受け継ぐべきもの その1

受け継ぐべきもの その1



「ジンベエ…渡さんかい。ドラゴンの息子をォ…」


「ハァ…ハァ…」


地獄の底から唸るような海軍大将サカズキの声を背に受けながらジンベエは走る。


大恩ある”白ひげ海賊団”の一員であり、己の友でもあった”火拳のエース”。

海軍による彼の処刑と、それを阻止するために立ち上がった”白ひげ”達による大戦争。


本来は”王下七武海”の一人として海軍の側に立つべきであった自分は、しかし魚人族の受けた”白ひげ”への恩、そして友であるエースの死を見過ごせぬという理由で反旗を翻した。


結果として力及ばず、エースと共に大監獄「インペルダウン」に幽閉され、己の不甲斐なさにのたうち回った。

仁義を通すため、”王下七武海”という立場すら捨てて”白ひげ”とエースを助けようとしたというのに、己一人の力では何も変えられなかった。


その後、「インペルダウン」の底の底、LEVEL6までエースを救いに来た”麦わらのルフィ”と共に「マリンフォード」で処刑されるエースを追い大脱獄劇を繰り広げた。


ルフィから感じた不思議な力。人々を惹きつけるソレに希望を見た。

あるいは、この子がいればエース達を救えるかもしれない。そんな希望が確かにあった。


”白ひげ海賊団”と海軍の激突する海軍本部「マリンフォード」に乱入したインペルダウン脱獄者たち。

世界の頂点で争う強者ひしめく魔境にあって、ルフィ達は諦めず、遂にはエースを処刑台から救い出すことに成功した。


強さという点で見れば、紛れもなくルフィ達が起こしたことは奇跡だった。

成し遂げ、並び立つルフィとエースの姿に希望に満ちた未来を幻視した。


しかし、奇跡はそこまで。

残酷な現実が、「弱きは罪」という世界にとって当たり前の事実が襲い来る。


一度は救出に成功したエースは海軍大将サカズキによる”白ひげ”への嘲りに堪え切れず激憤し、最後はルフィ達を守るためにその命を散らした。

その”白ひげ”もまた、海軍の計略により致命傷を負い、もはやこの戦場での死は免れない。


大恩人と友。そのどちらも自分は守ることが出来なかった。

目の前で、二人の命が消え行く様を前に何の力にもなれなかった。


なんて無様な結果だ。ジンベエ。

お前は「また」守れなかった。


「……ッ!!!」


己を責め立てる心の声がジンベエを苛む。

自分などより、よほど生き残るべき人々の死を見届けることしか出来なかった自身に怒りと嘆きがこみ上げる。


その嘆きは、遠い過去の幻影となってジンベエに襲い掛かる。


虐げられていた人々のために立ち上がり、胸に刻まれた人間への憎悪に耐え続けた大兄。フィッシャー・タイガー。

魚人族の未来を思い、憎悪の連鎖を食い止めるために命を賭して声を上げ続けた敬愛する王妃。オトヒメ。


かつて目の前で死んでいった彼らの姿をジンベエは幻視する。

自分のような不器用な生き方しかできぬ者が生き残り、彼らのような偉大な者達が掌から零れ落ちていく。


もうこれで何度目だ。

何度自分は守り切れず、生き恥を晒せば気が済むというのか。


叶うならば、自分の命を彼らの命と交換したい。生きるべきは彼らの方だ。

そんな叶うはずもない妄想じみた自己犠牲の考えすら、ジンベエの頭には浮かんでくる。


だが、今は失意の底に沈んでいる暇はないのだ。

この手には、エースが守ろうとした大切な命が握られている。


ルフィとウタ。

エースの弟妹(きょうだい)である二人は今、目の前で兄の命が消えたことに精神が崩れてしまっていた。


この二人を必ずや生きてこの戦場から帰還させる。

その為に己のみならず、”白ひげ海賊団”の猛者たちもまた命を賭して持ちこたえようとしている。


ジンベエは手の中にある二つの命を強く抱きしめ、海へと飛び込もうと地面を蹴る。


「海へ出ればわしの土俵じゃ!!! 逃げきれる!!」


追ってくるのは海軍における最大戦力の一人、海軍大将”赤犬”サカズキ。

