僕たちの武器は
原作未読エルフ「さっきから魔物ばっかりでうんざりなの!」
「…お願いだからあまり大きな魔法撃たないでね?」
冒険者の少年マヌルとエルフの魔法使いサンドラが森の中を足早に進む。
気弱そうな少年は引き攣った顔で、苛立つチビっ子エルフを嗜めた。
「サンドラさんの仲間達と合流出来れば良いんだけど…」
「あれだけデッカイ魔法撃ったのに誰も気付いてやって来ないポンコツどもなんてアテになんないなの!」
サンドラはプリプリ怒りながら、はぐれた自分の仲間たちへの何度目かの文句を口にした。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ビーストイーターをサンドラが倒した後、疲労とダメージで気を失っていたマヌルだったが直ぐに意識を取り戻す。
すぐに目が覚めたのは懸命に少年の鼻の頭を舐めていたネネコポンと、魔物の大群に撃ち込まれる魔法の炸裂音のおかげだ。
爆音に引き寄せられたのは彼女の仲間達ではなく魔物の群れだったのだ。
強力な攻撃魔法で森を焼き、地面を割る。ストロングスタイルのサンドラの戦い振りはまさに鬼神の如きであったが、次々に四方から押し寄せる魔物の大群にジリ貧を強いられていた。
彼女はなぜ逃げないのか。
マヌルの足りない頭でも直ぐに解った。自分のせいだ。
か弱いネネコポンと、情け無くも気を失った自分を護るため彼女は逃げられないのだ。
マヌルは素早く周囲を観察し脱出経路を探しだす。
ネネコポンを背嚢に放り込んだ後、ポーチから取り出した数発の玉を魔物の群れへ投げつけた。
玉が破裂して異質な煙が四方に充満すると、それに包まれた魔物が途端に苦しみだして侵攻を止める。
この煙玉は魔物が嫌う薬草やキノコの毒素をこれでもかと凝縮したマヌル謹製のアイテムだ。その効果は煙幕だけではなく、その毒性であらゆる魔物の目と鼻を潰す。
あまりの悪臭に人間の目と鼻も使い物にならなくなるほどだったが効果覿面だ。
わずかに煙を吸って絶叫するサンドラを抱えあげると、マヌルは一目散にその場を後にした。
その後マヌルは涙と鼻水の止まらないサンドラにこっぴどく怒られたり、背嚢から顔を出したネネコポンにフレーメン反応されたりしたが、2人と1匹は何とか魔物の包囲から逃げおおせたのだった。
しかし戦闘になればサンドラの魔法に頼る外なく爆音で魔物を呼び寄せてしまう。
マヌルは必死で魔物の気配を探り、遭遇を避けるため迂回を繰り返すが、ここは魔物のテリトリーである『森の深淵』。
少しでも察知されると延々と追い駆けてくる有害魔物がそこら中に居る。
先程も屍喰猪という有害魔物をサンドラが魔法で森の一部ごと吹き飛ばしたところだ。
「うーん、この森は方向感覚を狂わせる変な力場があるみたいだ…」
別名”不帰の森”とも云われるこの森は王城の近くに存在しながらも未だに多数の未帰還者を出す広大で危険な森林だ。
度重なる迂回、遁走、戦闘で一行はすっかり道が判らなくなってしまっていた。
「君の仲間も困ってるかもしれないね」
「まったく、使えねーヤツらなの」
「言い過ぎだよ…」
迷子の自分の事は棚に上げてここには居ない仲間達への悪態をつくサンドラをマヌルが諫める。
とは言いつつも彼女が本心から自分の仲間を悪く思っているなんて事は無いのは、いくら人の機微に疎いマヌルでも解る。
きっと自身の不安や心細さを誤魔化そうとしているのだろう。
「きっと今頃心配して君を捜してるはずだよ」
「心配してるのは私の方なの!私が居ないとダメダメな手がかかって困った奴らなの!」
