前編

前編

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染みのついた白い天井。僅かに中身の見える破れた緑色のソファ。ワックスのかけられた木製の床。ガラス戸の棚には複数の薬品が見えており、軽く呼吸をすればかすかに消毒液のような臭いがする。

病院というよりは学校の保健室を思い起こさせる部屋で少年は意識を取り戻した。手を握られているような柔らかな感触を覚え、視線を辿ると、そこには泣いている少女が一人。

"どうしてこうなったんだ"

ぼ~っとした頭で最初に浮かんだ言葉はそれだった。今の状況を完全なる第三者が見れば、意識を失った彼氏を、彼女がずっと付き添っていた……と、そんなことを思っただろう。

だが、それは実際にはまるで見当違いの感想だ。そもそも彼らは話もしたことがなければ、お互いの名前すら知らない。なれば当然同級生というわけでもなく、今この瞬間こそが実質的な初対面とすら言える

だと言うにも関わらずこんな状況になっているのは、この世界の特殊な環境。そして少年の置かれた特殊な状況に起因していた。




SideB

「………?」

 自宅の布団で眠っていた筈の少年は日陰の中の冷たく硬いアスファルトの感触を背にして目を覚ます。普段であれば多少の眠気は残っている筈だが、眠った場所と目覚めた場所の不一致による衝撃でそんなものは容易く吹き飛ばされしまった。

"ここは一体どこだろう"

 人間、まるで訳の分からない状況になると意外に冷静でいられるものなんだな。とそんなことを思いながら周囲を見渡すが、特に変わったものは見つからない。だが、右も左もなにやら大きな建物に囲まれているということから、どうやらここはどこかの路地裏であるということぐらいは少年でも推測出来た。

 よりにもよって路地裏で眠っていたという事実に軽く身震いがした。しかし、少しだけでも状況を理解出来たことで冷静になってきたのか、至って当然の不安が少年の心を蝕み始めた

「何か盗まれたりしてないだろうな……」

 表情を僅かに歪ませながらそう言うと、自分の所持品の確認を始める。

(鞄は……ないな。盗まれたのか家にあるままか……。どっちにしろ財布がないのは困る。けどスマホが手元にあったのは唯一の救いかもしれないな)

 充電コードが刺さったままのスマホを確認してみると、幸運なことにバッテリーは93%は残っている。だが喜んでばかりいられるものでもなく、また新たな問題が発生する

(……圏外!? おい、勘弁してくれよ。これじゃあ何も出来ねえじゃねえか!)

 そう、バッテリーこそ十分だったが、それ以上に重要な回線が繋がっていないのだ。これでは地図の確認も出来ないし、調べ物すら出来ない。当然知り合いに助けを呼ぶということすら出来る筈がない。

 八方塞がりの状況だが、しかし、だからと言ってずっとこの場に留まるという訳にもいかない。不安で仕方がないが、先ずはこの路地裏を抜けることにした。




(しっかし……。山の中でもないし、町の中だってのに何でずっと圏外なんだ?)

 町を歩きながらスマホの電源を一度切ってみたり、機内モードのオンオフを切り替えてみたりと、個人で出来そうな対処は試してはみたがどれも意味はなさなかった。どうやらここには本当に回線が繋がってないらしい。古い集落という訳でもなさそうなのに、回線もなしにこの町の住人達はどうやってこの現代社会を生きているのだろうという下らない疑問が浮かぶ。

(ハッ……! まさか、ここは古代の遺跡で、実は最も古い時代は今の日本と変わらない技術力を持っていたとか!? ……いや、ないか。ないな。うん)

 そんなことを考えながら歩き続けていると、ふと新しい疑問が頭に浮かんだ

"自分は一体どこにいるのだろう"

 目が覚めた時と同じ疑問。だが意味合いはまるで異なる疑問。そもそもの話として、今歩いている道はどこまで歩いても見覚えがないのだ。自分の家の近くにある場所ならば、適当に歩いていてもいずれは覚えのある景色に辿り着くはずだ。なのに、記憶にない景色が永遠に続くばかりで、まるで自宅に辿り着く気配がない。

(……いやいや、そんなわけないって、流石にそんな離れたとこにいる…は…ず…!?)