もし仮に自身が万全の状態であったとしても、あれ程の強者相手では足止めが精一杯といったところ。


さらに言えば、今の自分は応急処置こそ行われているものの満身創痍に近い消耗具合。

どう足掻こうが追いつかれたら勝ち目はない。


だが、海という己の武器となる「水」に満ちた場所に逃げ込めさえすれば逃げる算段は付く。


”赤犬”の身に宿る”悪魔の実”は自然系”マグマグの実”。

炎すら焼き尽くす灼熱のマグマ相手では、本来能力者の弱点となるはずの「海水」ですら蒸発させかねない。


しかし問題はない。勝つことが目的ではないのだ。

「水」という武器を無制限に扱い、魚人族として併せ持つ水中での機動力を駆使すれば、如何に海軍大将とて追い切れまい。


そんな確かな希望を持って空中に駆け出したジンベエの視界に映ったのは、新たな絶望だった。


「…………!!!」


海面が凍り付いている。

地面を思わせる分厚さで海上を覆い尽くす氷は生半可な打撃、熱量では砕くこともできないだろうということは容易に想像がついた。


「しまった……!! 氷か!!!」


目の前に広がる現実にジンベエの顔が青褪める。

あの氷を砕けないとは言えないが、腕にルフィ達を抱えた状況、かつ”赤犬”が迫りくる現状では「氷を砕く」という行動に時間を消費するのは余りにも致命的だ。


やられた。完璧に先回りされた。

これほどの広範囲を覆う氷を操る者を、自分は一人しか知らない。


既にジンベエは空中に飛び出ている。別の逃げ道を探す余裕はない。


退路はなく、逃げ道も塞がれた。

絶望的な状況にジンベエの顔が歪む。


そんな彼の姿を遠方から見る人影があった。


「すまんね、ジンベエ…」


ジンベエの逃げ口を塞いだ張本人、海軍大将”青雉”クザンは静かに呟いた。


個人的な感情でいえば、”麦わらのルフィ”は見逃してやりたい。


滅びゆく「オハラ」の中から親友サウロが命を賭して守り抜いた”悪魔の子”ニコ・ロビン。

彼女がようやく見つけられた帰る場所。安らげる家となった”麦わらの一味”の船長。

二度も彼女から帰る場所を奪うことに心が軋む。


だが、今の自分は海軍大将”青雉”としてこの場に立っている。


かつて心に燃え上がっていた「正義」はとっくに消し炭。

燃え尽きた「正義」の墓標を立てるかのように燻り煙が立つのみ。


それでも、まだ自分は「正義」の二文字を背負っている。

だからこそ、手は抜けない。


ジンベエの逃げ場を塞ぐこの行為をもって海軍大将”青雉”は”麦わらのルフィ”への追撃を停止する。

これが今の自分にできる最大限の譲歩だ。


しかし、それは同時にジンベエに迫るサカズキにとって最大の好機となることも理解している。

果たして、彼は生き延びることができるのか。それともここで塵芥と成り果てるのか。


何処までも自分の手でその運命を決しようとしない己にも嫌気が差す。

クザンは一人、胸に溜まった澱みを吐き出すかのように空を見上げ、息を吐いた。



「!! 来たか!!」


逃げ道を塞がれたジンベエの背後から肌を刺すような熱量と共にサカズキが迫りくる。

周りの海賊たちの必死の抵抗も、全てを呑み込むマグマとなり疾走するサカズキにとっては何の足止めにすらなっていない。


自分の領分である水場は凍り付き、本来の実力をまるで発揮できない。

迎撃も逃亡も、今まさに迫る一撃に対処してからでなければどうしようもないとジンベエは悟った。


「……!!!!」


ジンベエは即座に守るべき優先順位を定める。


第一にウタ。

人形の身体はサカズキの煮えたぎるマグマに少しでも触れてしまえばたちまち焼き尽くされて灰すら残らないだろう。彼女だけは絶対に傷つけてはいけない。


第二にルフィ。

無茶なドーピングを重ね続けてこの戦場を駆け抜け、義兄エースの死を間近で目撃し精神が崩れ去った少年はサカズキが最も殺したがっている存在だ。絶対に死なせるわけにはいかない。