「…素直じゃないなぁ」
すると彼の肩に乗っていたネネコポンがそれに同意するようにニャーと鳴いた。
「ほら、ねこさんもそうだって言ってるよ」
「ぜったい言ってないなの!何なの!?ねこさんは私が先に助けたのに何で針坊にばっかり懐いてるなの!?」
サンドラが背伸びをしてマヌルの肩に乗ったネネコポンの頭を撫でようとすると、ネネコポンはスルリと躱してマヌルの影に隠れてしまう。
「ガーンなの」
「そうやってグイグイ行くからじゃないかなぁ…」
「納得いかないなの!」
ギャーギャー騒ぐサンドラに苦笑していたマヌルだったが、突然サンドラの口を塞ぐように手をやり、その気弱な目を猛禽の様に鋭くして辺りを見回す。
「…魔物の気配がする」
「…近いなの?」
「近いけど、僕らじゃない……誰かが追われてる!サンドラさん、ねこさんをお願い!」
肩に乗っていたネネコポンをサンドラに押し付けるとマヌルはあっと言う間に木々の間を駆けていった。
「……ねこさんあったかいなの」
抱きしめるサンドラのご満悦顔を、ネネコポンが両前足を突っ張ってグイグイと押し退けスルリと逃げてしまった。
遠くには逃げないが絶妙に手の届かない距離でサンドラを見つめるネネコポン。サンドラが頬を膨らませると、のんびり欠伸をして毛繕いを始める。
サンドラが一歩踏み出すと同じ分だけ距離を取ってそのまんまるの瞳で少女を見つめる。
少女がにじり寄った分だけ、同じだけ、距離を取ってはサンドラをじっと見つめる。
ネネコポンがまた大きく欠伸をした瞬間、サンドラは自分でも信じられない位のスピードで踏み込んでネネコポンに手を伸ばした。
しかし呆気なくネネコポンに躱されて、そのまま追いかけっこに突入した。
ただの偶然だろうが、奇しくもマヌルが走って行った方角だった。
マヌルが魔物の気配を辿り駆け付けると、フードをかぶった人物が狼型の魔物に追われていた。
顔は見えないが体格から女性だろうか、マヌルから見ても彼女が魔物に勝てるようには到底見えない。
魔物は3匹の森ウルフ。
屍肉を漁るスカベンジャータイプの魔物だが、弱そうな獲物を見付けると小規模な群れで狩りをする。
腐肉食とはいえ1匹でもマヌルが戦うには荷が重い危険な魔物だ。
だがマヌルは迷い無く懐の針を抜くと全力で森ウルフ達の頭に向けて投げつけた。
50歩以上の距離があるのに針は吸い寄せられる様に森ウルフの鼻先に命中する。
距離がある上に針は所詮攻撃力1だ。まともなダメージを与える事なんて出来はしない。しかしその注意を引き付けるには十分だ。
「こっちだ化け物!」
マヌルが叫ぶ。さらに手元に戻した針を続けて投げ付けると魔物は腹を立てたのか標的を彼に変更した。
獰猛に吠えるとその目を怒りに染めてマヌルに殺到する。
「そこの人!早く近くの大きな木に登って!」
突然の助けに唖然としていたフードの人物に向かって叫ぶとマヌルは魔物を引き付けながら逆方向に走りだした。
フードの人物がヨタヨタと木を登りだしたのを横目で見ながら、狭く密集した木々の間をすり抜けるように駆けるマヌル。
勇者のパーティを追い出され、針に呪われてからというものまともに魔物と戦える訳も無く、避けて、逃げて、隠れてを繰り返す内に計らずしも身のこなしだけはめっぽう上達していた。
大きな岩を蹴り、木の幹に跳び移り、その勢いで大きく跳躍する。
猿の様に縦横無尽に森を駆けるマヌルだったが、しかし相手はこの森を狩り場にする森ウルフ。
人間よりも遥かに強靭で素早い魔物にマヌルは次第に距離を詰められていた。
