冴潔スレ一週目書き起こし
冴潔感想スレの49鳴り止まぬ歓声は、いつもならさしたる躊躇もなく背を向けるもの。けれど今の俺に……いや俺たちにとっては始まりを告げる祝福だ。
満天の星空の下、ピッチに座り込む潔へと歩み寄る。俺のMF。俺が世界一のストライカーになるために欠けていた、最後のピース。ただ夢中になってボールをゴールへ蹴り込む、久しぶりの感覚がたまらなかった。世界の壁にぶつかって粉々になったはずの自分のゴールへの執着は、試合が終わってもまだ俺の中で強く息づいている。
まだ勝利の自覚がないのか、ぼうっと得点の表示された大型パネルを見上げる潔を見下ろす。その幼いころから変わらぬ大きな青い瞳の前に手を差し出した。
「指出せ。約束しろ」
あの時は、もっとこの手は小さくて、ずっとずっとこのままふたりでサッカーを続けたくても、夕暮れに迎えがくればそこでおしまいだった。けれど、もう俺たちを引き離すものはない。夕日がとうに落ちて、星々が瞬くまで、いや朝日が昇っても共にある。
「俺と一緒にサッカーしろ」
昔、潔に出会った時に告げた言葉。記憶をかすめる「ぜったいやくそくだよ」と今より高い声で返ってきた応えに、遠くで「……うん」と誰かの声が重なった気がした。視界の端にいる弟がどんな顔をしているかも知らずに、潔の答えを待つ。
潔は、すぅ、と息をのんで、呟いた。
「ずっと覚えててくれたんだ。世界に羽ばたいても、ずっと」
ゆっくりと、あの頃より骨ばった小指がさしだされる。俺はまた、右手の小指をそれに絡めた。
歓声はもはやただの音の雨で、仮初めのチームメイトも弟も、青い監獄の連中もただのエキストラでしかない。俺たちこそが、この世界の主役なのだ。
これは叶うための約束。幼い誓いは、今から永遠になる。
戦勝会などというだるいものに参加するつもりもなく、ホテルに戻った。もちろん、傍らには潔を連れて。マネージャーも追い出して、部屋にはふたりきりだ。勝利の余韻か、取り戻したエゴか、近頃にはないほどに心が浮き立っている。……潔は、なされるがままにぽすりとベッドに腰掛けていた。まだ現実感がないのか、その青い瞳はどこか虚ろに彷徨っていて、ぼんやりと壁を見つめている。
俺は隣に座った。スプリングの軋む音とともに沈んだ分、潔の体が揺れて俺の方へと傾く。ベッドについた右手に、潔の左手が触れる。普段、不快なはずの他人の体温が、潔相手となると「良い」と感じるのは不思議だ。それでやっと気づいたように、潔がこちらを向いた。
視線を合わせるように俺も隣を向く。こぼれ落ちそうな青い輝きが、目の前にあった。それをもっと近くで見たくて、顔を寄せる。前髪が揺れて、額がコツリとぶつかった。……足りない。もっと近づきたい。衝動に突き動かされるまま、触れていただけの手を、重ねた。手の大きさにさほど差はない。少し焼けた滑らかな手の甲、すんなりと伸びた指、固い爪は淡いピンク色。触れるごとに、やわい指と小さな爪の記憶が塗り替えられる。指で筋を辿るように撫で、水かきをいたずらにスリスリと擦ると痺れたように指先がぴくっと跳ねた。潔の堪えかねたような吐息が柔らかそうな唇から漏れて、悩ましく部屋の空気を揺らす。逃げるように翻したその手を追って、指と指とを絡めた。
「俺と一緒に世界一になろうな」
「うん」、と返ってくることを疑わずに告げた言葉に返事がない。まだ不安なのだろうか。約束を守って潔に会いに来た時、ふたりでボールを追ううちに目の前が開けて、ゴールに向かう道筋が整然とそこにあった。お前となら、俺は世界一のストライカーになれると、俺にははっきりわかったのに。高揚した気持ちを抱えて、じっと黙ったままの潔と見つめあう。
潔の視線はゆらゆらと不安定に揺らいでいた。ぱちぱちとその目が瞬くたびに明るく、暗く、色を変えては少しずつ潤んでいく。ついに溢れた涙が頬を滑り落ちるのを見ずに、俺は指を絡めたままの右手を引いた。抱き寄せた潔の背中に左手をまわす。