エースが命を賭けて守り、その家族である”白ひげ海賊団”が身を挺して生き延びさせようとする二人。

その命を守るためならば、我が身がどれほど傷つこうが構わない。


己の抱える守るべき二人の重さを再認識したジンベエは歯を食いしばり、サカズキの拳を身体で受け止めようとする。


「グ…アアアアアアッ!!!」


ルフィを狙う灼熱の拳を己の巨体で受け止めるため身体を盾にする。

しかし、襲い来るマグマから確実にウタを守ろうとした無茶な態勢では、その灼熱を受け切ることはできなかった。


肉の焼け落ちる音と不快な臭いがジンベエの耳鼻を苛む。

己の肉体を貫いたサカズキの拳が、ルフィの胸に深い傷を残す様をその目はしかと捉えていた。


「邪魔しよるのうジンベエ!! そこまでしてドラゴンの息子とその人形を守るとは!!」


凍てついた海面に落下したジンベエを睨みつけ、サカズキは忌々し気に唸る。


ドラゴンの息子の命を刈り取れる一撃だった。

そう確信していた。目の前の男さえいなければ。


自身の命すら盾にしたジンベエによって、標的を仕留め損ねたことにサカズキは歯噛みする。


「ルフィ君、すまん……更なる傷を負わせた……!!!」


致命傷ではないものの、命に係わるほどの傷を刻まれたルフィにジンベエは謝罪する。


その手に背負った命二つ。守り切るには力及ばず。

だが、まだその命は途絶えていない。ならば道はある。


「じゃが、わしの命を使ってでも…ゴフッ!!」


ジンベエもまた先ほどのサカズキの一撃で重傷を負っている。

このままでは二人の命は尽きるだろう。


「お前さんとウタを守ってみせる!!!」


それでも決意は揺るがない。

この「マリンフォード」を死に場所と定め、大切な者のためにこの命を使うと決めたのだ。


この二人を逃がすためならば、死に損なったこの命など幾らでも使い潰してくれよう。


「おどれ、人の心配しちょる場合かァ……!!」


そんなジンベエの決意が癇に障ったのか、サカズキは不快そうに顔を歪める。


「即死はせんかったようじゃがのう…その傷じゃ”麦わら”も直に死ぬ…」

「そして人形を守ろうと貴様も余計な深手を負っている…」


苦しみが長引くだけだと吐き捨てる。

そもそも”王下七武海”の立場を捨てた海賊と”革命家”の息子。どちらも逃がすつもりなど毛頭ない。


たかが己の命一つを代償に”麦わらのルフィ”を守れると思っているその愚かさ。

この場で自分に追いつかれた時点でもはや命運は尽きたも同然。


「海に逃げられん状況で、わしから逃げられるとでも……」


全て焼き尽くし、灰すら残さぬと言わんばかりの激情を秘めたサカズキの瞳がジンベエを射抜く。

その身を再びマグマへと変化させ、今度こそジンベエ達の命を絶たんと動こうとしたその時、


「!!!?」


突如、サカズキの身体を鋭い砂の刃が両断する。

サカズキとジンベエの両名が驚愕の視線を送る先には、葉巻を吹かせた一人の男が立っていた。


「クロコダイル!!!」


ルフィ、ジンベエらと共にインペルダウンより脱獄するために一時共闘をしていた元”王下七武海”サー・クロコダイルが不機嫌そうに顔をしかめながらサカズキを睨みつけていた。


「”砂嵐”!!!」


他者のことなど慮らぬとばかりに発生させた巨大な砂嵐がジンベエと彼の抱えるルフィ達を空中へと巻き上げていく。


「誰か受け取ってさっさと船に乗せちまえ!!!」


ジンベエ達を戦場より離脱させながら、クロコダイルは叫びサカズキの前に立ち塞がった。


確かにクロコダイルは一時的とはいえ彼らと肩を並べた。

しかしそれは互いの利害の一致ゆえであり、決して仲間となったわけでも、命を預け合うような信頼を向けたものでもなかったはずだ。


更に言えば、その共闘関係もここ「マリンフォード」に到達した時点で解消されていたはず。

何がクロコダイルにこのような行動をとらせたというのか。


「守りてェもんはしっかり守りやがれ!!!」

「これ以上こいつらの思い通りにさせんじゃねェよ!!!」


それはかつて大敗を喫し、超えたいと願った偉大な男への弔いだったのか。

あるいは、そんな男に勝ち逃げされた怒り、その命を奪ったことに沸くであろう海軍への当てつけだったのか。


本心はクロコダイルにしか分からない。

ただ一つだけ確かなことは、この男がルフィ達を守るために行動したということ。


己の前に立ち塞がるクロコダイル。そして続々と集まる白ひげ海賊団の幹部たちの姿にサカズキは不愉快そうに顔を歪めた。



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クロコダイルの砂嵐によって空中に放り投げられたジンベエの行く先に、奇妙な人影が浮かんでいた。