幾分か逃げ続けたマヌルだったが、流石に逃げ切れないと聡ったのか振り返り迎撃の体勢をとる。
森ウルフはその強靭な脚力でマヌルに飛び掛かろうと体勢を縮める。マヌルは苦し紛れにも森ウルフの目を狙って針を投げつけた。
しかしそれは効かないとばかりに森ウルフは軽く頭をふせて硬い頭蓋でソレを弾くと、全身のバネを使って猛スピードでマヌルに飛び掛かった。
森ウルフの顎と牙は簡単に人間の肉を裂き骨を砕く。この勢いで噛み付かれれば肉は削げ落ち間違い無く致命傷になる。
マヌルには回避する手段も防ぐ手段もない。マヌルは頭への攻撃を防ぐために、自らの左腕を差し出した。
メキメキと音を立てて肉と骨にめり込む牙。マヌルに腕を食われる激痛が襲いかかる。
それに歯を食い縛って抗う。覚悟していた痛みなら、僅かな間なら、耐えられるのだ。
「装備を外すっ!!」
マヌルが叫ぶと、八寸程の針がその身に宿す呪いを以て彼の右手に顕現する。
瞬時に逆手に持ち換えてその勢いのまま、森ウルフの眼球に突き立てた。
「ギャン!!」
流石に効いたのか咬合が緩む。
片目を潰され怯んだ森ウルフからの圧力が弱まった隙に体勢を整え、腰を落とす。骨が砕ける音がマヌルの脳髄に響く。
「があああああァッッ!!!」
激痛に半狂乱になりながらマヌルが叫ぶ。そうやって全身の筋力を奮い立たせる。
自身を軸に森ウルフの身体を浮かせると、振り回すように勢い付け、その遠心力のまま自分の背後にあった倒木に叩き付けた。
森ウルフが叩き付けられたのは、マヌルの陰になって見えなかった鋭く割れた倒木だった。
その倒木は少し前にサンドラが魔法で別の魔物ごと吹き飛ばしたモノだ。
凄まじい力で引き千切られた硬質な樹木は乱雑で鋭利な槍衾となっており、マヌルの攻撃でわずかに視点を下げられた森ウルフはこの罠に気付く事ができなかった。
ギャンっと短い悲鳴を出した後、全身をズタズタに穿かれた森ウルフが苦痛から逃れようと大暴れする。
マヌルは苦悶に満ちた表情でその身体を思いっ切り蹴りつける。
「あ"あ"あ"ああああァァァ!!!」
鋭く硬い生木が深く深く突き刺さるように。
森ウルフの絶叫を掻き消すようにマヌルは叫びながら何度も何度も蹴りつけた。蹴りつける度に負傷の痛みが脳髄を掻き毟るが止める訳にはいかない。
その内に森ウルフはおびただしい血を吐いてしばらく痙攣した後絶命した。
「くっ…ハァッ……!ハァッ………!」
殺した魔物が光子決壊すると飛び散った大量の血も消える。
息切れしたマヌルに生物を殺した感触だけを残して、まるで最初から何もなかったように魔物の痕跡は消えて行った。
「あと、2匹…!」
ふぅふぅと乱れた呼吸を落ち着かせる間もなく唯一の武器である針を構える。
仲間が殺された森ウルフは遠巻きにマヌルの様子を伺いながら唸り声を上げる。
森ウルフがすぐにマヌルを襲わなかったのは、仲間を殺した彼が強者に見えたのだろうか、それとも彼の決死の気迫に気圧されたからだろうか。
今は警戒して攻撃を躊躇しているが、マヌルも二匹の森ウルフを前にしていては、ボロ雑巾のようになった左腕を治療する隙を見せる訳にはいかない。
あと少しもすればこの魔物たちは、獲物の体力が既に限界であることに気付くだろう。
しかし、理由はどうあれ森ウルフにその機会は訪れなかった。
『アイスニードル』
唄うように紡がれた声が響くと、針と言うには太く鋭い氷の杭があっという間に二匹の森ウルフを串刺しにした。
「まったく」
マヌルが声のする方、倒木の上を見上げる。
