取り調べ/尾刃カンナ
それは、ある日の夜明け前のこと。
とある被疑者の取り調べの最中の出来事だった。
「何か申し開きはありますか、先生」
“……面目次第もございません”
広さにして数メートル四方の狭苦しい密室の中、私は無骨なデスク越しに被疑者と二人きりで向き合い、容赦のない尋問の言葉を浴びせていた。
それ自体は私にとっては特に珍しいことでもない。一つだけ普段との違いを挙げるとすれば……今、私と机越しに向き合っている相手が、いつものようなスケバンや不良生徒の類ではなかったことだろう。
大人の男性……それも自分が良く見知った相手。他ならないシャーレの先生、その人だった。
「……全く、まさか私が先生を取り調べることになるとは」
半ば愚痴交じりの言葉が口から零れる。
目の前にいる成人男性は、まるで悪戯を咎められた子供のように、質素なパイプ椅子の上で申し訳なさそうに身を縮まらせていた。
……普段は「大人」を標榜しているくせに、妙なところで子供っぽい人だ。
「パトロール中の繁華街で先生の姿を見つけた時は驚きましたよ。……まさか生徒とホテルで一泊した挙句に朝帰りとは。教育者としてあるまじき行いだと思いますが」
“いや、本当に誤解なんだって! あの子が体調悪そうにしていたからちょっと休めそうな場所に連れて行っただけで、カンナが想像してるようなことは何もなかったから!”
「では、なぜあの生徒は私の姿を見るなり脱兎のごとく逃げ出したのでしょうか? それに先生もわざわざ自分が囮になってまで生徒を逃がすような真似を……何かやましいことがあったとしか思えません」
“それは、その……ちょっと事情があって”
しどろもどろに弁解する彼の姿に、はあと溜息が零れる。
ならばその「事情」とやらを説明してほしいところだが……恐らくこの人は口を割りはしないだろう。
これでも「狂犬」の異名を取るほどには尋問で名を知られた女だ。目の前の相手が一朝一夕では落とせないことくらい、二言三言も言葉を交わせば否応なしに分かる。
それに……この「先生」を名乗る大人との付き合いもそろそろ短くはない。彼がどのような人間かも多少なりとは分かっているつもりだ。
少しとぼけた所もあるが、何よりも生徒のことを想い、その未来を守るために奔走する大人。その理解で概ね間違いは無いだろう。
少なくとも、自分の欲望のままに生徒を食い物にするような悪人の類ではないと断言できる。
ただ……この人が守ろうとする「生徒」の対象は、何も品行方正な優等生ばかりではない。
私達ヴァルキューレが普段相手をしているような不良生徒や、自らの欲望のためなら犯罪行為すら厭わないようなアウトローの類。そして、あの子兎たちのように何らかの事情で通っていた学園を追われ、行き場を失くした根無し草……
私のような秩序の側に立つ者では表立って手を差し伸べられない者まで、彼は分け隔てなく救おうとする。
……あの時先生と一緒にいた生徒の風体が、トリニティとゲヘナを巻き込んだ大規模テロの実行犯として指名手配中のテログループの一員に酷似していた、などという事実にも、思うところがないわけではない。
それでも……ヴァルキューレ公安局員としての立場を抜きにした一人の人間としては、彼の行いの是非を問う気にはなれなかった。
「正義」の形が一つであると妄信できるほど、私も幼くはないのだから。
……どのみち、あの場で彼と一緒にいた生徒の身元を検められなかった以上、彼とあの生徒との関係を示す確たる証拠は何もない。
せいぜいあの区画一帯を改めて捜索するくらいが関の山だろうが……警察官に姿を見られたと知って尚あの場に留まるほど彼女達も愚かではないはずだ。十中八九空振りに終わるだろう。
無駄足に終わると分かっていることに態々時間と人員を割くほど、今のヴァルキューレに余裕は無い。
今私の目の前にいる彼にせよ、あくまで任意同行に応じた重要参考人という扱いだ。このままあと数時間も黙秘を続けられれば、全てが有耶無耶のまま証拠不十分で解放せざるを得ない。
……それを分かっていたからこそ、あの時自分があの生徒の身代わりを買って出たのだろうか?
