反吐が出るほど平和な導入。
高級ホテルの地下フロア。その最奥に隠れるように建てられた狭い部屋の中で、鬼方カヨコとラフな服装の男が膝を突き合わせて座っていた。
部屋には二人の間にある机に置かれた録音機のコイル鳴きと、パラパラと紙を捲る音が響くだけ。
「ふむ、問題ねえな」
男はそう言って資料を放り投げると、今度はカヨコをじっと眺め始めた。頭のてっぺんから爪先まで丹念に眺めたかと思えば、背筋を正すように顔を引いてその全身を視界に収める。
「こっちも問題はなし」
品定めをするような態度の男だが、実際にそうなのだ。
何を隠そうここは風俗店の事務所。身売りをしにきたカヨコの価値を確かめている真っ最中である。
「にしても便利屋の嬢ちゃんが来てくれるたぁね。どうしたい、そんなに金が必要になったか」
「まあ、今回はちょっとね。私のミスだったから自分でなんとかしないと。できれば先生も頼りたくない……」
「へ〜え。ま、詳しくは聞かねえ。……にしても、そのために辞めたんか学校」
「え?辞めてないけど」
ピシリと空気が凍りつく。
「……あ〜、すまねえ、ちょっと席外すぞ」
辞めていない、そういわれた男は一瞬固まった後に眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべながら部屋を後にした。
少し乱暴に閉じられたドアの向こうから悲痛な叫びが聞こえてくる。
『もしもし!おい新入り!あの子まだ学校所属してるじゃねえか!調べ直せ!!』
『…………どうだ?……マジか〜』
『知りませんでしたじゃねえよ!調べとけって!基本のキだろ!』
『……言い訳は……いや確かに18だけどさぁ!!』
『おまっ……契約上はもうウチの社員なんだぞ!これであることない事言われてみろ!……謝って済む段階はとうにすぎてるんだよ!!』
『あーもーやだー!シャーレの先生が来てからこんなんばっか!』
怒声が悲鳴に変わり、悲鳴が泣き言に変わってしばらくしてから男は戻ってきた。
「ぁあああぁぁぁ……」
「なんか、ごめんなさい」
「いい、いいんだ。全部俺たちが悪いんだ……。下痢ノミダニチリクズゴミカスウンチ……」
「汚言症……」
「できればうちで働くの止めてほしい」
「……ある事ない事言ったらどうするの?」
「うぉぉおぉおおおん!!これがあるから無理矢理辞めさせることもできねえ!!」
泣き言を吐きながらどうにかならないかと男は契約書を読み直すが、穴が空くほど読み込んでも抜け穴は見つからない。当然だ、そんな物などないようにしっかりと自分たちで作り上げたのだから。
しかし、それもキチンと手順に従って契約を進め確認要綱を落とすことなく改めることのできる者が扱ってこそ。今回はそこを突かれてしまったのだ。
「腹括るしかないかぁ……」
「なにか手立てでも?」
「一応、気休め程度にはな」
斯くして短期で稼ぎたいカヨコとバレる前に稼ぎ切らせて自主退社させたい男の二人三脚が始まったのだった。