そこには抱っこしたネネコポンの前足でほっぺをグイグイと押し退けられようとしてるエルフの少女、サンドラが立っていた。
「ふぁかばっかりふぁの」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「あの魔法なら音も小さいし魔物も寄ってこないなの。即席で組んだ呪文にしては良く出来たなの。やっぱり私は天才なの。それに引き換え針坊はほんとバカなの。私が行かなかったら今頃森ウルフのおなかの中なの」
「それについては感謝してるけど……それはともかく元気なんだったら自分で歩いておくれよ」
サンドラは、自分の治療もそこそこに要救助者の下へ走ろうとするマヌルを引き留め、あろうことか自分をおぶって行くように要求した。
そのせいでひしゃげた腕の治療をしっかりする必要があり、しばし時間をロスした事で少しばかりマヌルは気が急いていた。
「やーなの!はぁ〜針坊のせいで走ったり魔法撃ったりして疲れたなの〜それにおぶってもらった方が早いなの〜♪」
それでもその言葉の通りマヌルはサンドラを背負っている事を感じさせないぐらい身軽に薄暗い悪路を進む。
「その、針坊っていうのいい加減やめてほしいなぁ…」
「針坊は針坊なの。それを言うならサンドラ”さん”もやめるなの、サンサン続いて気持ち悪いなの」
「う〜ん、でも年上だし…」
「くそ真面目うぜぇなの」
「口が悪すぎる…」
軽口を叩きながらも向かうのは先程のフードの女性が登ったと思われる大きな樹だ。
「あそこの大きな樹の上だったはず…」
樹の根元には木登りが得意ではない森ウルフが3数匹うろついていたが、サンドラの魔法で瞬く間に尻尾を焼かれ悲鳴をあげて逃げて行った。
「あそこに誰か居るなの」
サンドラとマヌルが樹上を見上げると樹冠の太い枝の上、幹に寄りかかるように座り込む人影が見えた。
急いで樹木の根本に駆け寄ってサンドラを背中から降ろす。
「そこのひとーっ、魔物はやっつけましたよーっ、降りてこれますかーー!?」
マヌルは人影に向かって大きく声を掛ける。しかし人影は身じろぎひとつしない。
先程から鼻腔に届く血の臭いが彼女が相当に負傷している事を物語っている。失血のショックで気を失っているのかも知れない。
そうだとするとあまり悠長にもしていられない。
マヌルは意を決するとスルスルと幹を登って行く。
「おサルなの」
サンドラから見れば、樹木の幹には足が掛かりそうな枝も節も見当たらない。よくもまぁあんなに器用に登れるものだと、彼女は呆れながらも関心して見上げていた。
少しするとマヌルが肩に気を失った女性を担いで降りてきた。
サンドラはその女性の青褪めた顔色を見て息を呑んだ。
マヌルは負傷した女性をその場に横たえるとテキパキと治療の準備を始める。
「針坊、そいつから離れるなの」
「え?」
サンドラは自分の指先に魔力をこめる。意識のない怪我人なんか一瞬で殺せる程の魔力だ。その指先をマヌルへ向ける。正確にはマヌルの向こう側に横たわる女性へ。
「そいつは『魔族』なの!!」
女のフードの陰から額に生える二本のツノが見えていた。
マヌルは膝をついたままサンドラの方へ向き直り、魔族の女性を庇うように両手を広げた。
「怪我人に魔族もなにも無いよ」
「あるなのっ!!」
マヌルの言い様が癇に障ったのかサンドラの語気が強くなる。
「無いよ、サンドラさん」
マヌルとサンドラが睨み合う。
いや、睨んでいるのはサンドラだけだ。
マヌルはサンドラの怒気に怖気つかないように、必死で彼女の瞳を見つめ返していた。