 未知の場所に対する不安と恐怖が広がり始めた寸前で、少年は何やら見慣れぬものを見つけた。いや、正確に言えば、それ自体は町を歩いていれば何処でも目にするものではあった。彼が見つけたのは、ただの標識だ。一方通行。進入禁止等を意味するアレだ。だがそこに書かれていたものが、彼にとっては縁遠いものだった。

【路面戦車通行禁止】

「……は?」

 戦車。現代の日本で普通に暮らしているのなら、先ず実物を見ることはない代物だ。にも関わらず、まるで当然のようにここでは道路を走っているとでも言いたげに、この標識にはそう書かれていたのだ

「……いや、いやいや! 違うだろ!? まさかそんなことあり得ねえから!」

 少年の頭に、ある複数の単語が浮かんだが、それを振り落とすように声に出して否定する。だが、それでも一度脳裏に浮かんだそれは簡単に消えてはくれない。それでも、必死に忘れようとして、消そうとして、振り切ろうと早足に歩いていたその時だった

「……あ」

 辿り着いた先。そこに横断歩道を示す標識があった。少年の目にも見慣れている、二人の人間が歩道を渡っている標識。だが、その頭上には天使の輪を想起させるような白い線が描かれていた




 "ブルーアーカイブ" "学園都市キヴォトス" "異世界転移" 先程浮かんだ三つの単語が自分がどんな状況に置かれているかをいやでも確信させる。

 "ブルーアーカイブ"通称"ブルアカ"は大人気のゲームであり、何かしらのイベントがあればSNSでトレンドに入ることも多い。細かい情報は省くが、内容を大雑把に説明してしまえば、"かわいい女の子が沢山登場する所謂美少女ゲー"と言うものである。

 そしてそのゲームは少年もプレイしていた。仲の良い友人達と集まって、"ガチャの結果がどうだった"だとか、"どのキャラが一番かわいいか"だとか、"最高スコアがいくらだったか"だとか、そんな生産性の欠片もない話で盛り上がっていたものである。

 そう、つまるところ彼の今の状況は"自分が遊んでいたゲームの世界にたった一人だけで異世界転移させられた"ということになるのだ。これだけ聞くと羨ましいと思う人間もいるだろう。当然だ。自分の好きなゲームの世界に行ける。それも美少女ゲームの世界にともなれば、嫌がる理由はないと普通であれば考えるだろう。

 しかし、嫌だと思うに足る理由は当然ある。それはブルーアーカイブの舞台である"学園都市キヴォトス"は現代日本とは比べられない程に治安が悪いのだ。代表的な物を挙げるなら、"キヴォトスの住人は基本的にみんな銃を持っている"というものがある。これは同じく学園都市を舞台とした作品とのコラボイベントで、銃を持っていない人間は全裸徘徊をするような人間よりも珍しいという情報すら出て来る程には当たり前のことなのだ。ただ持っているだけなら問題ないと思われるかもしれないが、当然そうではない。キヴォトスの住人は現代日本の住人と比べると遥かに頑丈で、銃弾程度じゃ傷も付かない……つまるところ銃撃はこの世界では当たり前の行動であり、殴るよりもハードルの低い暴力であり一種のコミュニケーションでしかないのだ。現代日本で過ごしてきた少年の価値観では適応するのはきっと難しいだろう

 ……だが、ここまで長々と説明してきたが、正直なところ、少年にとってはそれは理由の一端でしかない。彼がここを異世界だと認めたくなかった本当の理由は別にある。それは至極単純なことであり、人間であるならば規模の大小はあれど、皆が持っているもの。……つまり"人間関係"だ。今、元々自分のいた世界がどうなっているかは不明だが、向こうには家族がいて、友達だっている。それはどれだけ薄っぺらな物であったとしても、間違いなく彼にとってのかけがえのない"青春"だったのだ。

「…………」

 胸の中に複数の感情が湧き上がる。一つは不安。転移の理由が不明である以上は向こうに帰れる保証すらない。おまけにこの世界に適応が出来るのかも分からなければ、ずっとここで生きていく覚悟すら決められるかも分からない。輪郭のはっきりとした不安はこれからするべきことの判断を鈍らせる。

