反転した運命

反転した運命


「大丈夫だよ、ドフィ」

幼いおれにとって、その言葉はひとつの奇跡だった。

「大丈夫」

歌うような幼い兄の声が、今も頭蓋の内をこだまする。

そうして優しげなあの人の赤い瞳が細められるのを、おれは心臓に巣食ったおそろしさと共に、きっと明日も変わらず見下ろすのだ。


「ドォーフィーー!仕事上がったよォー!」

「連中は撤退し、籠城を決め込んでいる。後は本隊に引き継いだが、音を上げるのも時間の問題だろう」

「よし、トレーボル、ピーカ、よくやってくれた」

「べっへっへ!これで悪魔の実ひとつ…今度は誰かに食わせるか?」

「ブキブキだったか。ベビーなんかはどうだ」

「そうだな…考えておく」

仕事帰りの二人を労い、報酬の使い道を話しながら酒を開ける。いつも通りの一日に、近付く匂いがあった。

「お疲れ皆、ちょっとドジって遅くなっちまった」

「正確には奮戦し過ぎたグラディウスが…だが、まあいいだろう」

「ウハハハハ!このメンツに放り込まれちゃそうもなるだろ!」

ヴェルゴとディアマンテが揃い、にわかに部屋が明るさを帯びる。今はコラソンの名で呼ばれる兄も、いつも通りの黒いファーコートに道化のメイクの出で立ちで席についた。執念すらも感じさせる丁寧さで落とされた血は香水に覆い隠され、残り香すら打ち消されている。

ディアマンテが熱を込めて語る血みどろの姿など、想像もできない程に。

「おれ達の仕事ぶりに」

"傭兵団"本部の一室、おれの仕事部屋である指令室に掲げられたグラスの中身は、兄のものだけが異なる色を帯びていた。


おれ達の始まりは、血だまりに立つ兄の姿。

頭を執拗に潰された父だったものの傍らで、あの赤い瞳だけが光を反射し奇妙に輝いていた。

これは悪夢だ。あれは兄ではなく、人の姿をとったバケモノだ。

気が付けばおれはゴミ山を掻き分け逃げて、どこにも行けずにうずくまっていた。

本当はおれも、父を殺すつもりだった。街のゴロツキ共に銃と悪魔の実を手渡されたその時に、兄と父の命を天秤にかけた気でいた。

全てから否定されるべきおれの世界を、兄が、兄だけが愛してくれたから。

おれより少しばかり大きいだけの体で、兄には見えぬ影を振り払ってくれた。鐘の音に怯えれば、小鳥のような声で子守歌を歌ってくれた。眠れぬ夜は、ベッドにもぐりこんで奴隷たちの内緒話を教えてくれた。

いつしか独り傷だらけで食糧を持ちかえるようになった兄に、また子守歌を歌ってほしかった。寝物語をしてほしかった。なにより生きてほしかった。母を死なせ、兄とおれとを地獄へ連れ込んだくせに怯え泣くだけの父よりも。

だからだろうか、逃げ出したその足が再び、あのあばら家を目指したのは。兄のもと以外に、己の居場所など想像すらできなかったのは。

「おかえり、ドフィ」

血だまりの跡だけを残して消えた父の代わりに、兄はいつも通りの笑顔でおれを迎え入れた。

それからの記憶は曖昧だ。ただ兄がおれをゴロツキ共のアジトに連れていき、ここが新しい家なのだと言ったことだけはよく覚えている。

今ここから、おれ達で始めよう。

兄の言葉にヴェルゴが、トレーボルが、ディアマンテが、ピーカが頷いたのを、おぼろげに覚えている。

いつも父に寄り添い励ましていた兄の心の底には、尽きぬ憎悪があったのだろうか。

それとも悪魔の実をただ集めるように、一種の気まぐれだったのだろうか。

答えは未だ、おれの手にはない。


「調子はどうだ」

「んーんー…雑魚ばっかだな、こっちは」

「そろそろ国境を突破する」

「流石に首尾が良い」

フレバンス王室護送団護衛。馬鹿な王族共のお守りは、つつがなく完了しようとしていた。

「あとはヴェルゴと合流して待ちかァ」

「強欲もここまでくると笑えんな」

ピーカの言葉に、まったくだとトレーボルが笑う。子電伝虫の通信距離の問題で周辺国に潜伏しているおれは、出撃を待つヴェルゴと共に"家族"の声を聞いていた。

「フッフッフッ!その強欲が、周辺国の5倍の報酬を約束してんだ。悪かねえだろう?」

「べっへっへ!それもそうだな!」

珀鉛病はただの伝染病である。連中は意地でもそういうことにしておきたいらしい。

つまり周辺国を退けさえすれば、もう一度珀鉛による財を成せる、という魂胆だ。

病で国民は大勢死ぬだろうが、元々が裕福な国だ。その内訳はなにも土着の連中だけじゃねえ。上手く事が運べば無知な新参者共を使い、また珀鉛を掘るのだろう。

「挟撃のタイミングでおれもフレバンスに入り、鳥カゴで連中を分断する。そちらの様子はどうだ?」

「コラソンの居る前線にゃもうお客さんが来ちまったみたいだぜ?まったくせっかちな野郎共だ」

「ディアマンテの言う通り、おれの方には敵が多い。…どうする?ドフィ」

おれには決して人を殺させなかった兄は、今日もおれの指を引き金にかけて静かに問うのだ。

その答えはいつも、決まっている。

「殲滅しろ、コラソン」


「ドフィ見たか?連中の顔!フレバンスにゃ白い鴉しかいねえと思ってたらしいぜ」

木々までも白く染まった街並みで、ディアマンテが愉快気に肩を揺らす。鳥カゴに逃げ場を塞がれ為すすべもなく内側の半数を殲滅され、残る半数の撤退を余儀なくされた連合国軍は停戦に合意。呆気ねえ終わりだった。

「コラソンはどうした」

「ああ、今回の土産でも物色してるんじゃねえか?」

兄は土産と称し、よく人を拾ってくる。曰くいればいるだけ良いという医者連中に、行き場のないガキ共。この街には珀鉛と病の関連性に気付いた医者もいたはず。おおかたそいつでもスカウトに行ったか。

兄が何を欲しているのか、そして何を得たのか。その答えはおれの手にはない。

あの人は自分ではなく、おれを王とした。ドフィは器用で賢いから司令塔なんてのが似合うなどとのたまって、己はいつも戦場に身を投じている。

だがそれでも、家族が五体満足で戻る度、新入りが増える度、そしておれが笑う度にあの人は、幸せそうな顔をするのだ。

傭兵団が街のゴロツキと大差なかったあの頃、まだ幼すぎるおれの手を握って子守歌を歌ってくれた。奴隷たちの話の代わりに、北の海の寝物語を披露してくれた。いつだっておれを、家族を守ろうと戦っていた。

それがおれ達の間に横たわる、疑いようのねえ真実であるならば。

心臓に巣食ったおそろしさの傍らで、いつか呟くことができるなら。

愛していると。

白い石畳に、黒い影が落ちる。見知らぬガキ共の声と共に、血の臭いを誤魔化す香水の匂いが風に混じった。

「おーいたいた!ドフィ!」

その風貌と死体漁りの癖で"鴉"の異名を持つ男は、白く輝く二つの琥珀の卵を抱いて笑っていた。






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