「針坊は知らないなのかもしれないけど魔族は残虐で非道なやつらなの。人族もエルフ族も何人も無惨に殺されてるなの」
「この人がそうだとは限らないよ」
「………いいからそこを退くなの」
「退かない」
「………なら針坊ごと消し飛ばしてもいいなの」
「君はそんなことしない」
「……ほんの少しの間一緒に居ただけのお前に私の何が解るなの?」
「君が優しい人だって知ってるよ」
「………バカの針坊のくせに口だけは達者なの」
サンドラの険しい眼光がマヌルを見据える。魔力の込もった指先は未だマヌル越しに魔族の女性に向けられている。
マヌルからすれば、この数日彼女の魔法に魔物が吹き飛ばされてゆくのを散々見てきたのだ。刃物を向けられるより余程怖ろしい。
「……その魔族を助けて、魔族が目覚めてお前を襲ってきたらどうするなの?」
「……わからない」
「だいたいさっきも、ろくに戦えもしないくせに何で一人で突っ走って行くなの?そんなに死にたいなの?」
「……」
「今ならサービスで私がそいつを殺してあげるなの。……森ウルフ一匹殺しただけで参ってるお前に魔族は殺せないなの」
それでもマヌルは首を横に振る。ろくに言い返せもしないくせに頑として魔族の前から動こうとしない。
「お願いだよ、サンドラさん」
「……子供のワガママには付き合ってられないなの」
彼の子供染みた頑固さにサンドラはふつふつと苛立ちを募らせた。
もういい、風魔法でマヌルを吹き飛ばした後、この魔族を消し炭にして終わりだ。
後でちゃんと魔族が如何に危険かについて説教してやればいくらマヌルの阿呆でも解るだろう。
「ニャー」
サンドラが指先の魔力を練り始めたとき、不意に彼女の足に柔らかくフワフワしたものが擦り寄った。
ハッとして足元を見下ろすとネネコポンが彼女を見上げていた。
宝石みたいな目と見つめ合っても何を思っているかなんてちっとも解らなかったが、ネネコポンは満足そうにもう一度「ニャー」と鳴いてサンドラの反対の足にその柔らかい身体を擦り付けた。
まるで風船から空気が抜けるように、サンドラは自分の怒気や苛立ちがすっかり霧散しているのに気付いた。
彼女は大きく嘆息すると、指先に集めた魔力を散らしその腕を下ろす。
サンドラはゆっくり屈むと足下のネネコポンを抱き上げた。
珍しく無抵抗に抱き上げられるネネコポンに驚きよりも嬉しさが勝ってつい口元が緩む。
場の空気が一気に弛緩したのが解った。
「ねこさんとその辺散歩してくるなの、………針坊はソイツ治療するなり好きにするといいなの」
そう言ってサンドラは背中を向けて歩き出す。
「ありがとう、サンドラさん」
「お礼なんて言われる筋合い無いなの、……もしソイツが変な事したら今度は絶対に殺すなの」
言葉とは裏腹に、魔族に対する殺意は驚くほど湧いて来なかった。
離れていく背中越しにマヌルがせっせと治療を始めるのを感じると、サンドラはネネコポンに囁くように呟いた。
「バカの針坊にかかれば、人もエルフもねこさんも、魔族も、みんな一緒くたなの。変なヤツなの」
サンドラはネネコポンの柔らかい温もりに頬を緩め、ネネコポンは喉をゴロゴロ鳴らしながら額をサンドラの頬に擦り付けた。
魔族の女は、本人の預かり知らぬところで再び生命を救われたのだった。
薬師の専用スキル『アトムスフィア』。
薬草などのアイテムから、『傷を治癒する』という効果だけを抜き取り対象を瞬時に回復するという魔法の様なスキル。
先程自分の負傷を治療したのもこのスキルだ。
しかしこれが所謂『ハズレスキル』扱いされるには理由があった。
