兄と妹

兄と妹


 大人になる前に、あまりにも凄惨な光景を目にし、自分の心を、良識を踏み躙らなければならなかった日々はローを致命的に歪めた。


「……ここの王族は?」

「既に市民の手に」

「そうか」

 頷きを返し、ローは豪奢に飾られた玉座から目を逸らした。ここの王族たちもろくなものではなかった。知識は既に搾り取った後。ラミの目に映らず、ローの邪魔にならないのならどうでも良い。

 いつものようにまずは、怪我人の手当からだとローは長い裾を翻して踵を返した。


 絢爛な彫刻が施された柱、荒らされた応接室、メッキと本物の金が入り混じった装飾品。この宮で何があったのか何が行われてきたのかを無言で訴えるものたちを無感動のまま通り過ぎようとして、唐突にローは足を止めた。

 先程までの機械的なまでの規則的な歩みを一変して、少し急くように長い脚を動かす。重く、長い黒衣の裾が落ち着き無くパタパタと翻る。その先に立ち尽くす人影に、なるべく穏やかな響きを残したくて息を吸う。

「ラミ、」

 自分の手から零れ落ちたはずの妹の名前を呼ぶ。ピクリと反応を返した女の目線の先を捉えてローは眉を顰めた。

 壁に不自然にこびりついた血痕。とん、と軽く壁を叩けばなる程、これが報告にあった隠し通路かと納得した。

「ラミ、あまり気にするな」

 逃げ出そうとした王族たちが捕まるか、殺されるかした痕だろう。子供と呼べる王族はいなかったから、この血はただ責務も何も果たすことなく民の血を啜って生きていた大人たちのものだ。優しいラミが心を痛める必要はない。

 そっと、女性にしては固い指先を手袋越しに掴んで『罪なき一般市民』たちのところへ向かう。

「『コラソン』炊き出しと、孤児の把握、怪我人の確認を頼む」

「………」

 頷く気配にそっと、気づかれない程度に嘆息した。とてものこと最高幹部の座にいる相手に命じることではなかったが、孤児の数によっては孤児院の手が回らなくなる。それに、怪我人を看るのに、医学的な心構えの基礎を備えているだけでも随分違うことに変わりはない。人手はいくらあっても困らないのだし、適材適所なだけだと誰にするでもなく言い訳をした。仕方ない。彼は妹に只管甘かった。

「それから、あまりああいった所で立ち竦むな。制圧済みとはいえ、無防備になって言い訳じゃないんだぞ」

 それはそれとして、言うことは言うが。叱る父も母ももうこの世にいない。ならば己が妹を叱るしかないのだとローはよくよく自覚していた。

 唯一残された肉親である妹を慈しむし、その違和感に全力で目を瞑るが――それはそれとして彼女の身の危険にまつわる事ならば叱りもするし怒る。それが愛だと心が罅割れる前の彼は知っていたので。


 とある可能性の世界の話だが。

 ローという人間は、全てを破壊したい衝動に駆られたとしても、生真面目なまでの律儀さを捨てられず、医者を志す者としての良識も投げ出すことの出来ない人の良さが心根に染みついていた。

 本来ならば、生まれた国で海すら出ることもなく善良な医者として生涯を送っただろう。根が善良な上、ヴィランよりもヒーローを好み、与えられたものを返すために命すらかける一途さを持っている。例え、聡さ故に幸福の下にある地獄に何れ気がつこうと、きちんと向き合った上で大切なものを選び、割り切り、背負う強さを持っていた。

 その気性は、後戻りできないほどにその手を血に染めようと健在だった。


 それ故に。ローの振る舞いは、ラミ――政府の、正義の味方にとって不可解なものとなる。ローの一手で、その地を治めていた者達が民達によって排除され、傷つけ、場合によっては命を落とす。だが、その民達を拾い上げ、教育し、よりよい日々を送ることができるようにしているのも、ローなのだ。

 悪意も害意も欠片もなく。ただ医者としてファミリーもそれ以外も平等に診る。顔に浮かぶ笑みは、ラミからすれば不気味で仕方ないけれど、彼らからすれば安心するものらしい。

 無邪気に礼だと、子供から贈られた花が一輪飾られているローの私室で、ラミはそっと唇を噛み締めた。


 ローは、既に全てを壊すことを選んでしまった。人の命を救うはずの手で、人を殺めた。妹愛おしさに今までの道を覆すには、ローの重ねた罪は重く、業は深く、目にした地獄は惨すぎて、決意したものは信念となっている。

 早く全部滅んでしまわないかと、陽射しの中で思う。

 全部壊れて、滅んで、なくなって。そうすれば、大切なものをちゃんと大切にすることを、やり方を思い出せるような気がした。

 ―――本当は、手を放したままでいるべきだったと分かっていたんだ。

 足を一時的にでも止めることができたいつかの未来、小さく泣きごとにもならない本当が洩れた。





蛇足

トラファルガー・ロー

 自分の善性と良識によって、自らの所業に壊れかけている心と精神を削られている難儀な男。とはいえ、今行っていることを止めるという事は彼にとってフレバンスの地獄を仕方のないこととして容認することになるため、止まるつもりも辞めるつもりも毛頭ない。それはそれ、これはこれ。無辜の民が死ぬことに思うところがないわけではないが、望みのために割り切っている。

 ラミという守れなかったはずの唯一が目の前に現れ、その不自然さ、向けられる眼差しからほぼ正解にまで辿り着いているものの、自分から手を離すことが出来ないでいる。手放さないために、その正解から無理やり目を逸らしている。


トラファルガー・ラミ

 優しかったお兄様が無辜の民を巻き込む国家転覆を行っている事実に、お兄様はもう自分の知るお兄様でなく化け物になってしまったのではという思いを抱いている。だが、兄の自分の見る眼差しや、患者を見る手つきにかつての兄の面影を見つけてしまって苦しい。国の元トップなどとは関わりを持たされず、彼女が関わるのは専ら一般市民や弱き者たちである。


王宮

 かなりのクソ。メッキと金の入り混じった宝飾品は、本物が少しづつ持ち出されて売られたあと。

 忠誠を誓う者ももうほとんどいない中、滅ぼされた。


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