先生として
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気づいた時には、全てが手遅れだった。
ゲヘナは重要な臓腑をいくつも抜き取られ、静かに血を吐くばかり。
トリニティは権威も正義もぐずぐずに腐って、甘い夢の中に堕ちている。
ミレニアムは冷静さと愛嬌を失い、憎悪と殺意で空気が張り詰めていた。
殆どの学校も似たようなもので、生徒たちは白い夢に溶けるものと、黒い憎しみに燃えるものに二分されていた。
その中で、アビドスは。
”クソッ…!”
そんな言葉が思わず口をついてでていた。
苛立っている。不甲斐ない。やるせない。
今はシャーレで眠っている彼女のやせこけた頬、ボロボロになった爪、虚ろな瞳、困惑していて絶望していて、そして何よりすがりつくような目線。全てが脳裏から離れない。
『何もわからない…でも、先生。』
『先輩を助けて。』
そう言って、ぼそりぼそりと変わってしまった先輩のことをシロコは話してくれた。
様子を語られる度に一つずつ、一つずつ、自分の中で最悪のパズルが組み上がっていった。
そして、彼女が話し終わった時、じっとりと背中に伝っていた嫌な脂汗の感覚を覚えている。
その後、まるで狙っていたようにノアから連絡が来て。ミレニアムへと赴き。
事態はとっくの昔に最悪だったことを愚かにも、ようやく理解した。
頭を冷やしたくて、自分は今、外にいた。
気づいた時には空っぽになっていた子ウサギ公園のベンチに一人で座り込む。
歩いてくるなかで、よくよく注意してみれば、外の生徒たちの様子も変化しているように思えてしまった。
異様なテンションで群れている子達。
普段が嘘のように和やかに談笑している不良達。
かと思えば今にも殺しあいを始めそうなほどにらみあっている子達もいる。
数時間前に目に入っていた光景と何ら変わりはないのに、まるで世界そのものが書き変わってしまったかのように薄ら寒く、恐ろしいものに見えた。
震える指でモモトークをゆっくりと追いかける。
いつからだ?
対策委員会との連絡が少なくなっていたのは。
ヒナが最近随分と機嫌が良さそうで、自分に会いに来なくなったのは。
ミカがやけに満足そうで、先生が来なくてももう大丈夫かもと言い出したのは。
ユウカが上機嫌なときとイラついている時の差が大きかったのは。
いろんな子達が妙にスイーツを食べに行くことを誘い出したのは。
違和感に気づかず呑気に自分が過ごしていたのはいつからだ…!!
"……。"
一人の名前が、目に止まった。
『「色々」と嗜むタイプです♪』
彼女と出会った時のことを思い出して。
電話があったことを、ようやっと思い出した。
"っあ"あ"あ"あ"あ"……!!"
思わず頭を抱えて搔きむしる。
なんであの時、アビドスに行かなかった。
相談してたじゃないか。
協力しようと思ってたじゃないか。
彼女に『店舗さんといい関係を気づけたんだ〜。大丈夫だよ~。』と言われて、委員会の子達とだんだん連絡がつかなくなって。
スイーツ店の羽振りがよくなって忙しいのかななんて勝手に思って。
あの時、あの時、自分が、自分は、自分のせいで…!