 一つは怒り。家族との旅行。友人達との下らない勝負。何のドラマもなければ特別なこと……奇跡すら起こらないありふれた日常。それでも確かに満ち足りていた筈の少年の"青春"は異世界転移によって理不尽に奪われてしまった。それは憎悪にも似た怒りを抱かせ、冷静さを失わせるには十分すぎるだろう。

一つは悲しみ。ずっと一緒に遊び、沢山の思い出を共有した友達や家族に二度と会えないかもしれないという可能性。そんなものが大きく存在をしているという事実が彼の心を深く蝕み、どうしようもなく苦しめた。気力すら奪うような、寂しさを内包した深い悲しみを感じるのはまだ高校生の少年にはあまりにも当然のことだった。

 色とりどりの感情から作られた絶望という黒色が、心というキャンパスを染め上げていく。

 いっそのこと明確な黒幕が存在するのなら、彼はこれらを全てぶつけることが出来たのかもしれない。なのにそんな存在がいるかすらも分からない。これがただの現象であったのなら、最早彼にはどうすることも出来ない。

「はは……」

 口からは何故だか笑いがこぼれ始める。 それを抑えようと口に手をやろうとするが、震えて上手く持って行くことが出来ず。そして……

「あはははははははははははははは!!」

 抑えられなくなった彼の笑い声が夜明けのキヴォトスに吸い込まれていった




「ははははははは! あぁそーだ! いーこと思いついた!」

 少年の口から訳の分からない言葉が紡ぎ出される。

「ここはキヴォトス! そう、キヴォトスだ! かわいい女の子が沢山いる、美少女ゲームの舞台だ!」

 悲鳴を上げるように、自分の本心を塗りつぶすように、無理矢理にも自分の動く理由を作るように、中身のない薄っぺらな言葉を並べ立てる。

「ならやることははっきりしてる、ハーレムだ。ハーレムを築こう。そんでセッ〇ス三昧の日々を過ごすんだ!」

 今彼が紡ぎ出している言葉は本当に男としての本能的な欲望か。あるいは失ったものを埋め合わせる為の代償行動として思い浮かんだ唯一のものなのか。

「これは悪いことじゃない! だって美少女まみれの世界に転移してエロいことしたいと思うのは男の普遍的な欲求のはずだろう!?」

 とにかく今の彼がまともな状態じゃないのは確かだろう。誰かが止めなければならないが、生憎今の少年は独りきりで、彼を心配して助けようとしてくれる友人はキヴォトスには存在しない。

「それなら、俺がこのキヴォトスでハーレムを築いても誰にも文句は言われないはずだ! なんて素晴らしい幸運なんだ! 今なら俺は神様を心の底から信じられる! 神様ありがとう!」

 きっと、何も知らない人間が今の少年を見ればこう思うことだろう"なんて愚かな少年なんだ"と。それは、現在の彼を指す言葉として間違いではなかっただろう。なにせ彼はこちらに来てから"一度も鏡を見ていない"のだ。その結果として彼は"少女達の頭上についているもの"が自分にも当然ついているものだと思って行動している。

「いくぞ! うおおおおおおおお!!!」

 だからこそ断言しよう、愚かにも考えることを止めて走り始めた今の彼はいつ命を失ってもおかしくない……と。




SideG

 ある学校の自治区。これと言った特徴はなく、まさに典型的な現代日本と言えるような場所に少女が一人いた。カスタードクリームを思わせる淡い色の金髪をワンサイドアップに束ねた髪。エメラルドを思わせる瞳の中にはインクルージョンのように、赤い瞳孔がうっすらと浮かび上がっている。体型は特筆するようなことはなく標準的なもの(ただし、最近少しお腹がぷにぷにしてきた)であり、頭上には黄色のグラデーションのかかったナズナの花のような形の"ヘイロー"が浮かんでいる女の子だ。

 仮にキヴォトスの外に少女がいるのならば間違いなく美少女と呼ばれていただろう。そんな少女が現在何をしているのかと言えば

「あんっのノンデリカシー!! 一体どこに隠れやがってくれましたかああああああ!!」

 ハンドガンを片手に鬼のような形相で誰かを探していた。どうして少女がこうも怒っているのか、それは今から数十分程前に溯る。




 朝焼け。まだ眠っている者の方が多いであろう時間帯に彼女と、その友人である茶色い髪の女の子が歩いていた。尤も、少女の方は友人の存在には気づいておらず、少女が散歩中のところを友人が発見しそれを追いかけるように歩いているという形ではあるのだが。