「うおーーっ!!! ジンベエに麦わらァ!!?」


ルフィ達と共に「インペルダウン」より囚人を引き連れて脱獄した海賊、”道化のバギー”が飛んできたジンベエを驚きと共に受け止める。

その姿を朦朧とした瞳でジンベエは認識していた。


何故ここに。とは思わなかった。

恐らくは趨勢の決まったこの戦場から逃げようとしていたのだろう。


これも縁か、あるいはルフィの持つ運命なのか。

どちらでもいい。今はこの手の中にいる二人を安全な場所へ。


「…すまん”赤鼻”のォ…助かった」

「しかしルフィ君たちが深手を…すぐに手当てを……!!」


全身を覆う倦怠感と激痛。身体は今すぐに意識を手放せとジンベエに命じ続けている。

それをねじ伏せ、どうにか言葉を紡ぐ。


まず何よりも優先すべきは重傷を負ったルフィの手当てだ。

自分は先ほどの”赤犬”の一撃により、もうまともに動けない。


この男だけが、今のジンベエに頼れる全てだ。


「助けて欲しいのはおれだバカ野郎!!」

「手当てなんかこんな所で…誰が赤っ鼻じゃクラァ!!!


そんなジンベエの言葉を受けてバギーは叫ぶ。

言葉の節々に面倒事が飛び込んできたという感情が溢れていた。


しかし憎まれ口を叩いてはいるが、その腕はジンベエを離さないようにしっかりと抱え込まれている。


存外律義な男だ。安心した。

そうしてジンベエの意識は徐々に暗闇に呑まれ……


「オイ、ジンベエ!! どこ行きゃいいんだよ!! 気ィ失ってんなァ!!」


バギーの叫びに、意識が一瞬飛んでいたことをジンベエは自覚した。

同時にジンベエの顔が青褪める。


ルフィは無事だ。

今も己の腕にしっかりと抱え込まれている。問題ない。


ウタは?

その腕に掴んでいたはずの感触が、今は無くなっている。


バギーに遭遇し見出した希望による安堵が己の身体から力と意識を奪い、その手に掴んでいたウタを手放してしまったことに気付く。


(しまっ…)


霞む視界の中、必死に落下していくウタに手を伸ばそうとする。

しかし限界を迎え、緊張の糸が切れてしまったジンベエの身体は思うように動かない。


また、守れないのか。


絶望と共に遠ざかっていくウタを見つめながら、己の無様さを恥じるジンベエの耳元に男の叫びが届く。


「クソがァ!! 手間かけさせやがってェ!!!」


ジンベエを抱えるバギーが地上にいる脱獄囚たちに何かを叫んでいる。

朦朧としたジンベエの意識では彼が何を言っているのか聞き取ることはできなかったが、ウタを助けようとしていることだけは感じ取れた。


(”赤鼻”……)


バギーからすればこれ以上危険な戦場に留まる理由はない。

僅かな時間を共にしただけではあるが、この男が小心者でお調子者だということは理解できた。

わざわざジンベエが己のミスで置き去りにしかけているウタを捨て置くとしても、その選択自体を咎めることはできない。


(この礼は、必ず……)


一刻も早く逃げ出したいであろうに。そんな男が足を止めウタを拾い上げた。

それが単純な善意ではないことなど承知の上。


どのような打算があろうとも、この男は今まさに自分が取り溢してしまった命を救い上げてくれた。

いつかこの恩は必ず返す。


静かな決意を胸に、ジンベエは回収したバギーから押し付けられたウタを今度こそ離さぬよう、しかと抱きしめた



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”凪の帯”に守られた女人の国「アマゾン・リリー」の存在する”女ヶ島”。

その島の沿岸部に「マリンフォード」で起きた大戦争よりルフィ達を逃がすため手を貸した”ハートの海賊団”達がいた。


「マリンフォード」から脱出しようとしていたジンベエ達の前に突如として現れた”ハートの海賊団”。

彼らの手を借り、追撃の手から辛くも脱出に成功したルフィ達を追ってきた”王下七武海”の一人”海賊女帝”ボア・ハンコックの提案を受け、ジンベエ達は現在追手もなく治療を受けられている。


