友達更新
榊原ーー
その名前を聞いて、何の反応も無かったことが珍しかった。私をただの「榊原」と呼ぶきみが、珍しかった。
あとからきみが一般家庭出身だと聞いて納得した。それなら、あのドブカスそのものの家なんて知ってるはずがない。いつかは知られるだろうけど。知ったあと、きみは私を気味悪く思うだろうけど。でもできるだけ、その時が遅く来るといい。それまでは、私はきみにとってただの「榊原」でいられるから。
私はまだ、きみと友達でいたい。
友達でいたかった。
縁談で家に呼び戻されたあと、使用人から悟ときみが来ることを聞いた。ついにこの日が来てしまった。私の家がどんなに最低か、そんな家で生まれ育った私がどんなに最悪か、きみにバレてしまう日が。
縁談のことを話すと、私と目を合わさずにきみは「おめでとう」と言った。
本当は、いつものように真っ直ぐ私を見てほしかったけれど、きみはもう、私を、榊原を気持ち悪く思い始めているんだね。
「ありがとう」って、上手に言えたかな。
私、性格が悪いから、言い方が悪くなったりしてないかな。きみみたいに、優しく言えてたらいいんだけど。きみと会話するのはこれで最後になるかもしれないから、できるだけ、いい思い出として残りたい。
悟には、「そういうことは早く言えよ」って怒られた。そうするべきなのは分かってた。でも、早く言ったら言った分だけ、友達でいられる期間が短くなるような気がして言えなかった。きみはもう私を見ようとしなかった。
加茂さんと庭で話していると、きみがやって来た。私をチラッと見て、「着物なんだね」って言ったかと思うと(私はずっと着物だったんだけど)、加茂さんを連れてどこかに行こうとする。私に会いに来たんじゃなかったんだと、ちょっとガッカリした。それもそうだ。もう友達じゃないんだし。しかたない。でも、いったい加茂さんに何の用事だろう。もし、この家のことなら、加茂さんより私のほうが知ってるのに。よくないことだと思いつつ、二人のあとを追いかける。
きみと加茂さんが何か話している。上手く聞き取れなくて、もう一歩近付いたとき、きみの声が聞こえた。
「榊原は大切な学友であり親友です」
それだけで十分だった。私はまだ、きみの友達でいられる。どうしよう、どうしよう。とてもうれしい。両手で口を押さえる。そうしないと、笑い声を聞かれてしまいそうだったから。口を押さえたまま、息を止めてゆっくりその場から離れる。
ふわふわした気持ちで部屋に戻って、息を吐く。走ったわけでも、呪霊を祓ったわけでもないのに、心臓がどきどきしている。
親友!
私を親友だって言ってくれた!
鏡の中の私が、両手を頬に当てて笑った。
お礼を言いたいけど、盗み聞きした内容だから、いつか私に向かってそう言ってくれる日が来たら、ちゃんと「ありがとう」って言おう。その日が来たら、今度こそ上手に言える気がする。鏡に映ってるのと同じ顔で。私と友達になってくれてありがとうって、私を親友だって言ってくれてありがとうって。
絶対に言おう。
絶対に。
「…えーっと、」
きみの困った声が聞こえる。私がうつむいて、黙ったままだから。でも、顔を上げる勇気が出ない。パイプ椅子に座って、手元をじっと見ている。
笑って、「ありがとう」って言おうと思ってた。でも、言えない。言えるわけない。
涙がぼろぼろこぼれてくる。余計に顔を上げられなくなってしまった。
「もしかして、泣いて…」
「ごめんなさい…」
「何で謝っ…、いや、何で泣いて…」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
両手で顔を覆って謝り続ける。
私のせいだ。きみをすぐ、家から追い出すべきだった。そもそも、家がきみを呼んだ時点で、来ないでって、きみに連絡するべきだった。あんな家にきみは来るべきじゃなかった。なのに私、親友だって言ってもらえてうれしくて、このままきみがここに居てくれたらなって思ってた。こんな私にお礼を言う資格なんてない。友達でいる資格なんてない。
「ごめんね…」
「榊原…」
きみが私の手を取った。両手が顔から離れて、白いベッドの上にいるきみが見える。
きみの顔には包帯が巻かれていて、ガーゼが貼られていた。顔以外にも。
全治一ヶ月。
どうして、お礼を言おうなんて思ってたんだろう。
きみがこんなに傷ついてしまったのに。
お礼なんかより先に、謝るべきだったのに。
涙が止まらない。絶対、ひどい顔をしてる。
「どうして、榊原が謝るんだ?」
「…どうして?私のせいで、榊原のせいで、傑は怪我したのに?」
傑は首を横に振った。
「違うよ。私が選んだんだ。呪術師だとか、非術師だとか関係なく、助けたいと思う方を助けようって。それでよかったと思ってる。…悟には笑われるかもしれないけどね」
「笑わないよ。笑ったら、私が怒るよ。絶対、笑わせないよ。だから、これからも傑は傑のままでいてね。傑の代わりなんてどこにもいないんだから」
傑は少し目を丸くした。それから、「ありがとう、成華」と言った。私の名前だった。