同胞殺しと集合の話②
町外れの地雷原で、ひとり枯れ木に腰掛ける小さな背中があった。
スープを作っているようだ。小振りな鍋から沸き立つ湯気をぼんやりと眺めている。鳥人の少年だ。動きといえば特徴的な片翼の表面が風に揺られるくらいで、背後に迫る影にも微動だにしない。
「おい」
その影が声をかけた。鳥人の少年よりも一回り大きい。
「これがほしいのか?」
少年は動かずに訊ねる。物怖じしないその態度に苛ついたのか、影――少し大柄な少年はわざと足音を大きくして近づいた。
「よーくわかったな?痛い目みたくなかったらその鍋…半分よこしな」
「半分…?」
ここにきて鳥人の少年――シュライグはようやく振り返る。
目の前にいたのは狼人の少年だ。痛みきった服は軍人のものだったのだろうか。腰に付けた大きな銃とナイフはぶら下げたまま、いかにもガラ悪く指をポキポキと鳴らしている。武器の類は手にしていない。
「半分って…、脅すなら全部よこせくらい言えばいいのに」
「俺は優しいからな。チビ相手に全部奪うような真似はしねえ…半分で勘弁してやるよ」
「そうなのか。今よそうから待っててくれ」
「……」
「まてまてまて」
あくまでも冷静に対応されて狼の少年は勢いを失った。
「お前マジか?そんな気軽に分け与えてたらあっという間にタカられてすっからかんになるぜ?」
「状況と気分によるかな。今、半分くらいならいいよ。ちょっとなら余裕あるし」
「…ほーん」
なーんか気に食わねえなあ、と狼の少年は腰に手を当て、ジロジロとシュライグを見る。
「ちったあビビれよ。やっぱ軽く一発殴っとくか」
「さっきと言ってること違くないか?いらないの?」
「いる。いるが…ナメた態度のチビに世の中の怖さを教えてからなあ!」
言うが早いか少年はシュライグに殴りかかった。狼獣人の強烈な右ストレートがシュライグ少年の顔面を捉え――ることはなく、ひょいっと軽く躱された拳は虚しく羽髪を掠める。首を傾げるように躱したシュライグはその勢いを利用して斜め後ろに投げるように体ごと受け流した。
「おッ!?」
狼の少年も慣れたものだ。シュライグは思い切り叩きつけるつもりで投げたのだが、きれいに受け身をとって体勢を立て直す。しかし狼狽えているようで、一旦自分を落ち着かせるように腰に手をかけ、トントンと爪先で地を蹴った。
「おい!ナメてんじゃねえぞ!」
その手がナイフを抜く。見せびらかすように揺れるそれはくすんでいて、刃こぼれしていた。眺めるシュライグはそれを見ても一切の動揺を見せない。
「てめ…っ」
コンッ、と軽やかな音。
銀がくるくる空を舞い、ポンとシュライグの手に収まった。
狼の少年はというと、相手に渡ったナイフを見、一拍置いて「?」と空になった自分の手を見ている。
そして、風切り音。
逸れた視界、その死角からシュライグは高速の蹴りをもう一度放った。
顔面にまともに蹴りを食らった少年は砂埃をあげてひっくり返った。
…首が変な方向に曲ってしまった気がする。心配になってシュライグが覗き込むと、仰向けに転がる少年は目を白黒させていた。口の端に血が滲んでいる。
「えーと…」
シュライグはナイフを腹の上に置いてやり、欠けたお茶碗を持って訊ねた。
「いる?」
「いる!」
それが、シュライグとルガルの出会いだった。
相変わらずの路上生活だったが、それでもシュライグの生活は以前に比べるとずっと安定していた。
現在彼は地雷が埋まるこの戦地で、鉄の回収をして生計を立てていた。所謂鉄クズ成金――成金、という程の蓄えもないが――である。落ちた弾、大破したトラック、更には不発弾等、戦場のありとあらゆる鉄を集めて売り払うのだ。
「で、ゆくゆくはああなるわけか」
「かもな」
ルガルの視線の先、やや遠くにある枯れた丘には両腕を失った死体が転がっている。随分古いもので、蝿すら見向きもしない。
