六花のお屋敷の使用人になった日

六花のお屋敷の使用人になった日


「どうぞ、お入りなさい」

 涼しげな声に招かれて部屋に入ると、柔らかい空気がひやりと肌を撫でた。雪の結晶の意匠をあしらった椅子やテーブル、薄氷が覆う川のように儚く煌めくカーテン、快晴の夜の月をそのまま連れてきたかのような優しい照明が出迎える。

「私はティアドロップ。六花の里の代表みたいなものとでも思ってくれればいいわ。今日からよろしくお願いするわね」

「よ、よろしくお願いいたします……」

 部屋の奥に座っている女性に頭を下げる。彼女が私の新しい主人となるお方だ。煌びやかなドレスを身に纏い、瞳は青く澄んでいて、しかしどこか寂寞の感を漂わせている。白百合の麗人とも形容すべきこの女性は見事にこの部屋の空気に馴染んでおり、よそ者である私がこの空間に佇んでいる不自然さをいっそう強調させているように思えた。

「さぞかし疲れたでしょう。話したいことは色々あるわ。とりあえず、あなたも座りなさい」

「失礼します」

 私が椅子に手を触れて腰掛けようとすると、磨かれた氷が息を吹きかけるかと錯覚するほどの鋭い光が瞳孔を刺した。

「こんなところまでよく来てくれたわね。とてもありがたいけれど、よろしければどうして来てくれたのかを話してくれるかしら」

「ええと……」

 特に後ろめたいこともあるはずがないのだが、余計な緊迫が鼓動をはやらせ、紡がれる言葉はその反動で弛み滞留する。私は喉に凝り固まった重苦しい緊張の種を飲み込みながら、話を続けた。

 ――事の発端は三か月ほど前に遡る。学校を出てからもしばらく働き先が見つからなかった私は、貧しさゆえに冬の寒さに打ちのめされながら何とかこのか細い生を保っているのが精一杯だった。あと一年も持ちこたえられるかどうかもわからないほど精神的にも困窮していた私に助け舟を出してくれたのは、旧来の友人であった。彼は情報通で、私に様々な仕事を紹介してくれた。そのうちのひとつが、この六花の里の洋館で使用人として住み込みで働くというものであった。六花の里は山の中腹……というよりもやや麓に近い場所にありながら、秘境、悪く言えば曰くつきと噂される場所で、当然ながら彼が紹介してくれた仕事も法的な意味での契約を含んだものではないのだろう。一年中雪が降り続ける永遠の冬の檻に閉ざされた地。しかし私はその神秘性に魅了され、他の求人にはまるで見向きもせずにここに足を運ぶことになった。友人がそんな情報をどこから持ってきたのかは後で考えてみれば非常に奇怪なことだったが、もはや私にとっては些末なことだ。

 私が話している間、彼女は軽く頷きながら静かに聞いていた。深く反応を示すことはないが、確かに私の話を聞いてくれているという感触があった。

「……そうね。概ねわかったわ、ありがとう」

 彼女はそう言って立ち上がり、私の隣に歩み寄る。

「これから屋敷の中を案内したいのだけれど、よろしいかしら」

「はい、お願いします」

「疲れていたら明日でもいいのよ。遠慮はしないでね」

「いえ、今日で構いません」

 ふわりとした気遣いに手を引かれながら、私たちは部屋を出る。廊下を歩いている間も、彼女の後ろにいると冷気が漂ってくる。こうして並んでみると、私のほうがわずかに背が低い。

「他の子たちにはもう会った?」

「ここまで案内してくださった方に、一人だけ……。たいへん親切にしていただきました」

 窓の外を見ると、雪が太陽の光を反射してとても眩しい。外の世界は既に春を迎えてしばらく経つというのに、この山はずっと冬なのだ。外界から隔離された雪原に、淑やかながらも立派な洋館が鎮座し、そこに人が暮らしている。そのアンバランスさが私の心を引きつける。この廊下も進んでいけば突き当たるように、本当は不思議なことなど何もないのかもしれないが、単に私が知らないことがあるだけで……。

「ここまでの部屋は全部六花たちが住む部屋ね。それで、さっきのはみんなで集まってお話をするところ。この廊下の突き当たりがシャワー室よ」

 家具やインテリアの華麗さに比べて建物の構造自体は極めて簡素なものだった。入り組んでいるわけでもなく、上階のスペースも狭く、無駄のない造りだ。

「次はあっちね」

 進んできた廊下を引き返す。広い玄関のすぐ正面に先ほどの会議室があり、反対側の短い廊下にも少数ながら個室がある。

「ここがあなたの部屋よ。寝るときはここ」

「……あの、私の他にも召使いがいるんでしょうか」

 私のために空けられているこの部屋は、やや無機質に見えた。以前まで住んでいた廃屋と変わりもしない借り部屋に比べれば数段もマシであることに違いはないのだが。

「……いいえ、少し前にはいたけれど、もうやめてしまったの。あなたと入れ違いね」

「そうですか……」

 彼女の表情は見えなかったが、声色はわずかに沈んでいた。この短いほうの廊下の他の数部屋は全て空き部屋ということになるのだろうか。

「小さいけれど、突き当たりに調理場があるから、そこは自由に使ってちょうだい。私たちは食事を必要としないから」

 こぢんまりとした調理場には包丁や鍋など主要な器具が一式揃っており、決して使い古されたものではないが、明らかに人間の手で扱われた形跡がある。それよりも、私は彼女の言葉が気になった。雰囲気や気配から薄々感づいてはいたが、六花の里の住人は普通の人間ではないのだろう。