人畜無害そうな顔をしていても、そのあたりの計算高さは流石に「大人」ということか……あるいは単に何も考えていないだけなのだろうか。
彼の意図がどうあれ、確かなことは一つ。
つまりは今、私達がこの部屋で費やしている時間そのものが……全くの無駄、ということだ。
“えっと……見なかったことに、っていうのは、難しいかな”
「当然です」
縋るようにそう口にする彼に、ぴしゃりと冷たい言葉を叩きつける。
これでも警察官の端くれだ。目の前の不義を前にして知らぬ存ぜぬでは通せない。それに……
……彼のことは尊敬している。
同じ職場で働く上役としてだけではなく、一人の人間として、好意すらも抱いているだろう。
それでも……どこまでものらりくらりとした彼の態度を見ていると、無性に怒りが沸き上がってくる。
散々こちらを振り回しておいて、最後までこの人の掌の上のまま終わるというのも癪だ。せめて一矢を報いてやりたい。そんな感情が胸の中で渦巻いていた。
とはいえ、些か私にとって分の悪い勝負であることも事実だった。
この狡猾な大人相手に、この件に関してこれ以上の追及は難しいと、私の中の理性は既に判断を下し終えていたのだから。
「埒が明きませんね。……では、質問を変えるとしましょう」
……だが、狡猾なのは警察も同じだ。
法の埒外で生きる無法者共を相手に、型通りの正攻法ばかりでは対処できないこともある。
ならば……こちらも攻め手を変える必要があるだろう。私はあえてそう見えるように意地悪く、ニヤリと口元を歪めた。
「失礼ながら、先生……あなたが女生徒と不適切な関係を持ったのは、これが初めてではありませんね?」
“!?”
途端、彼の顔色が変わる。身に覚えがあるのだろうか、だらだらと冷や汗を流し始める。
“な、何をおっしゃているのかさっぱり……”
「おや、私の口から逐一説明して欲しいと? 先生がお望みとあらば、そうしても構いませんが」
……まさか、私が何も知らないとでも思っていたのだろうか? だとしたらヴァルキューレを、狂犬を甘く見過ぎというものだ。
確かに「シャーレの先生」は基本的には善人として知られているが……時折信じられないほど常軌を逸した奇行に走ることがある、というのは巷でも有名な噂なのだから。
生徒からの被害届が受理された記録が存在しないため大事にはなっていないが……正直、噂を聞いて何度自分の耳を疑ったことか。
だが、いい機会だ。
こうした別件逮捕紛いのやり口は本意ではないが……この機会に、少しばかり事実関係を確認しておくのも一興だろう。
この日のために用意しておいた手元のファイルに視線を落とし、そこに書かれていた内容を淡々と読み上げていく。
「さて……小耳に挟んだ情報ですが……先生はゲヘナの風紀委員を務める生徒の足を舐め回したことがあるとか」
“それは……相手の方から頼まれて……”
「またある時は、とある女生徒に首輪を着用させて四つん這いで歩かせ、犬のように散歩させたなどという与太話も」
“それもただの罰ゲームで……って散歩まではさせてないよ!?”