ルガルの言う通りだ。いつ死んでもおかしくはない。それでも学がなく、文字すらまともに読めない少年は他に生き方を知らなかった。
「それにしてもいい銃持ってるなルガル。なんで使わなかったんだ?」
「…使うまでもないと思ったんだよ…。それとも今、ここで使ってやろうか?お前の首から上くらいは無くなるぜ?」
ルガルがこれみよがしに銃を構える。銃口の闇をじっと見つめたシュライグは、落ち着いてそっと手のひらでそれに蓋した。
「ごはんあげたんだから勘弁してくれよ」
「くっそー頬骨痛え…。ちっとはビビれよ全く。こんなん使ったら本当に殺しちまうだろうが。あと他人に儲けてるなんてべらべら喋んなっての」
「腹減ってたなら銃売ればいいのに。それ高く売れるぞ」
「売れるかよ。こいつは俺の相棒で命綱だ。わかるか?このエンブレム…狼軍正規のもんだ」
「ルガル見ろよクワガタとカブトムシが戦ってる」
「マジだすげえ!俺クワガタに10賭けるわ」
「軍の正規品なんて盗んだのか?すごいな」
「話戻るのかよ!あ!クワガタァ!!」
「……」
「……」
「…ルガル、10だったっけ?」
「待てコラお前賭けに参加するなんて一言も言ってないだろ!」
「暑いし街行こう。氷菓でも食べたいな。奢ってくれるだろ?」
「おいちょっと……、オイ!」
カブトムシに落とされ、ひっくり返ってもがいていたクワガタを元に戻してやったルガルの叫びが曇天に虚しく響く。シュライグはとうに背を向けていた。
「あとこれは盗んだわけじゃねえよ!!」
「なににするかな…」
「くっそ…。クッソー…」
ふたりで泥のこびり付いた町を歩く。
先程食べたばかりとはいえ、それぞれ一杯足らずのスープと少しばかりの米では育ち盛りの少年達は到底満足できない。ちょうどお昼時の町は誘うような匂いをあちらこちらから漂わせている。
「そういやシュライグ、お前金持ち歩いてんの?」
「そうだけど」
シュライグは薄い服の下、ズボンに挟むように差し込んだ財布の膨らみに手をやった。中身は抜かれていたが、財布そのものは拾いものだ。
「そうやって正直に言うのやめた方がいいぞホント…。すげえ自信だなお前」
「家とも言えない場所に隠して出歩く方が怖いけどな俺」
「スられてもしらねーぞ。泥棒猫って知ってるか?」
「泥棒猫?」
「この近くをうろついているらしいスリの猫だよ。猫ったって実際猫獣人かもわからないし、男なのか女なのか大人なのか子供なのかもよくわからないけど、とにかくここらでは財布がいつの間にか無くなる事案がよく起きてるらしいんだ」
「逆になにがわかるんだよ」
「しらねーよ。ただ猫の可能性は高いらしい。あとはまあ財布をしっかり抱えておくんだな」
らしいらしいばっかりだな、と聞きながら忠告通り服越しに財布を握り、香ばしい匂いの方を向く。竹ごはん…、食べたいが10以上する。別の方角からはパンの香り。
あれは2月、いや3ヶ月くらい前のことだったろうか。あの子も猫だったな、とシュライグは思い返していた。
あれから、色々あった。なにも知らなかったあの時よりはまともに生きられるようになったと思う。喧嘩の仕方も覚えた。それでわかったことは、自分は案外戦えるし、殴り返せば人は黙るということだった。
そして、もうひとつ。
妹を食わせ、他人にもパンを与えられるあの子はとても強いということ。
ああなりたい。こんな世界だからこそ、他者の善意は強烈に身に沁みた。未だ自分ひとりで生きるのが精一杯で、新たに覚えることは他人を傷つけ、卑しく生きる術ばかりだったが、シュライグの芯にはあの仁心が染み付いていた。
――それに、かわいい子だったな。
元気にしているだろうか。彼女のことだからきっと今も強かに生きているのだろう。あのきれいな、力強い瞳の光が忘れられない。前方から駆けてくる猫の少女、ちょうどあんな姿をして――
どん、とその少女がぶつかってきた。
服越しに財布を握っていた手はいつの間にか緩んでいた。するっとその膨らみが抜けていくのがわかる。
