元騎手と愛馬
TS転生牝馬
身体が浮いて、芝の上に叩きつけられる。
乗っていた馬は前に倒れ、後ろからは蹄鉄の音。
痛みのない体を動かそうとしてもピクリともしない。
それが最期の記憶で、どうなったのかは知らない。
目が覚めるとまた芝の上にいた。
しかし不自由ながらも身体は動く。どうにかこうにか手足を動かして、四つん這いの体勢を取った。
「譌ゥ騾溽ォ九▲縺溘◇!」
何者かの声が聞こえる。それも複数だ。
辺りを見渡せば人、人、人……牧場なのだろうか。どうして牧場に倒れているのか?行くなら病院ではないのか?疑問を抱えながらも横を見る。隣には丁度仔を産んだらしい牝馬がいた。
なるほど自分は馬であったらしい――と納得できる訳もない。しかも逸物の気配が無いから牝馬だろう。引退後も生きられる可能性が上がったのを朗報と云うべきか、それとも意識的には異種族の仔を宿し産まなければならないのは悲報と云うべきか。苦しみも無く死んだ身で尚死を恐れるのも変な話だが、生きていることには価値がある。
例えば己の愛馬、ペレストロイカに会えるのかもしれないのだから。
ペレストロイカはG1を3勝している。これは種牡馬になっている可能性が高いという意味だ。引退レースの1週後に亡くなってしまったが故に詳しいことは分からないが、計画としてはそうだった。問題はここがどの牧場だか判らず、ペレストロイカの勝ち鞍も全て阪神であるという点だ。
こちらが良血でなく、社台にいるのが1番出会いやすいのだろうか。
一目でも見たい馬がいる。
ペレストロイカは自分にG1勝利をもたらした唯一の馬だからだ。
1着、2着、1着、1着、1着、10着、8着、1着……。
運に恵まれて早速G1ウイナーとなった自分はマイル戦線を連勝していた。騎手となって重賞を勝つより短い期間でG1を獲るというのは中々に複雑な気分だった。馬の競走寿命としては致し方ないのだけれども。
これはペレストロイカに会うためだ。自分は良血でもない。競走成績は阪神専用機の種を付けるにはむしろ優秀すぎるだろう。
しかし引退後は近くの馬房で暮らせるかもしれない。可能性の極めて低い一つの賭けに自分は乗っていた。年に一度の種付けよりいつも会える方が嬉しいのだ。相手が自分を覚えていなくても。
何らかの故障をしたらしい。屈腱炎かもしれない。
引退なら丁度いい。ペレストロイカに会える。
命に関わるものは勘弁してほしい。ペレストロイカに会えなくても生きるつもりではあるのだ。故郷含めて周りの馬たちも悪くないし、鞭を打っていた身としては騎手のことも嫌いになれない。
少し出掛けていた厩務員が帰ってくると、自分の頭を撫でてまた扉を閉めた。結局どうなのかは分からなかった。
数日後、故郷に帰ることになった。蹄鉄を外して久々の芝に寝転がる。知っている種牡馬だろうか。知らない種牡馬だろうか。ペレストロイカが良い。
しばらくしてフケが出る。これも久々の感覚――いや、初めての感覚だった。男性であった意識が牝馬としての本能に寄っていく。仕方ないことは分かっていても、僅かな恐れは残っていた。
種付けの季節になる。牝馬が次々と専用の場所に連れて行かれて、そこから牡馬の啼き声が聞こえてくる。いずれは自分もあそこに行くのだ。
とうとうその日は来て、向かった小屋の中には牡馬がいた。知らない顔だ。ペレストロイカなら良かったのに。強張る身体に力を入れて、前へ前へと進んでいく。発情してきた身体が暑い。自分は牝馬であることが改めて身に沁みる。
しかし見知らぬ牡馬は横を通り過ぎていった。
そして背後からまた足音がする。
振り向けば栗毛に一本の太い流星。
「ペレストロイカ!」
名前とすら認識されないであろう雄叫びを上げると彼は一歩後ずさったが、それ以上は下がらなかった。彼はじっと自分の顔を見つめている。また前へ進み始めて、自分の顔をペロリと舐めた。
牝馬になるのも悪くないのかもしれない、そう思った。