「大丈夫。俺がいるだろ」
そう言われ一瞬震えて強張った体は、けれど逃げ出さずに俺の腕の中にある。なだめるようにその背を撫でた。俺がいて、潔がいて、俺たちにはサッカーがある。なにも不安に思うことなんてない、と。
カチャ、カチャと、俺たちのピースがかみ合っていく。
「約束だからな。ずっと昔からの」
赤く染まった耳元で囁く。また潔の体が震えた。俺の姿は、他人からは獲物をいたぶる獣のように見えるかもしれない。じわじわと追い詰めているような感覚は、確かにある。けれど、もう止まれない。共に手に入れた勝利への熱が、今もなお俺を駆り立てている。どくどくと体中を血液が駆け巡り、昂りが治まらない。潔を離したくないと、心の深いところでなにかが吠えた。
腕の中で、潔の呼吸が震え、乱れていく。それでも離さないでいると、ゆっくりと潔の体の力が抜けていった。
耳元から顔を離すと、潔がうつむく。表情は見えずとも、額を合わせたときにほつれた前髪から、その下の肌がうす赤く染まっているのは見えた。ドクリと鼓動がひとつ大きく跳ねる。心が揺すぶられて、つい唇を寄せる。……ちゅ、と軽いリップ音がしんとした室内に鳴った。思わぬ可愛らしい音につい口元を歪めると、潔が顔を上げた。
言葉はなかった。頬も耳も赤く染めた状態で、何もかも差し出すように目を瞑って、ただ顔を上げただけだ。ただその薄く開いた唇から覗く舌の赤さが、俺の目に焼き付く。
欲しい。完全に自覚した。俺は「潔世一」のすべてが欲しい。
ピッチから出ても身のうちで渦巻く熱は、勝利の余韻でも、取り戻したゴールを求めるエゴでもなかった。潔を離したくないと吠えたのは、ストライカーとしてのエゴの炎ではなく、もっと大きな欲望を抱えた獣だったのだ。
そう。俺が潔に望むのは、世界一になるためのパサーの役割だけではない。
幼き日の出会い。潔が、またね、と大きく手を振っていたのを思い出す。最初はあんなに不安気に泣いていたのに、最後には再会の約束を握りしめて笑っていた。
記憶の片隅に追いやっても会いに来るほど、遠い約束を後生大事に覚えていたのも、あの日のサッカーが楽しくて、それを俺たちの永遠にしたかったからだ。
潔の、笑顔も、涙も、冴を呼ぶ声も、楽しげにサッカーボールを追いかける姿も、全部を。……全部を?
はた、と気づく。幼い頃の潔は、どんなサッカーをしていたのだったか。俺を振り返って笑いかけた潔は、その振り抜いた足で何をしたのだったか。潔の、サッカーは。
(…俺は、何を、壊した?)
カチャン、と壊れた音がした。「さえおにーちゃん」と呼ぶ声が、遠ざかる。大切な思い出が、交わした約束が、跡形もなく砕け散った。残ったのは。
「冴」
のろのろと、視線を向けた。潔の、微かに震えて媚びるような声色。そんな声が聴きたかったんじゃない。
ああ、潔の青い瞳は、こんなにも曇った色だっただろうか。
そこにいたのは、紛れもなく潔で、だからこれは、俺が壊した潔だった。
幼き日の面影は搔き消え、俺が望んだ俺の潔が俺を呼ぶ。俺が世界一のストライカーになるための、完璧なMF。俺がそう望み、俺が壊して作り替えた人形。もう、潔があの日の笑顔を浮かべることはきっとない。
涙は出ない。ただ、ずぶずぶと暗く濁った場所に沈むような心地がした。自分がしたことのくせにと己をなじる同時に、この潔には俺しかいないのだと思うと腹の底の獣が喜びに喉を鳴らした。
……いっそ、嫌がってくれたら。
トン、と潔の肩を押した。抵抗もなく、その体は俺のなすがままに倒れる。そのまま、ベッドの上に横たわる潔に覆いかぶさった。動いたせいで波打ったシーツに、黒髪が広がる。
潔は……。
…………潔は、俺に微笑みかけた。何もかも、差し出すように。
その瞳に映る俺もまた、微笑みを浮かべていた。
カチャン、と砕けた音がした。