シュライグとルガルの間に割り込むように体当たりしてきた少女は風のように去っていく。物凄いスピードだった。
残されたふたりはしばし顔を見合わせ、また彼女が逃げた先を見る。桃の髪、細い身体はもうすっかり小さい。
「……シュライグ、あれお前の全財産か?」
「そうだな」
「今それスられたんだけど」
「そうだな」
「そうだな。
じゃねえーっ!追いかけっぞ!!」
ルガルは親身に駆け出してくれたが、当のシュライグはノロノロ歩くだけで走ろうとしない。
「おいっ、なにしてんだよ!」
「うーん…。どうしようかな」
「どうしようもこうしようも捕まえないと話になんねえだろ!」
「あれ、あげようかな?」
「ハアッ!?」
ルガルの素っ頓狂な声に通行人が振り返る。シュライグの言葉に反応して、物乞いや他の浮浪児達も集まり始めた。
ルガルは舌打ちをひとつ打ち、うーむと難しい顔をするシュライグの首根っこを掴んで群がった人を掻き分ける。そんな彼に悪いなと思いつつも、シュライグは悩んでいた。
見紛う筈もない。自分の財布を盗んだあの少女は、間違いなくあの時パンをくれたあの子だ。
いつか会えたら、恩を必ず返したいと思っていた。
けれど、切羽詰まった様子の彼女を追いかけて追い詰めるようなことはしたくない。ぶつかる直前見えた瞳、あの金の瞳には確かに怯えと涙が浮かんでいた。こちらに責める意図はなくても、追えば怖がらせるか、少なからず不快な思いをさせてしまうだろう。
今自分が生きているのは彼女のおかげなのだ。もう一度会って、きちんと礼を言いたかった。しかし必要としているなら財布のひとつやふたつくらいお返しにあげて、そっと静かに見送るくらいがあの子にとっては望ましいのではないか――
そう考えていたシュライグが突然駆け出す。
襟を掴んでいたルガルの手が外れ、人を押し退け、羽が生えたように奔る。
シュライグの鋭い目。
それは遠く、少女が路地に引き摺り込まれた地点をまっすぐ捉えていた。
そこにいたのは5人。
シュライグやルガルより年上そうに見える少年と大人が合わせて4人。総じてガラが悪そうで、内ひとりはとても大きい。背丈はシュライグの倍はありそうだ。
もうひとりは少女。鼻からは血を、目からは涙を溢してうずくまっている。
少女が持っていたシュライグの財布は男達の手の中にある。
それだけで状況は理解できた。
「ああこれ、キミのなの?」
「そうだ、俺の財布だ」
返せよ、というシュライグの言葉に、いいよいいよと細身の男が快く財布を投げ返す。軽かった。確認するまでもない。中身は空だ。
「噂の泥棒猫、このガキみたいだね。中はもう盗られちゃってたよ」
残念だったねー、とヘラヘラ笑いながら足で少女の頭を小突く。少女は怯えたようにギュッと目を瞑った。押し出された涙が地面に吸い込まれる。
「返せ」
シュライグは男のニヤけ顔を睨みつけて再び告げた。
「おいドロガキ、持ち主が怒ってんぞ?」
「違う!盗んだのはお前らだ!」
少女の頭を蹴りつけようとした脚を怒号で制止する。
「言いがかりはよせよボク。泥棒猫、知らないの?盗んだのはコイツ」
「お前がポケットに突っ込んでるその金はその子にあげたんだよ!」
「「「ハアッ!?」」」
奥でニヤニヤと聞いていた取り巻きふたりと、少女に足をかける細身の男が同時に頓狂な声をあげた。転がっている少女も大きな目を丸くする。
鋭く睨みつけながらズンズン近寄ってくる少年の気迫に痩身の男は少し狼狽えたが、「ナメてんじゃねーぞガキ!」と気を取り直して恐喝した。ようやくシュライグを敵と判断したのか、足が少女から離れる。
だが――その判断は遅かった。
一瞬で間合いを詰めたシュライグは痩身の男の胸ぐらを掴み、思い切り引き寄せる。シュライグより頭ひとつ以上ある細い身体はお辞儀するように折れ曲がり、そのてっぺんは少年の膝に吸い込まれた。ゴッ、と鈍い音が薄暗い路地に響く。
