僕針外伝 ~石を継ぐ獣~

僕針外伝 ~石を継ぐ獣~

 

 雪混じりの雨に体を震わせ、若い女が歩く。頭頂には獣の耳がピンと立ち、周囲を警戒するように小刻みに動いていた。つぶらだが凛々しさを秘めていた瞳は今や覇気を失い、長い睫毛の奥に引きこもってしまっている。


「皆、付いてきておるな?」


 答えの代わりに、重い足音が返ってきた。女には自分と同じ獣人……クオンツ族の仲間が数十人いる。否、いた。

 先ほど、その半数以上を失った。無謀にも帝国の軍隊と正面衝突した彼らは輝く宝石となり、文字通り戦地に散った。

 その死に際の鉱石こそクオンツ族が迫害される原因なのは、何たる皮肉か。彼らの戦いは人間から見れば、わざわざ命を賭して貢物を献上してくれたようなものであった。


「コハク。……ごめん」

「……」


 自身の名を呼ばれ、立ち止まる。小声で謝ったのは、我が子の仇を討つために出撃していった母親だった。赤ん坊を抱いているが、それは先の戦で亡くなった若い夫婦の子供を預かっているだけ。赤ん坊の名は、オニキスというらしい。

 母親の目は抉られ、顔の半分ほどが鉱石化してしまっている。今や喋るのも一苦労と言った風情だった。


「皆の不満は、分かっておった」


 コハクの返事は、それだけ。

 戦闘はコハクの指示ではなく、一向に好転せぬ戦況に業を煮やした他のクオンツ達の暴走だった。コハクをはじめ慎重派が慌てて助太刀に入ったものの、時すでに遅し。先走った者の大半は討ち死にしており、数人の重傷者と僅かな遺品を連れて帰るだけが関の山。

 この母親が勇み足を悔やむように、コハクもまた一族をまとめきれなかった自責の念に支配されていた。


「これから、どうすれば良いのかな。あの子の仇も、私だけ生き残ったって……ッ」

「それ以上言うな。もう、自らを苦しめんでくれ」


 嗚咽に飲まれた母親の言葉は、諦めへと続いていた。残った数では人間と戦うどころか、集落として存続できるかすら怪しい。


「コハク姉ちゃん」

「……カルセド」


 今度は、利発そうな少年が口を開いた。十歳ほどだろうか。両親を殺され路頭に迷っていたところを、コハク達に拾われていた。

 彼は皆が何をしに出て行ったかも、帰ってこない者達の末路も何となく理解している。が、その声はまだ死んでいない。


「俺達、まだ生きてる」

「……うむ」

「じゃあ、歩こうぜ。こんな所で喋ってても風邪ひくだけだろ」

「──」


 子供ゆえの純粋さだったのか、どこかで聞きかじった台詞なのか。いずれにせよその言葉は真理を突いていた。ここで立ち止まっていても、何も変わらない。新しい仲間も安全に暮らせる地も、華々しい死に場所も、ここにはない。歩いて探すしかないのだ。

 コハクはゆっくりとカルセドに歩み寄り、濡れた髪をクシャクシャと撫でまわす。


「お主の言う通りじゃ。……皆、行くぞ」


 静かだが力強い呼びかけに、生き残ったクオンツ族達の目に少し力が戻る。

 皆で一歩を踏み出したところ、聞き慣れぬ男の声が後ろから飛んできた。


「ふぃー、ようやく追いついた……。全く、現役は足が速いわ」


 息を切らしつつも朗らかに、濃緑色の頭巾と服に身を包んだ初老の男が木々の間から姿を現す。

 この距離まで接近を察知できなかったことに内心歯噛みしつつも、コハクは一族を庇うように男の前へ一歩踏み出した。


「物取りなら他を当たれ、私達は何も持っておらん」

「いーや、持っておる。お主ら、クオンツ族じゃろ」

「……そうか。目当てはクオンツか」


 男は、クオンツ族を追いかけてきていた。それを認識した瞬間、コハクは男の喉元へ拳を叩きこみに行った。

 上体を前傾させつつ踵を踏ん張り、限界まで引き伸ばされたアキレス腱が反射的に収縮する反動をも利用して蹴り足を強化する。

 これ以上目の前の男が何かする前に、終わらせる。殺意のこもった拳が雨音を切り裂いた。


「見事な『|雷迅《ライジン》』じゃ。ビャッコの一派……さてはお主がコハクだの?」

「な、に?」


 確かに男の肌に触れたが、あるべき手応えがない。訝るコハクに、言葉と衝撃が返ってきた。


「……ガッ!」


 唐突に顎を跳ね上げられ、コハクの視界に火花が散る。一撃で頭から足先まで痺れ切った彼女は、右腕を虚空に突き出したまま地面に飛び込んだ。

 耳鳴りの中で、男の砂利を踏む音が小さく響く。


「ゴシン流『|枝垂息吹《シダレイブキ》』。知らん技かの」


 コハクの拳に対し、男は上体を後ろへとしならせ相対速度を完璧に合わせていた。そして拳の速度を自身の運動エネルギーに変換、トンボを切るようにコハクの顎を蹴り上げる。

 打撃自体は触れているから、コハクは反撃など想像できない。闘争心旺盛な獣と言えど、意識の隙を切って落とされれば抵抗の術はない。


「貴様……クオンツか」


 コハクは今更ながら、男の正体を悟った。自らの間合い、攻撃の拍子を一瞬で見切られた。次元の違う達人……という以上に、白虎流ゴシン術について深く知っていなければできない芸当だ。

