばね。出すのか。出さないのか」

「……用意します」

 何も考えられずに答えた。震えながら診察台に横たわる妹を見れば、言葉だけが勝手に出てきたのだ。

「流行り病だ。あんたも罹ってるよ。今は症状がなくてもね。妹と元気に生きてたいならあんたも治療が必要だ。出すのか、出さないのか」

「……失礼します」

 老婆の医師は恐らく返答を求めていない。フェリジットの様子を見れば払うあてなどないとわかっていたのだろう、目の前の患者にはもう目もくれず、「次!」と甲高い声をあげた。少女は項垂れて診察室を後にする。固く握った妹の手の冷たさだけを鮮明に感じながら。




 払うあて。

 払うあて。

 普通にする行為で1000。それがフェリジットの身体の価値。これも高く付けてやっとで、もっと少ないときの方が多い。妹をふたたび襤褸布に包み、食べるようにとパンを持たせて、フェリジットはそのままもう少し歩く。妹の視界から外れるまで。

 昨夜から今朝にかけて、5人と性行した。首を締められるのは久しぶりだった。小路の角を曲がり、妹から見えなくなったところで中腰になり、大きく股を開く。

「うぐ…っ、う…」

 最後の客は金払いがよかった。7000だったな、と思い出しながら膣に指を入れる。彼には置土産もあった。

「い、っ―――!」

 ごろん、ごろんと血に塗れた石が三つ、股から落ちる。続いて血の雫。石ひとつにつき2000上乗せしてくれる、という話に飛びついたのだ。

 今の蓄えは、7万ないくらい。

「もっと頑張ればよかった…」

 これ以上身体を使えるだろうか。

 この町で、何度か盗みを働いた。ひとつの場所に、こんなに留まったことはない。手癖の悪い者がうろついてるという話は出回っているだろうか。

 盗みは成功するだろうか。


 少女は呼吸を整えて妹の元に戻る。目に入ったのはぐったりと横たわる妹と、手をつけられていないパン。

「キット」

 食欲がないのだろう。キットは返事をせず、ただ浅く速い息を漏らすだけだ。痛みが増しているのは明らかだった。

「キット、食べて」

 それでも、食べてもらわなければならない。少女はそれを小さな手から取り上げて、血の気の失せた唇にパンを押し付けるが、ふにゃりとパンが形を変えただけだった。

「リズねえ…」

 その口が開いた。そこにパンを入れようとしてもまた閉じて、そっぽを向いてしまう。そして再び開き、「ごめんなさい…たべられない」と漏らした。

「……」

 パンを引き上げる。

「……そう」

 待ってみようか、ちぎって小さくしようか。なぜだかそんな考えは浮かばなかった。

「…じゃあこれは姉ちゃんが食べる」

 言うが早いか、フェリジットはそれを口に捩じ込んだ。味わうこともなくゴクリと飲み込む。喉が乾いているせいか、腹に辿り着くまでがやけに長い。

 パンの塊が緩慢に下り落ちるのを感じながら、フェリジットはぼんやりと考えた。

――早くなんとかしないと、どんどん事態は悪化する。

 なのに、身体がとても重たい。少女は少し休憩するだけ、と自分に言い聞かせながら妹の青白い顔を改めて見た。

 ギュッと目を閉じて、痛みが収まるのを待っているキット。終わるのを待っているキット。いつも通り、フェリジットが終わらせるのを待っているキット。

 他力本願に。

――そうだ、これ以上は待たせられない。頑張らないと。

――まだ明るいけど仕方ない。盗みでも体を売るでもなんでもしないと。

――あと8万ちょっとだ。もう半分くらいはあるんだ。もっと頑張らないと。

――これ以上悪くなったら、キットは死んでしまうかもしれない。

――もしキットがいなくなれば私は……




(………開放される。)




「…………」

 自分は今、何を考えたのだろう。

「…リズねえ」

 目を閉じたまま、浅い息とともにキットが細く声を吐き出した。

「ごめんなさい、たべられなくて…。わたしごはんいらないから…。ここでごろんしてるから…。リズねえもおやすみしてて…。いつもくれてたぶん、いっぱいたべて…」

「………」

「リズねえ、しんどそう…。いつもごめんね…。リズねえちゃんばっかりがんばらせて…。わたしのこと、きにしなくていいから…」

「………」

 パンが入ったはずなのに。フェリジットは胃が、胸のあたりが空っぽになったように感じていた。

「大丈夫」

 ダイジョウブ。意味を伴わない音だけが、フェリジットの声色で泥だらけの路地に響く。

「リズ姉がなんとかするから。キットはいい子にしててね」

――おかしいな。キットはいつもいい子にしているのに。

 払うあて。払うあて。回らない頭を動かすことを諦め、フェリジットはのそのそと歩きだした。狭い路の曲がり角、見通しのきかないその先へ。

 

 

 雲に遮られていても、昼は昼。

 フェリジットは白い日が差す泥の町を、覚束ない足取りで歩いていた。

 人通りはあるが、人混みというほどでもない。市場に続く通りにはちらほらと店が開き、少女と全く関係のないところでモノとカネが行き来している。――それを、ギラつく金の瞳で凝視しながら少女は歩く。