「おっはよー!」

「!?」

 突然に響いた声に少女はびくりと肩を震わせた。実際にはそこまで大きな声ではなかったのだが、誰もいないと思っていたところで不意をつかれたのが原因か、まるでメガホンを通したような大音量だと少女は一瞬錯覚してしまった。

「う…え…あ…。……何だ、貴女でしたか。はい、おはようございます」

 先程の元気で大きな声とは裏腹に少女の方は穏やかな声で返答する。正直に言えば、不意打ちのような真似をされて少しイラッとはしたが、それを表情に出さないように努めた。

「……一応忠告しておきますけど、今の時間帯はあんまり大きな声を出すべきではないと思います……。少し驚いてしまいました」

「え~、そんな大きな声じゃなかったと思うけどなぁ。ていうか思いっきり肩震えてたじゃん。全然少しじゃないじゃん~」

 うりうり~、っと友人がからかうような顔で少女の頬を指でグリグリとつつく。そんなことをされているうちに、先程感じたイライラがぶり返してきたのか、少女の瞳から光が少しずつ消えていき、そして……

「……怒りますよ?」

 ガシッと、獲物を狩るチーターを思わせるような素早さで少女は友人の手首を掴むと、一気に力を込め、今度は獲物を仕留める蛇のように強く締め付けた。

「~~~~~~~~~~~!!!!!」

 突然に吹き出る圧迫の激痛に声にならない悲鳴を上げて悶絶する。友人の手首を掴んでいる少女の手には、その容姿に明らかに見合わないような圧力がかかっている。多少大袈裟に言えば、四方向から全身をロードローラーで押しつぶされされるような……。それに等しいような気もする感覚が彼女の手には込められていた。尤もこれは現在握られている友人が主観的に感じたものでしかなく、実際にはそんな力は少女は持っていないのだが。

「痛い痛い痛い! ごめんなさい調子に乗りました! お願い離して!」

 しかし友人の頼みは決して聞き入られることはない。むしろ手を握る力は増していく一方だ。それだけでは飽き足らず、床に下ろした自分の鞄を探りハンドガンを取り出して

「ちょっ!? 駄目! それは本当に駄目だって! 接射って受ける方はすっごい痛いんだからね!?」

 容赦なく友人の頭にそれを突きつけた。……友人の頭に銃を突きつけるという文章だけを見れば普通であればどうしても陰鬱な物語に出てくるのが思い浮かぶが、しかしここはキヴォトス。これぐらいであればただのじゃれ合い済まされる範疇でしかない。

「反省はしていただけやがりましたでしょうか?」

「もし、してないって言ったらどうなるのぉ?」

「……………」

「反省してます! だから無言で突きつけないでー!」

 ひえ~!っとわざとらしく両手を上げて、友人は降参のポーズを取る。そんな姿を見て少女はようやく溜飲が下がったのか、手に持っていたハンドガンを自分の鞄に戻して友人を解放した。

「やっと解放された~。もーあんなに強く締められて痣になっちゃったらどうしてくれるのさ~。こちとら嫁入り前の乙女ですわよ~!」

 締め付けられていた方の手を軽くを押さえて上下にぶらぶらと振りながら、ぶ~ぶ~と頬を膨らませて、少女に抗議の目を向けている、だがそもそもこれは友人の自業自得である。当然少女はそんな抗議は受け付けないとばかりに、わざとらしさを感じる程の穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

「ごめんなさい。ちょっとやりすぎちゃったみたいです」

「ぜぇ~ったい悪いと思ってなぁ~い!」




 それから暫く、二人で一緒に散歩をしていたときだ。

「そういえばそっちはどうしてこんな時間に散歩なんてしようと思ったの?不良にでも憧れてたの?」

「……それなら夜遅くに出歩いています。というか別に憧れませんよそんなの」

 失礼なことを言いながら、質問をしてきた友人にかけられたあらぬ疑いを一先ず解こうとはっきりと否定する。この子のことだ。否定しなければ、どうせ勝手にそういうことにして話を進めてくるだろう。