そもそも薬草での治療というのは、人体の自然治癒力を薬効で高め、時間を掛けて怪我を治すものだ。
それを瞬時に回復するのだから素晴らしいスキルのように聞こえるが、問題はその消費する『量と種類』、それを扱い切る為の『知識』だ。
例えば『転んで擦り剝いた怪我』なら水で良く洗ってから、切り傷によく効く薬草をアトモスフィアで使えば直ぐに傷は塞がり回復するだろう。
しかしこれが『魔物に噛まれた傷』だと話が違う。
魔物の牙や爪には毒がある。
通常こういった負傷は毒消し効果のある薬草を使わずに治療を行うと、傷口が化膿しそこから身体が腐り最悪の場合死に至る。
同様に魔物と戦う冒険者達の負傷をアトモスフィアで治療を行なう場合、通常の治療と同じ様に毒消し効果のある薬草と回復効果の高い薬草を合わせて使う必要があった。
薬師であるマヌルは様々な薬草に精通しており、常にあらゆる怪我や状態異常に対応できる様に多種多様の薬草を大量に携帯していた。
それは実情を知らぬ者から見れば異常な量と言える程だった。
勇者パーティーに居た時は、割り振られる予算では足りず旅の道中で頻繁に採取を行って繋いでいた。
しかし急ぐ旅路で度々足を止めさせられていた仲間達には疎ましく思われていたかも知れない。
(この森は色んな薬草が採取出来て本当に良かった)
ひと通りの処置が終わり、血色の戻った魔族の女性の顔を見てひと息つく。
(虎の子のポーションも使っちゃったけど、これなら大丈夫そうだ)
『ポーション』は薬師のスキルのひとつ『調薬』で作成する強力な回復薬だ。失血を補う効果や強い鎮痛効果もあり、大きな怪我をした時の為に取っておいたものだ。
材料に高価な薬草、そして作成には専用の設備が必要な為、今のマヌルには追加を作ることは出来ないが、今回彼は躊躇う事なく使用していた。
彼女の怪我は右脇腹、左腕、右脚の大きな3箇所の裂傷だった。森ウルフによるものだろう。
この怪我でよく木登りが出来たものだとマヌルが感心するには十分に重傷だった。
森ウルフは小規模な群れで獲物を弱らせるために少しづつ痛め付けて嬲る習性があり、直ぐには殺さない。
痛め付けられた彼女には気の毒だがそのお陰で助けが間に合ったとも言える。
また樹上はビーストイーターの縄張りなため、森ウルフは木登りが得意ではない。
だから助ける時に木に登るように指示を出したが、もう少し遅ければ登れなかったかも知れない。
思っていた以上にギリギリだった状況にマヌルも今更ながら戦々恐々としていた。
「終わったなの?」
足下にネネコポンを伴ってサンドラが戻ってきた。
ジト目でマヌルを見据え不機嫌そうな表情を作ってはいるが、先程の刺すような怒気は感じられなかった。
「血の臭いで魔物がちょいちょい集まってるなの。見掛けた奴等は散らしといたなのけど、サッサと移動したほうが良いなの」
「うん、ありがとう」
マヌルがそう礼を口にするとサンドラは気不味そうに口をモゴモゴした。
マヌルは嬉しそうにサンドラを見た後、広げていた薬品や包帯を手際良く片付けて、身仕度を整えだした。
「…ソイツはどうするなの?」
「背負子でもあれば良かったんだけど今から作ってられないし、一先ず背負って行くよ」
「ふーん……」
「よいしょっと、おぉ………」
「どうしたなの?」
「な、なんでもないよ」
「…………」
「……………」
「針坊はスケベなの!」
「誤解だよ!」
緊張の糸が切れてしまうと、さっきまでまったく気にならなかった事が不意に気になってしまうものだなと、マヌルは思った。
魔族の女性はそれなりに大きかった。