 この時間は身体を売る女も子供も少ない。したがって、わざわざ人を物色する者もいないと思ったほうがいいだろう。ならばこちらから声をかけるしかない。

 葉巻か麻薬か、パイプから煙を漂わせて壁に寄りかかる男に声をかけようとして――フェリジットは股が裂けるような激痛を感じた。

 そもそも、実際に裂けているのだ。短く悲鳴をあげて下腹部を抑える少女を訝しげに見た男は、舌打ちをして場所を変えた。

 これはだめだな。うずくまりながら、冷えた頭で他人事のように判断する。やはり身体は使い物にならなそうだ。あと自分にできる手段は盗みしかない――少女はそう思って顔を上げる。何事もなかったかのようにふたたび人の流れに混ざり、行き来する人々から獲物になりそうな者を探し出す。

 ガラの悪い大男。娼婦。背を丸めて赤子を抱える女。独り言を繰り返す老人。売れないゴミで遊ぶ浮浪児たち。

 少女はそれを眺める。隙を探していた瞳――ギラついていた筈のそれはいつしか霞みがかり、ただの風景を見る目になっていた。


 隙が見つからない。

 獲物が見つからない。

 疲れた。

 頭が働かない。

 自分はきっと逃げ切れない。

 疲れた。


 少女は白と泥の町を、どこか遠くの世界にあるように感じていた。

 今更になって気が付いた。

 払うあてなど、自分は持ち合われていないのだ。


――だって、しかたないよね?

――私、頑張ったよね?

――頑張ってダメなら、もうしかたないよね?

 

 女の猫なで声が耳に入った。

 建物の陰に小さな茣蓙を敷いて、薬物を売っているようだった。

 フェリジットに向けられたものではない。浮浪児など相手にされない。骨の浮いた男が腕に注射している。とても幸せそうだった。


 鼻を擽るのは焼き菓子の香り。

 久しく口にしていない。 

 なんなら見ることすら叶わない。

 建物の中からだ。

 空腹は感じないのに、少女はとても恋しく感じた。


――いいな。


――いいなあ………。



 足は重く。

 腹部は痛い。

 性器、だけではない。

 少女にはわかっていた。

 老医師の言葉が蘇る。

 ――流行り病だ。あんたも罹ってるよ――




「……」

――もう、いいかな?

――私、姉ちゃん、やめてもいいかな?




 




 

 フェリジットの耳は鋭敏である。

 持ち主が意志を手放しかけても。

 その大きな耳は、獲物の気配を見逃さなかった。

 

 カネの話。

 対面から来る。

 あの浮浪児だ。持っている。

 漂うだけだった足にふたたび力が入った。

 走る。

 少女は彼に思い切りぶつかって、ボロの財布をもぎ取った。

――ダメだ、バレた。今のは絶対バレた。

 走る。

――ごめんなさい。

 奔る。

――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

――キット、ごめんなさい。絶対に助けてみせるから。

――ごめんね、まだ小さいのに。私の半分も生きていないのに。こんな世界でひとりで生きるなんてできるわけないのに。

――お父さんお母さんごめんなさい、あなた達の娘を見捨てかけました。殺しかけました。私お姉ちゃんなのに。妹を守らなきゃいけないのに。

――神様どうかお願いです。私から妹まで取り上げないでください。たったひとりの家族なんです。こんな汚れた身体と魂だけ残ってもしかたがないんです。妹がいなくなってしまったら私にはなにも残らないんです。

――キット。姉ちゃん、もっと頑張るから。お願い、どこにもいかないで。置いていかないで。ひとりにしないで。私の妹。絶対絶対助けてみせる。



 

 涙の粒を零しながら、少女はひたすら走る。

 恐怖と焦りと興奮で、重かった足は羽のように軽い。

 途中、何人かにぶつかる。盗む余力などない。ただただがむしゃらに奔る。

 しかし、唐突にそれは終わった。

 腕を掴まれたのだ。

 急に止まった衝撃で尻もちをついた少女に、大きな影がかかる。

「お前、『泥棒猫』だな?」

 ガラの悪い大男。

 表情を凍らせた少女はそのまま狭い路地に引き摺りこまれた。

 

「ぅぐえっ!」 

 響いたのは、少女が壁に叩きつけられる音と悲鳴。

「やっぱりな。手癖の悪いガキだ」

「ボロい財布だな。こんなん…おっ、思ったよりある」

「他にはないみたいだな」

 男には仲間がいたようだ。4人の男達は戦利品を眺め、続いてフェリジットの身体をまさぐり『他』がないか確認した。

 もう用はないと背を向ける男の足に、少女はしがみつく。

「お…お願いです…」

「ん?」

「妹が…妹が病気なんです。そのお金が必要なんです…」

「盗っ人は決まってそう言うんだよ。知らねえのか嬢ちゃん。今度はもちっとセリフ練ってきな」

「私には何したっていいですから…。お金だけは置いて…」

「盗っ人猛々しいんだよガキ!」

 視界に強い光が散る。次いで闇。顔を突き抜けるような痛みに少女は丸く転がった。鼻面を蹴られたのだ。

「何したっていいってよ。やらないのか?」

「こんな小便臭いガキ勃つかよ」

「うーん汚えなあ。パス」

「警察に突き出そうぜ。お駄賃くらい貰えるかも」

 再び男の手が伸びる。

 しかし、その手が少女に触れることはなかった。

「おい」

 高い声だった。

 声変わり前の少年のそれだ。

「それは俺のだ」

 かけられた声に彼らは振り返る。

 逆光の中の小さな影。

 片翼の少年の蒼い瞳が、男達を睨み付けていた。



 時は、数時間前に遡る。

 

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