「え~、不良の世界でもいい線行けそうなのに~」

「ラウンド2に進みたいらしいですね」

「冗談だよ!?」

 少女の手が再び友人の手首に絡みつこうとしたのをすんでの所で引っ込める。まだ少し痛みが残ってるのにまたアレを受けるのは流石にごめんらしい。

「私も聞きたいのですけど、貴女の方こそどうしてこんな時間に?」

「う~ん、日課? 私入学してから毎日ここ通って散歩してるんだよね~」

「……私もときどきこの時間帯に歩いていますが一度も貴女の姿を見たことないんですけど」

「だって嘘だもん」

「………………」

 かわいらしく舌を出してウィンクをする友人の姿を見て、ひょっとしたらこの子に真面目に取り合おうとするのが、そもそも間違いなのかもしれないと呆れた表情をしつつ少女は思った。そんな少女の様子を見て、勝手に何かを感じ取ったのか友人は慌てた様子で弁解を始めた。

「ほ、本当は何となく気が向いたからってだけだよ!? 別に目的なんて何にもないから!」

「勝手に何かを感じ取って怯えないでください」

「だって、侮蔑の目をしてたし……」

「呆れてただけですよ。どんな目ですかそれは」

 はぁ……と小さく溜息を吐く。この子は自分を何だと思っているのか、答えが少し怖いが近日問い詰めようと心に固く誓っておくことにした。

「そう言えば結局そっちはなんでこんな時間に出歩いてたの?」

 先程の怯えは何処に行ったのやら、ケロッとした顔で話の流れを元に戻そうとする。そもそも話を脱線させた原因は自分なのだがそんなことは彼女の頭からは抜け落ちてしまったらしい。

「……さっきまで怯えてたのに一瞬で元に戻ったりと貴女は本当にテンションが安定しませんよね。逆に感情が無いんじゃないかって気がしてきました」

「失敬な! あるよ感情! ちゃんとあるよー!」

 腕をぶんぶんと振り回し少女をポカポカと叩く。だが、叩かれてる方は何かリアクションをするでもなく、淡々と先程聞かれた質問に答えた。

「ちょっとこっちに用がありまして」

「あ、なるほどコンビニだ。あそこ今日からスイーツフェアだったもんね」

「……聞く意味ありました?」

 自分から聞いたくせに、どうして返答も待たず勝手に答えに辿りついて口に出すのだろうという思いと、何故だか自分の行動基準の一つが把握されていることに対する思いが混じった妙な表情で聞き返す。

「こんなにもぽかぽかと叩いてるというのに何のリアクションも示さず無視するのだから多少のことは許して欲しいものだと我思うなり」

「もう私には今の貴女のキャラが分からないですよ……」

 真顔で流される意味のない言語情報という雪崩に飲み込まれた少女が頭痛がしてきたと言いたげに頭を強く押さえた。もう駄目だ。彼女はきっと今日はずっとこんな調子のままかもしれないと、ひっそりと絶望に浸っていると、友人が突然落ち着いた声でさっきとは別の疑問を問いかける。

「でも大丈夫なの?」

「何がですか」

「体重」

「あ゙?」

 我ながら凄い声が出たものだと少女は思った。けど仕方ない。いくら同性であっても決して女性に言ってはいけない禁忌の言葉(フォービドゥンワード)を目の前にいる女は口に出したのだ。もはや生かしてはおけないという思考が浮かんでくるのは自然なことだろう。

「いい度胸してんじゃねーですか。これはやっぱラウンド2に進みたいという意思表示と受け取っていいんですね。そこに直りなさい」

「痛いことされるから絶対やだよー! というかこれに関してはふざけてるわけでもなく、結構本気で心配してるんだからねー。ほら実際さ……」

 そう言いながら友人は少女が着ている制服を捲り上げて、一見するとすべすべしていて、かわいらしいおへそが素敵なお腹を露わにし、それに両手を触れると

「こうやって摘まめるぐらいにはぷにぷにしてるわけだしー」

 親指と人差し指で少女のお腹を寄せ上げた。

「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!?!??!!?!!」

 目の前の友人が突然しでかした許されざる蛮行に、少女は声にならない悲鳴を上げ、刹那の間思考が完全に停止。そして数秒後に思考が戻った瞬間、止まっていた分を取り戻すかのように脳が回転する。そして様々なことを考えた結果として出た結論は