「一階はこんなものね。上の階には私の部屋があるわ。それで、あなたの仕事の大半はお屋敷内の掃除ね。下の階の子たちの部屋は自分でやらせるから問題はないけれど。あと、朝起きたら私の部屋に来て。掃除以外の仕事を任せるときはそこで伝えるから」

「わかりました」

「二階も一応案内しておくわ。三部屋しかないけれど」

 玄関ホールの脇にある階段を昇ると、一階の個室よりも広い間隔で扉が三つ並んでいた。豪勢な装飾があるわけでもなく、かといって地味でもない、淡い青を基調とした静淑な印象。建物内はほとんど無音で、響く靴音が耳に心地良い。

「真ん中が私の部屋だから、朝はここを訪ねてちょうだい。まあそれくらいかしら」

「ご案内していただきありがとうございます」

「いいえ。詳しいことは明日またお話するわ。それから、みんなにも紹介してあげましょう。今日はもう部屋で休んでいていいわよ」

「それではまた明日、よろしくお願いします、ティアドロップ様」

 彼女は、よろしくね、とだけ言って、自室へ入っていった。ふわりと舞う髪の香りが春の雪解けを思わせて、微かに切ない。私は先ほど昇ってきたはずの階段を一段一段ゆっくりと踏みながら、一度も笑わなかった我が主人に思いを馳せた。階段を降りきったころには既に窓の外は橙色になっていて、それを見てどうしたことか、これまでの旅の疲労が一気に押し寄せてきた。玄関に置いたままにしておいた自分の荷物を拾い上げ、自身の部屋へと向かう。さっきまで寒さを紛らわせていた緊張がほどけて、冷たい空気が露出した肌に突き刺さる。もうじき誰か帰ってくるのだろうか。この洋館の住人は皆家族のように暮らしているのか、あるいは本当の意味での家族なのか……。息を吐けば白い。ドアノブに手をかけて四秒ほど目を閉じ、次々と浮かんでは流されていく疑問を河口に積んでおき、そっと右手を押した。室内には寝具も揃っており十分な広さもある。何でもない人間ひとりが生活するには不足ない。きちんと電気式の暖房器具まで設置してあり、不自由はなさそうだ。スイッチを入れるとほのかに暖かくなった。機能はするようだ。電気がどこから通ってきているのかは全く見当がつかないが。

 ベッドに横になればすぐ眠ってしまうかと思っていたが、気になることが多くて案外起きていられた。いつの間にか外はすっかり暗くなっており、ドアの向こうからは賑やかな話し声が聞こえる。洋館の住人のほとんどは帰宅なされただろうか。もしかしたら、今日中に挨拶に伺ったほうがいいのか。でもティアドロップ様には明日紹介すると言われたし……。結局、知らない人間が主人の断りもなしにいきなり押しかけても迷惑だろうと思って、自分のテリトリーでおとなしくしていることにした。許されているのはこの部屋と、廊下の突き当たりのキッチンだ。とりあえずお腹も空いたことだし、人間用の食材があるかどうか見に行こうと起き上がり、再びドアを開けた。

「あら……。あの、新しい使用人の方?」

 扉のちょうど正面に、白い服を着た女性がいた。長い髪を頭の横で結んでいて、表情は柔らかい。

「はい。挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。本日からティアドロップ様に仕えさせていただくことになりました」

「よろしくね。調理場の木箱にお野菜詰めておいたから、よければ食べてね」

「ありがとうございます。……本来私の仕事ですよね、すみません」

「気にしなくていいの。今日来たばかりでしょ? 困ったことがあったら何でも言ってね」

 彼女ははにかんで、滑らかに踵を戻した。気をつかわせてしまったことを恥じながら、どうせならと思い私は彼女を呼び止めた。

「ひとつお聞きしたいことがあるのですが。失礼かもしれませんが……」

「はい?」

「私はほとんど何も知らずにここへ参りました。この地域のことも、あなた方のことも……。お気に障るようでしたら申し訳ありませんが、よろしければ教えていただけないでしょうか」

 一度返した両足を揺り戻し、まとめられた長髪が左右に振れる。

「私たちは雪の花の精。この一冬の間だけを生き、やがて春が来れば人知れず消えてしまう……。ティア様が仰るには、六花の精はそういう存在みたい。それ以上のことは私たちも知らないの。この里にいつ春が来るとか、どうやって生まれたのか、そういうことも」

「そうですか……」

「だから、別に気にすることではないのかも」

 彼女は振り返ってまた微笑んだ。私は軽く頭を下げて見送る。するとすぐ寂しさに包まれて、冷えた空気が廊下を廻り出す。一度キッチンに立ち寄って食材を確認してから、どういうわけか変に満ち足りてしまったので、私は何もせずに自室へ帰ることにした。暖房器具のおかげでほんのり暖かく、窓は結露していた。荷物を整理する気にもなれず、ベッドに腰かけて旅の途中で購入した地図をなんとなく開いてみた。離れたところにある町の道は詳細に描かれていて、見ただけで直感的に理解できる。山間部は道自体はあるようだが、これが正しいのかはわからず曖昧だ。自分が歩いてきたはずの道程もこの地図ではよく判別できない。どうも夢うつつの狭間で右往左往するみたいに思考が空転するので、私は開いたままの地図を机に置いて照明を落とした。

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