しかし、統治者自らが提案したとはいえ元々「アマゾン・リリー」は男子禁制の国。

幾ら愛しい人(ルフィ)達の身の安全を確保するためとはいえ、正式に国へ入る許可を出すわけにはいかない。


結果、ハンコックからはジンベエ並びに”ハートの海賊団”に沿岸への停泊のみを許す緊急特例により現在に至っている。


無事”女ヶ島”に辿り着いた後、ハンコックは国へと帰っていった。

本心では”ハートの海賊団”による治療を受けたルフィの傍にいたかったのだろうが、いつまでも女帝が国を空けるわけにもいかない。


そして「アマゾン・リリー」にルフィを連れて行こうにも、彼の治療に専念している”ハートの海賊団”を国には入れられない。

ハンコックも絶対安静が必要なほど重傷を負ったルフィを医者から離すような真似をすればどうなるかが分からぬほど愚かではない。


故にルフィを”ハートの海賊団”に任せることに否はない。

だがウタならば客人として迎え入れることは可能だ。


せめて少しでもウタの心の傷が癒えるように介抱しようとハンコックは提案したが、ウタは梃子でもルフィから離れようとしない。

だから、引き下がらざるを得なかった。


それも仕方がないとハンコックは己を納得させる。

自分とて身を引き裂かれるような想いだが、ルフィと同様に目の前で”火拳のエース”を失ったウタの心の痛みは想像もつかない。


ウタのために何かをしたいとは思っている。

思っているが、その手段が今の自分には余りに少ないことも理解している。


去り際、ウタのことを優しく撫でる女帝の姿に”ハートの海賊団”の船員達は骨抜きになっていた。



――……おぬしら、ウタに何かあったら生きてここを出られないと思え



そしてジンベエと”ハートの海賊団”を一睨みしていくことを女帝は忘れていなかった。


匿うために自国へ招き入れたというのに、何という理不尽か。

ハンコックがそれを許したのも、全てはルフィとウタの二人のためだということは全員が察する所であった故、不満の声などなかったのだが。


そうしてルフィが目覚めるまでの間、”女ヶ島”の沿岸でジンベエ達は過ごすことになった。

そんな中、ジンベエはふとウタの姿を見て気付いた。


「マリンフォード」から逃げることに頭が行き過ぎて気に留めてなかったが、ウタの全身はボロボロだ。

”ハートの海賊団”はより命の危機に瀕していたルフィを注視していたために気付けず、ジンベエにも気付く余裕はなかった。


あの女帝がウタに特に心を砕いていたのもこれが一因だったか。

ジンベエは一人納得する。


そして、誰がウタの補修をするのかという話題になった。


最初はジンベエがやろうとしたが、ウタと比べてジンベエの体躯は余りにも巨大。

小物の補修などの経験がないとは言わないがここまで小さな、それも生きている人形の補修となるとどうしても手が震えてしまう。


さてどうしたものかと”ハートの海賊団”に声をかけたところ、船員たちの多くは一人の男に熱い眼差しを向け始めた。


「……おれは医者であって仕立て屋じゃないんだがな」


”ハートの海賊団”船長。”最悪の世代”の一人。”死の外科医”トラファルガー・ローは船員たちの熱い視線に耐え切れず、ウタの補修をすることとなった。

最初こそ何故自分がやらなければならないのかと嫌々とした顔だったが、一度始めてからその手に淀みはない。


やり始めたら集中するタイプか。あるいは真面目な気質なのかもしれない。

ジンベエはウタの補修風景を見ながら内心でローをそう評価した。


黙々と作業を続けるローとそれを見つめるジンベエ。

そんな光景が生まれて暫く経った後、ふと浮かんだ疑問をジンベエは口にする。


「その割には随分と手慣れておるな? トラファルガー」


ジンベエの言葉通り、ローの手は淀みなくウタの補修を終わらせていく。

海で生きる海賊である以上、衣類を補修するなどの裁縫経験が全くないということはあり得ないと理解はしている。


だが、ローの技術はそういった必要に駆られて体得した裁縫術とはまた毛色が異なっていた。


補修痕はなるべく目立たないように綺麗に施されている。

まるで以前の姿に戻そうとしているかのようだ。


海の上で生活するための裁縫で、そこまでする必要があるだろうか。


「…………傷口の縫合の要領でやれば、この程度はできる」


ウタを見つめながらローは呟く。

その目は何処か遠い場所に想いを馳せているようで、これ以上踏み込むなと拒絶しているようでもあった。


小さな娘が好みそうな風体の人形に何か思うところがあるのか。

ローは子どもがいるような年齢には見えない。だとすれば幼少期の友人か。あるいは家族の誰かが……


そこまで考えてジンベエは思考を打ち切り、ローの言葉に応える。


「そうか」


誰しも触れられたくない箇所というものは存在する。

それを無関係な他人が詮索するのは無神経というものだ。


再び訪れた沈黙の時間。

ローにウタを任せたジンベエは静かに目を閉じ、ルフィの目覚めを待ち続けていた。



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