"こいつはもう生かしてはおけない"

 目の前にいる人型の害獣は乙女の尊厳を踏みにじった。人のお腹を触って摘まんであまつさえぷにぷに等と言う暴言を吐いたのだ。これは少女尊厳保護条約第四条に違反する大罪であり、破れば極刑は決して免れない。

「ふ……ふふふ……。怒った。もう私すっごく怒りました……」

 ぶつぶつと、蚊の鳴くような、かすれた声で呟く。その目には薄らと涙が溜まり、顔は怒りで紅潮し、口には攻撃性を感じる笑みが浮かんでいた。

(あ、やばい)

 少女の表情を見て明らかに超えてはいけない一線を越えてしまったと友人は感じた。ここまで来てしまえばするべきことは一つしかない。

「ご…ごめんね……? 流石に私やりすぎたね……」

 純粋な謝罪。正直な話このまま自己保身に振り切って逃げようとも一瞬考えたが、流石にここまでしておいてそれをするのは色々と失ってはいけないものを失いそうだと思ったのだ。

「……せん」

 生気を感じない声で、何かを呟き、再び鞄の中に手を入れ

「許しません」

 そこから先程しまったハンドガンを取り出すとそれを目の前にいる敵の頭部に向かって突きつけ

「絶っっっっっ対に許しません!」

 容赦なく接射した。

「痛っっっっっっっっったああああああああ!!」

 銃弾、熱風、衝撃波、燃え損なった火薬。銃から射出される様々なものを頭に受け、友人は悲鳴を上げて、その場で悶絶した。

「落ち着こ? 一旦落ち着こ? ごめんね? 流石にお腹摘まむのはやりすぎだったね? ごめんなさいごめんなさい! 何でも言うこと聞くから許して下さい!」

 おでこを抑えて懇願するが、少女には届かない。今の少女には目の前にいる友人は害獣にしか見えていない。右手に握られたハンドガンを構えたまま、左手で再び標的の手を掴み拘束しようと近づいたところで

「ごめんなさああああああい!」

 友人は素早くその場から立ち上がり、少女に背を向けて逃げ出したのだった。



 そしてその後、友人を追いかけていたのだがいつの間にか振り切られ

「あんっのノンデリカシー!! 一体どこに隠れやがってくれましたかああああああ!!」

 現在に至るというわけだ。今の彼女の心は普段とは別物と思えるほどにささくれたっている。

「見つけたらぜってぇただでは済まさねえです……。少なくともマガジン1セット分は頭に接射を食らわせてあげます……」

 そんな物騒なことを呟きながら、獲物を探すハンターのような目で、第三者から見ても分かりやすく機嫌を損ねているという雰囲気でどすどすとコンクリートを踏みしめながら歩き続ける。

 しばらく歩いていると十字路に辿り着いた。この周りは住宅に囲まれている為、左右の様子はよく分からない。

(さて、……何処へ行けば……ん?)

 何処へ行けばいいか考えていると、曲がり角に人の手が見えた。どうやらこちらに向かって来ているらしい。今は朝の早い時間。こんな時間に出歩く人なんてそうはいない。それならアレはかなりの確率で今の自分の獲物だろうと彼女は結論づけた。

「見つけましたよぉ……」

 もし別人であれば、ごめんなさいとただ一言謝ればいいだけだ。たしかにそれで間違いはない。キヴォトスにおいては銃撃に巻き込まれる等と言うことは何の事件性もない日常の一部なのだ。現に彼女だって何もしなくても週に五回以上は流れ弾に巻き込まれている。それだけのことでいちいち怒っていてはここではやっていけないのだ。

 だから彼女は姿を現わした瞬間にその人を躊躇無く撃った。何も考えず、ただ標的に対して"見つけたぞ"とでも伝えるように腹部を撃ち抜いた。きっとこれが標的であれば次に起こす行動はきっと、驚いてすぐさま逃げに徹しようとするというものだろう。それなら直ぐ捕まえてしまえばいい。標的でないなら、こちらを睨み付けてくるかもしれない。それならすぐに謝ればいい。謝らなければ銃撃戦になるのは回避出来ないだろうが、謝ってる相手にわざわざ喧嘩を吹っかけてくるような人はそうはいないのだ。と、彼女はそんな風に軽く考えていた。






