利用していただけだ。

利用していただけだ。

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「有馬…付き合ってほしい」

「いいわよ。どこ行くの」

「…え?」

「は?…はぁ!?なんでそんなに動揺してるのよ」

「動揺してねーし!卵の特売に付き合って欲しかっただけだし!最近高いし!!」

「めっちゃ早口になるじゃない。どうせ告白と勘違いさせてからかうつもりだったんでしょ。その手には乗らないんだから」

「ふーん。普段からそういうシチュエーションのシミュレーションをしてるって訳か」

「うるさいわね!さっさと行くわよ!卵買うんでしょ」

「待て。大根も買う」


***


大根二本とその他諸々の食材はさすがに重いがそんな事はどうでも良かった。

隣には赤い袋を提げた有馬がいる。


本当は荷物なんか持たせたくなかった。

しかし「割れちゃうかもしれないわよ」という有馬の言葉に、軽くて壊れやすいそれを預けた。

袋の中でプラスチックのパックが時おり軋んだ音を立てていた。


落ち葉を踏む足音が二重奏を奏でる。

道路脇のイチョウ並木を時おり冷たい風が吹き抜ける。

やっぱり卵と大根を買ってきて良かった。我が家伝統の肉おでんはB小町のレッスンが終わる頃にちょうど出来上がる算段だ。

「だからさ、食べていけよ」

「そうねえ。ありがたいけど太りそう。煮物って意外とカロリーが高いのよ」

「すね肉を昼から煮込んでるから実質カロリーゼロだろ」

「悪魔の誘惑じゃない。・・・時間よ止まれって言ったらファウストに魂を奪われるのよね」

「メフィストフェレスな」


有馬の艶やかな髪の後ろ側で山吹色の光の帯が揺れていた。


この道がずっと続けばいいのに。


「有馬、このあとルビーが戻るまで時間あるだろ。大根の面取り手伝ってくんね?」

「めんとり」

「輪切りならまだマシだけどさ、半月切りやイチョウ切りだと更に面倒じゃん?もし有馬が手伝ってくれるなら」

「くれるなら?」

「味噌味か醤油味か決める権利を授ける」

「地域紛争の火種を持ち込むな。・・・いいわよ、あーくんの好きな方で」

有馬は大仰に首を振ってみせた。

「面取りなんて家庭科の教科書にしか存在しない概念だと思ってたわ」


風が吹く。背中にはらはらと金色が降る。有馬は足を止めた。


「あんた達を見てると真っ当に育った子なんだって思う」

黄金色の葉っぱが散り散りに舞っていった。

「有馬?」


ゆっくりと振り返ると、

こちらに一歩近付いて

有馬かなは

「あーくん、付き合ってくれる?」

と言った。


上気した頬。長い睫毛に縁取られた大きな目がこちらを見上げていた。


「・・・・・・・・・いいけど。どこに行くんだ?」

心の中で舌打ちする。明らかに間が空いた。

有馬は困ったような悲しいようなそんな顔で呟いた。


「あのね、少しだけ私の昔話を聞いてくれる?」


「本当はね、普段からしてたの。付き合ってって言われた時のシミュレーション」

息が上がっていた。

小柄な有馬がずっと自分の前を歩いていたことに初めて気付いた。


***


つが付くまでは膝のうえ、って知っている?子どもの年ってひとつ、ふたつって数えるでしょう。九つまでは子ども、十になったら子ども扱いは終わり。でも私が十一をとっくに超えたその日も、お母さんは「天才子役有馬かな」を売り込むためにテレビ局に向かったの。

本番前特有の慌ただしい空気が好きだった。でもその時は誰にも会いたくなくて自動販売機の先の奥まったソファーに腰掛けていた。忙しく動き回るスタッフの声やせわしないディレクターの指示や、私じゃない誰かのために動き回る人の声が遠くに聞こえた。私の立つ場所はもうそこには無いんだって心底思い知ったわ。


かなちゃん、と声を掛けられたのはそんな時で、見上げると以前バラエティー番組で一緒だったディレクターが立っていた。お久しぶりです、とあいさつすると相手は「もうディレクターじゃないんだよな」と言いながら隣にぴったり座って名刺を取り出したの。


「キャスティングプロデューサー」

「毎日毎日美女やイケメンの品定めをしてるんだ。もちろん若い子たちも赤ん坊から高校生まで飽きるほど見てる。でもね、かなちゃんみたいに才能があってかわいい子はいないんだ。だからさ」

コーヒーとタバコの匂いが鼻先をかすめた。男は私の肩に腕を回すと


「かなちゃん付き合って」


と囁いた。


何も言えずに固まった私を見て、男は愉快そうに笑った。

「そこの自販機まで付き合って。ジュースをおごってあげるよ・・・真面目だねえ。勘違いしちゃった?」

ちらついた蛍光灯も底冷えする廊下も堅いソファーの感触も鮮明に覚えているのに、どうやって逃げたのかは思い出せない。気付いた時には階段の踊り場のすみっこで蹲って泣いていた。

あの人にとってはささいな軽いジョークだったんだろう。でも中学生にもならない女の子にとってはそれはそれは恐ろしい言葉だった。

それ以上に付き合うことのメリットを即座に計算し始めた自分が恐ろしかった。

今になって思うの。星野アクアや・・・黒川あかねだったらそんな計算なんかしないって。デメリットを考えるまでもなく断るって。私と違って・・・枕営業なんて選択肢を思い浮かべることさえ絶対にしないって。


***


夕日はいつの間にかビルの向こうに沈み、辺りは藍色に染まりつつあった。

「ごめんね、あーくん。いじわるしちゃった。重いもの、持たせちゃって。」

顔を見ることはできなかった。

「あれはよくある軽い冗談で、あの人はもう次の日にはもう忘れてて、でも私はあの時必死にどうすればいいか考えて考えて考えて。不公平よね。その日からずっとシミュレーションしてきた。その手のセクハラじみた冗談を、相手が無邪気に切り付けてくる刃を軽くいなす方法を。これはもう呪いよね」

風が強く吹いて足元の落ち葉を運んでいく。


「でもね、アクアがさっき呪いをただの冗談にしてくれたのよ」


思いがけない言葉に向き直ると、有馬は微笑んで俺の手を取った。冷たい指先が触れて絡まる。


「アクアだから。私なんかと違って、誰にでも打算や損得勘定無しに接してくれる人だって知ってるから。「付き合って」はもう友達同士の他愛無い冗談になったの。私は心のすみっこで泣いていた女の子にさようならが言えるの」

有馬は俺の胸に体を預けると低い声で呟いた。

「だからそんな顔しないで」


空にはいつのまにか一番星が光っていた。


胸元に感じるあたたかでやわらかな感触とは裏腹に、心臓の奥が冷たくなる。

違うんだ有馬。俺は誰かの心を照らせるような人間じゃない。誰かを幸せにできる人間じゃない。

どうして少しでも長く一緒にいたいなどと考えてしまったんだろう。

俺はお前を、有馬かなを地獄に落とすのに。

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