「では温泉旅館で別の女生徒と混浴し、そのまま一泊したというのは事実でしょうか?」
“そ、それはその……成り行きで……”
「某メイドカフェで、アルバイト中の学生に踏んでくださいと懇願したという目撃証言も挙がっています」
“えっと、その……”
「真偽は不明ですが……嫌がる生徒にメイド服を着せ、接待を強要したという噂も」
“あ、あれは人見知りを克服するための特訓の一環で……”
「挙句の果てには、大勢の女生徒たちの前で、全裸で屋外を駆け回った、とかいう報道まで」
“……お願いだからそれにだけは触れないで”
それは尋問とすら呼べない、ただの事実確認だ。
……こうして改めて列挙すると何というか、この人の性癖はどうなっているんだと頭を抱えたくなる。まあ、半分は不可抗力であることも確かなのだろうが。
ファイルの内容を粗方読み上げ終えた時、もはや目の前の彼はあからさまに憔悴し、借りてきた猫のように押し黙っていた。
その情けない姿にひとしきり溜飲が下がると同時に、少しだけ昏い悦びを覚えてしまったことは否めない。
……とはいえ、こちらも全くの無傷ではない。諸刃の剣、という言葉があるが、今の私が揮う言葉の刃はまさにそれだ。
こうして一つ一つ、先生と他の生徒との……他の女との不純な交遊の記録を口にするたびに……胸の奥底が針にでも刺されたようにズキリと痛むのだから。
だが、私がこうして先生の数々の問題行動を論ったのは、何もささやかな復讐心だけが理由ではない。
一つだけ、どうしても確認しておきたいことがあったからだ。
「では、全ては誤解だと? 彼女達とはあくまで教師と生徒との関係で、男女の関係に至ったことはないと、あくまでそう主張するわけだ」
“……はい。信じてください……”
「……なるほど。ですが、それはおかしな話ですね。信じ難い。事実に反しています」
“そ、そんな! 私は誓って……”
先生の声は反駁ではなく、もはや許しを請うような懇願に近かった。
そして確かに、彼の言葉は事実なのだろう。……この人は、先生と生徒という一線を容易く踏み越えるようなことは絶対にしない。
……そう。「ある一人の生徒」を例外としては。
私はあえて嗜虐的に笑い、決定的な一言を口にする。
「なぜなら……先生と『そういう関係』に至ったと断言できる生徒が一人、確かに存在しているのですから。今、先生の目の前に」
“……………………”
その言葉を告げられた瞬間、先生の表情から一切の色が消えた。
先程まで見せていた表面上の動揺も、困惑の色さえも消え……不自然なまでに穏やかな佇まいのまま、ただ無機質な瞳でじっと私を見つめていた。
そして私も、その瞳から目を逸らさず、まっすぐに見つめ返す。
「ここからの私と先生とのやり取りは、決して調書に記載されることはありません。だからこそ嘘偽りなく、正直に答えてください」
“……………………”
「先生が生徒と『特別な関係』に至ったのは、その一度きりですか。先生にとっての『特別』は、ただ一人だけだったと……そう証言できますか?」
……つまるところ、「それ」なのだ。
私が一番問い質したかったことは。
確かに、私の中の理性は……警察官としての私は、彼への追及を諦めた。
しかし同時に、私の中の理性でない部分……感情的な部分は、このままこの男を逃がしてなるものか、と叫んでいた。
それは警察官としての自分ではなく、一個人としての……「女」としての私の感情だったのだろう。
誰に対しても分け隔てなく接する、所属や善悪の区別なく、全ての生徒を公平に扱う大人の先生。
そんな彼に女として、雌として求められているのは自分だけだという……私だけが彼の「特別」なのだという優越感と背徳感。
たとえそれが、恋愛とすら呼べない爛れた関係だったとしても……ただ互いを慰め合うだけの、一時の欲望の捌け口に過ぎなかったのだとしても。
彼には自分だけを求めてほしい。自分以外の誰かを求めてほしくない。そんな独占欲にも似た感情。