 男は頷くと、頭巾を取って名乗る。


「うむ。しがない隠居ジジイじゃ。モリ爺と呼んでくれ」


 男の右耳は先端がちぎれ飛び、顔にも切り傷の痕が細かく走っていた。若い頃はコハクと同じく武闘派として集団を束ねていたのかもしれない。

 モリ爺はコハクの耳元に屈みこみ、細かい事情を明かし始める。


「帝国の方で、若いクオンツが暴れ回っとると聞いてな。見た所、随分弱っておるようじゃが」

「……お陰様でな」

「ごめんて。……いや待て、いきなり殴りかかるお主も大概悪い。加減しそこなったじゃないか」

「で、何の用だ」


 無愛想なコハクの返しだったが、モリ爺はニッコリと笑って提案した。


「お主ら、儂の作った里で暮らさぬか? ちと遠いが、人間とは無縁の暮らしを約束しよう」


 ふと、降水が弱まる。モリ爺の発言を聞いた一族からは、様々な意見が飛び交った。


『ふざけるな! ここまで来て、泣き寝入りなんてできるわけないだろ!?』

『落ち着けよ、里ってことは多くのクオンツがいるはずだ。やり直すためにも──』

『せめて、子供達だけはそこへ預けるべきじゃないかい?』


 モリ爺もコハクも、紛糾しかける議論を止めることはしなかった。ただただ戦うことしかしてこなかった彼らが、滅びを目前に本音でぶつかり合っている。

 少しすると、誰も声を上げなくなった。徹底抗戦を主張していた者も、里に興味を示した者も、皆疲れきったようにへたり込む。

 それを見たモリ爺がぽつりとこぼした。


「……擦り減っておるな」

「擦り減った、か。そうかもしれん」

「お主もじゃよ、コハク。まあ酷い泣き顔よ、美人が台無しじゃ」

「っ!」


 言われて、コハクは初めて自らが涙を流していることに気付いた。


「その強さで皆を率い、人間と何度ぶつかった? 何人の仲間を失った?」

「……分からん。数えるのも、やめてしまった」

「じゃろうな。儂もじゃ。辛かったから」


 モリ爺は灰色に濁りきった天を見上げ、コハク達に語り掛ける。


「どんなに硬い石でも、繰り返しぶつかれば擦り減り、欠けてしまうものよ。力いっぱいぶつかり合えば、尚更じゃ。お主らは、固い意志を持っておる。しかし、それゆえに相手を砕くか、自らが砕けるかしか道が見つからん。違うか?」


 誰も、反論しない。泣き虫な迷子のように、モリ爺の言葉を縋るような面持ちで待っていた。


「お主らの強さは、今のように擦り減るために鍛えたのか?」

「……」

「家族を、仲間を、自らを円満に、幸せにするためではなかったのか?」


 再び強まった雨が、一層冷たく地を叩くようになった。


「……そう、だ。皆。幸せ、が。欲しかった」


 掠れた声で、コハクが絞り出した。それで堰を切ったように、他のクオンツ族も嗚咽を堪えきれなくなる。弱々しい負け犬達のすすり泣きが枯れるまで、モリ爺は目を閉じて聞いていた。


「もう一度聞こう。里へ、来てくれんか?」


 再度の問い。最早採決は不要だった。コハクは正座し、モリ爺に頭を下げる。


「……はい。お世話になります、モリ爺」

「変わり身早すぎじゃろ。まあ……潔いのは嫌いじゃない」


 彼女の変わりようにモリ爺は当初困惑したものの、それが真に心を入れ替えたものと理解して笑顔を咲かせた。


「では、動こう。目指すは連邦領、中でも魔王領に近い所じゃ」

「……本当に遠いな」

「過酷な旅になるぞ。儂一人ならば何とでもなるが……全員、覚悟はしといてくれよ」

「一つになった我らの意志、大陸の横断ごときで砕けることはありませんとも」


 こうしてモリ爺に率いられたクオンツの一団は山を越え谷を越え、時に犠牲者を出しつつも割れることなくクオンツの隠れ里へと辿り着いた。

 この時彼らの辿った道なき道はその後少しずつ整備され、人知れず多くの命を救う「クオンツの獣道」として確立していくこととなる。

 白虎流、玄武流など細かい流派に分かれていたゴシン術も「ゴシン流」としてまとめ上げられ、コハクはモリ爺から免許皆伝と族長の座を受け継ぐ……ことになるのはまだ先の話。




「族長。……族長!」


 微睡んでいたコハクは、肩を小さく揺すられた。

 隠れ里を捨てて数日。緊張を強いられる旅路に、長らく平和に浸かっていた体がついてこられていないのだろう。


「オニキスか。すまん、何じゃ」

「日が落ちたぜ。もう動いて良さそうだ」

「分かった、すぐに出発しよう」


 既に八人の仲間たちは準備を終えている。慌てて立ち上がったコハクに、ルリが不思議そうな目を向けた。


「珍しいですね、族長が一番遅いなんて。何か夢でも見てたんですか?」

「夢……そうじゃな。モリ爺と、初めて会った頃を見ておった」

「へえ!」


 こんな時に族長である自身が夢見心地では困る。

 コハクは眠気を振り払うように頭を振ったが、ルリは対照的に破顔した。


「吉兆ですね! 良い場所と、仲間が見つかるはずです。モリ爺みたいに」


 コハク一人ではそう前向きな解釈はできなかっただろう。しかしモリ爺の意志を受け継いでいるのは、彼女だけではないのだ。


「……うむ。皆で、目指そう」


 自らを救い上げてくれた先達の背を、全員で追いかけよう。コハクはそんな決意と共に、一歩踏み出した。

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