音は更に2度。そして少年は打ち込んだ脚を更に高く揚げて男の項に添えると、そのまま思い切り首を踏みつけた。
ギエッ、と鶏の断末魔のような声に、呆然とそれを眺めていた他の男達は我に返る。それまでに痩身の男の恐喝からせいぜい2秒。伏していた男が藻掻いたのでシュライグはその指の上をガン、ガンと踏み鳴らす。指の骨が折れる感触が伝わった。
「テメエこのクソガキ!!」
肩を揺らして近寄ってきた少年が放つ前蹴りを両手で掴み、手前に引き込む。シュライグはバランスを失った少年の顎に掠るように、しかししっかりとフックを打ち込んだ。少年は脳を揺らされてよろめき、加えて数回頭を壁に打ち付けられた。ダメ押しだ。
「餓鬼ゃあ…」
大男がゆらりと動く。右手にはナイフ。ルガルの持っていたものよりも大きく鋭いものだ。もうひとりはその奥でオイオイオイオイと遠巻きに見ている。
ガキしか言えないのかこいつらと心中で毒づいて、シュライグは大男に向き直った。
ナイフ持ちの対処法は知っているが、この体格差で通用するかどうか。
大男が躍りかかってきた。まっすぐ刺しにかかってくる。疾い。
だが、疾さならシュライグに分がある。
シュライグは直角に立てた左腕を男の腕に添えるようにして軌道を逸した。腕をスライドさせながら前進し、男の向かって左、それから背後に入る。
首に腕を回す。狙いはチョークスリーパー。極めようと力を入れ――
「ぐっ!」
男はシュライグもろとも背中を石の壁に叩きつけた。3回、4回、取り巻きの分だとでも言うように、思い切り背に張り付いた少年を押し潰す。
「………!」
頭を何度も打ち付けられ、シュライグの眼前には火花が散った。次に痛みを感じたのは尾底骨。堪らず手を離し、尻もちをついたようだ。
「死にてえのか。死にてえようだな」
視界が暗くなった。頭を打ったせいでもあり、かかってきた影のせいでもある。
男は座り込んだシュライグの首を掴み、ナイフのきらめきを見せ付けるようにゆっくりと腕を振り上げる。高く高く、頂点に辿り着いたそれが少年に振り下ろされる、まさにその時だった。
轟音。
そして火花。
先程シュライグが見たものよりも遥かに大きい。なによりそれは瞼の裏ではなく、現実に存在した。
ナイフはシュライグの頭上で砕け、銀の破片がパラパラと降り注ぐ。それが止んでから上を見ると、男は手を抑えて呻いていた。右手を覆う左手、その指の隙間からは赤が覗いている。
「いい年したオッサンがよー。ガキ相手に何ムキになってんだ」
子供の手には明らかに余る、大ぶりな銃。
その銃口から煙を燻らせて、ルガルが歩み寄ってきた。
そしてフッと格好つけるようにその煙を吹いてみせる。
「っっ、グッ……ああぁ〜ッ!餓鬼ども…!」
忌々しげに唸る大男だったが、利き手の指を損傷しているようだ。奥でアワアワしていた取り巻きが「もうやめましょうアニキ」と駆け寄るが、大男はそれを無視してルガルに向かう。ルガルもそれにはギョッとしたようで、慌てて銃口を男に向けた。流石の大男もそこで止まる。
ルガルは少し距離を置き、肩口の簡素な装飾と銃身の紋章を男に突きつけた。
「オイオイいいのか俺に喧嘩売って。このエンブレム、知ってんだろ」
「……!! 狼軍……!?」
「俺達は斥候だ。あれだ、浮浪児に扮してはいるがな。狼の軍を敵に回したらどうなるか…」
そんなでまかせ通じるのか?と痛む後頭部を抑えてシュライグはルガルの横顔を見つめる。ところどころ僅かに目が泳いでいるのが見て取れたが、男達は気が付かないようだった。
やがて大男は舌打ちし、脳震盪を起こした少年を掴んで踵を返す。座ったままのシュライグに対して、大男はそれこそ狼のように鋭く睨み、痩身の男は恨めしそうにじとっと一瞥したが、それ以上なにもすることなく去っていった。
捨て台詞の代わりに放られた、シュライグの所持金を残して。