ガリッ
爪先に滑りがまとわりつく。強く引っ掻きすぎたらしい。
たらりと細く頭を伝う生温いその感触が、ひどく不愉快だった。
「あのう、先生。大丈夫ですか?」
"君は…。"
降りかかる声に目線をあげて、そこに彼女がいるのを見た。
その生徒は、決して目立つような生徒ではなかった。
それなりに勉強したりサボったり、友達と遊ぶのが楽しい。
どこにでもいる、一人の生徒。
自分は先生だから当然彼女のことは知っていたし、何度か他愛ない話をして、彼女がクスクスと楽しそうに笑ったことも覚えていた。
こうやって知り合いが苦悩しているときに、心配してくれる優しい子であることも。
「その、先生。あんまり一人でいらっしゃると危ないですよ。最近なんだかみんな怒りっぽいですし…」
"はは、ありがとう。すぐに帰るよ。"
おずおずと、あまり仲が良いわけでもない距離感でも、精一杯気をつかってくれる彼女を見て、顔が上がった。
そうだ。自分は先生なのだ。後悔も失意もあるが…何よりも生徒たちの今を、守らなくてはならないのだから。
「そう、ですね。そうした方がいいと思います…。」
"どうかしたの?まずは先生に言ってみてごらん。"
まずは、目の前にいる彼女と向き合うことにしよう。
何か言いにくそうに口ごもる彼女にそっと優しくうながした。
「そのっ!ご迷惑かもしれないんですけど。」
迷いを言いすかされたことに、ぱっと一瞬驚いて、その後何か意を決したような表情で彼女はカバンに手を突っ込むと。
「良かったらコレ!食べていただけませんか!!」
可愛らしく包装された。
少し形が不揃いで、色も地味で。それでも精一杯作ったのだろう。
とても、とても甘そうな。
クッキーだった。
「最近、お菓子作りにハマってて!」
「そこまで美味しく作れるとは思ってなかったんですけど。」
「でも!あるお砂糖を使いだしてから、すっごく美味しくなったんです!」
「友達もみんなおいしいおいしいって!パクパク食べてくれて!」
「あ、ごめんなさい急に…。」
「で、でも先生、とても落ち込んでいるように見えたので…」
「その、本当によかったら…なんですけど…」
”………ありがとう。シャーレで、ゆっくり食べるよ。”
ぱあっと彼女は顔を輝かせると、自分の手にぎゅっとそれを押し入れる。
「それじゃ、失礼します!」
「お砂糖を買いに。」
「アビドスまで行くので!」
少し顔を赤くして、彼女は行った。
行ってしまった。
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
何かを言おうとして、言葉が出てこなかった。
腕を伸ばそうとして、掴む前にすり抜けていた。
”…はは。”
俯く目線の下にあるのは、不揃いなクッキーたちだ。
きっと美味しいのだろう。
食べる、だなんて言ってしまって。
自分だけはこれを決して食べるわけにはいかないのに。
これを、ゴミ箱に捨てている自分を想像して。
”う””……。”
吐き気がした。
アビドスは止めなくてはならない。
だが、先生として生徒たちを守らなくてはならない。
だが、一瞬、一瞬だけ心が揺らいだ。
『幸福』の定義を、誰かの純粋で尊ぶべき『優しさ』を
破壊し、踏みにじる行為を
許せないと、憎悪の気持ちが混じった。
それは、生徒に対する先生として、持つべき心ではないというのに。
”…ホシノ。”
彼女とのモモトークはある日を境に、断絶したままだ。
彼女は最後にこう残している。
『もしかしたら、なんだけどさ~。』
『砂祭りが、できるかもしれないんだよね~。』
『先生も、絶対来てよね。』
それから先に自分が送った言葉には、何の返信も返ってこない。電話も出ない。
アビドスに直接自分だけで乗り込んで話をするには、危険すぎる場所になってしまった。
”…それでも、行かなくちゃならない。”
憎悪ではなく。ただ先生として。
生徒を叱らなくてはいけない時もある。
”話を、しよう。”
先生は、信じている。
後輩に『先輩を助けて』と言われるキミを。
手に持っていたクッキーをそっとポケットにしまい込み。
立ち上がる。後悔はこれで終わりだ。
生徒たちの今と未来のために、先生にできることを『全て』しよう。
”まずは……”
なにから手をつけようかと思った所で。
ドガーーン!!!!!
”ぶへぇッッ!?!?”
近場から聞こえてきた爆音と衝撃に驚いて座らされてしまった。
本当に近い。それこそ方向がわかるほどに。
確かそっちは彼女が走っていった方向…
「うふふ…ちょっと失敗でしたでしょうか?まあ、生徒たちは追い払ったので被害はゼロですし。」
カツンカツンとヒールの音がする。
「何より、ええ、今のアビドス行きの直通バスだなんて、無期限休業でいいのではなくて?」
先ほどまでテロリズムに手を染めてきたとは思えない程、優雅に流麗に、腰を抜かしてしまったこちらへと歩いてくる。
「そうは思いませんこと、あなた様?」
災厄の狐が一匹、そこに堂々と立っていた。