「……え?」






 だが、実際に目の前で起こった事象は、どちらでもなかった。そこにあったのはキヴォトスでは絶対にあり得ない"腹部に銃撃を受けた少年が傷口から大量の血を流しながら呻き声を上げてうずくまっている"光景だった。

「う…そ…」

現実離れした光景に、少女の頭の中が真っ白になる。なんで、どうして、こんなつもりなかったのに。

「う……あ……」

目の前に広がる光景。鼻を突くなまぐさい臭気。少しずつ生気を失っていく少年の瞳。それらの刺激が喉の奥に苦い何かを込み上げさせる。

「ヴォ…ア……オ゙オ゙オ゙エ゙エ゙エ゙エ゙ェェェェ……グフッ…ケホッ…」

必死に手で口元を押さえていたが意味を為さず、直ぐに決壊し、消化がされきっていない僅かに原形を残した昨日の夕食を全て外に吐き出してしまった。不快感と共に咳が出るがそれでも吐き気は依然として治まる様子は無い

「…どうして…私…そんなつもり…」

原因を探るように少年を見ると、頭上に浮かんでいるはずの"ヘイロー"が存在しなかった。まだ意識は残っているにも関わらずだ。それなら、答えは一つ。彼はきっと最近やってきたという"先生"と呼ばれる存在と同じく、キヴォトスの外の存在なんだろう。 聞いたことがある。外の人達は自分達と違ってすごく脆いのだと、それこそ銃弾一発が致命傷になりえる程に脆いのだと。

「いや…だめ…しんじゃう…このひと…しんじゃう…」

このままでは自分は人殺しという、キヴォトスでも決して許されない大罪を背負うことになってしまう。という浅はかな保身が一瞬脳裏によぎった。この期に及んで、目の前の少年への心配ではなく保身が真っ先に浮かんだ自分の醜悪さに嫌悪感が激しく募る。最低、最悪、気持ち悪い。頭の中に自分をひたすら責め続ける言葉が思い浮かぶ。

「たすけなきゃ…たすけなきゃ…」

どうにかしなきゃいけないのに、どうにかしなきゃいけないのに、どうしたらいいのか分からない。どうすれば自分が手に掛けてしまった少年を救えるのかが分からない。……きっと彼女がいつも通り冷静な状態でいられたなら自分の持っている携帯で助けを求めるという選択がとれたのだろう。だが、今の彼女にはそれが出来ない。焦燥が、罪悪感が、自己嫌悪が、彼女という存在を塗りつぶし

「いや…いや…いやあああああああああああああああ!!!」

今の彼女には悲鳴を上げることしか出来なかった。




SideB

(ははは……。そりゃあ…そうだよなぁ……)

視界が歪む。腹が熱い。なのに寒くて全身が震える。口から液体が流れているような気がするが、これが涎なのか血なのかさえも、もう分からない。

(異世界に飛ばされて軽率な行動すりゃこうなるに決まってる)

きっと、これは報いなのだろう。混乱して、正気ではなかったとはいえ、ハーレムを作ろうだの、毎日エロいことをして過ごそうだのと、少女達を人としてではなくトロフィーか何かのように、道具のように扱おうとした愚か者への天罰だったのかもしれない。

(そっかぁ。俺にはヘイローは生えてこなかったかぁ。確認ぐらいすればよかったなぁ……)

現実はいつだって厳しい。これが物語であれば、きっと何かしらのチート能力が与えられていて、転移先の世界で大活躍なんてことも出来ていたのかもしれない。だけどやっぱり平和な日本で暮らしていただけの男子高校生には、そんな力はなかったのだ。

(この子。ずいぶん酷い顔になってるなぁ。でも当然か。こんなことになるなんて思ってなかっただろうし。これじゃせっかくのかわいい顔が台無しだ……)

目の前にいる少女が何を言っているのかすら聞き取ることが出来ない。それでもきっと自分をどうにかしようとしてくれているということは分かった。

(せめて…この子が俺のせいでくるしまなきゃいいんだが……)

だから少年は願った。目の前の心優しい少女が、ちゃんと幸せになれることを。

(はは…なんか…すごく…ねむ…い…なぁ……)

少年の意識は深く冷たい闇の中に消えていった。

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