……だからこそ、夜の繁華街で……「そういうことをする場所」で、見知らぬ女生徒と仲睦まじげに話す彼の姿を見た時、自分でも驚くほどに動揺した。
私以外の生徒に歪んだ性癖を向ける彼の噂を耳にするたび、心がざわついた。私だけが彼の特別ではなかったのだと、そう認めてしまうことが……怖かった。
自分の心の奥底に渦巻いた、不安、恐怖、怒り、悲しみ、羨望……それらの昏い感情の根源。
言葉にしてしまえばどうしようもなく低劣で、卑俗で、浅ましい……自分でも呆れ返ってしまうほどの、ただの醜い嫉妬心。
ああ、これが犯罪者たちから狂犬とまで畏れられた警察官の姿だろうか。
なんとまあ、無様なことか。
“カンナだけだよ”
……返って来たのは、この上なく単純明快で、私が欲しかった返答。
だけど、だからこそ簡単には信じられなかった。
そんな自分が、厭になる。
“他の誰も代わりになんてならない。私が欲しいのは、カンナだけだよ”
再び、同じ言葉が重ねられる。
彼は……先生は、相変わらずの人好きのする柔和な笑みを浮かべて、しかし目を逸らさずにじっと私の瞳を見つめ続けていた。
あるいは、それは彼なりの誠意だったのだろうか。
「……証拠は?」
私もまた、目を逸らさずに彼の瞳を見つめる。
……言葉だけで信じられるのなら苦労はしない。もっと確かな証を与えて欲しかった。
そんな私の本音を知ってか知らずか。彼はとぼけた笑顔のまま、うんうんと幾許か考え込むような素振りを見せた後……ぽんと手を打ったかと思うと、こんな風に宣ったのだ。
“少なくとも……ちゃんと下着をつけてるかどうか訊いたのは、カンナだけかな”
「…………」
押し黙る。
かあ、と顔が赤くなるのを感じる。
……こうも直球で来られると、流石に対応に困ってしまう。
「前にも言いましたが、それはただのセクハラです」
“……ごめんなさい”
再び子供のようにしゅんとする彼。……その表情のどこまでが演技で、どこまでが本心なのだろうか。
大人とは、幾つもの顔を使い分ける生き物だという。
ならば他の生徒達に見せている「良い先生」としての顔は、一部の生徒達にだけ見せる「だらしない先生」としての顔は、私にだけ見せるこの顔は……どこまでがこの人の素顔なのだろうか。
……分からない。今の私には、それを確かめる術を持たない。ひょっとしたら、他者の心の裡を確認する方法なんて、この世のどこにもないのかもしれない。
でも、だからこそ信じさせてほしかった。嘘でもいいから錯覚させてほしかった。
言葉でも、理屈でもなく……もっと確かな「熱」で。
「……全く、困った先生だ」
椅子から立ち上がる。
机を回り込み、彼の背後へと回る。
「やはり先生には一度、他に疚しいことを隠していないか……その身体に直接、じっくりと尋問する必要があるようです」
背中側から、彼の肩に手を添える。
その耳元にそっと顔を近づけ、息を吹きかけるように囁く。
“……悪い子だね、カンナは”
「ええ。先生の方こそ、悪い大人です。こうして何度も何度も、同じ過ちを繰り返してしまうのだから」
座ったまま首だけをこちらに傾げた彼と、再び目が合わさる。……その瞳の奥に、確かな「熱」が宿っているのを見て取って、ほっと安堵する。
……恋だの愛だのとは到底呼べない、そんな言葉では形容しきれないほどの獣じみた熱情。
どうしようもなく相手を欲し、求め、貪りたいという、どこまでも不純で原始的で、だからこそ純粋な衝動。他の誰にも見せない、私だけが知っている彼の貌。
だけど、その情動を蔑む権利なんて私には無い。……たぶん、今の私の瞳の奥にも、彼と同じだけの「熱」が宿っているのだろうから。
「……ああ、これは随分と余罪がありそうですね」
何か言いたげな彼の口を強引に塞ぐ。零距離で重ねられた互いの唇は、もはや言葉を紡ぐには役に立たない。
言葉ではなく素肌で、体温で、彼の本音を感じて……それでも、互いの全てを知る迄には、まだ足りない。
嗚呼……
今夜の『取り調べ』は、随分と長く掛かりそうだ。
(了)