修羅と仏:序
「"お・か・き"~!!」
「"あられ"…フフフ!!あんたがこんな愉快な性格だったとはなァ、センゴク大将」
その日いつもの符丁に応えたのは、知らない男の声だった。
「……何が望みだ」
「"おれたち"に関する情報は全て忘れろ」
「お前は、」
「18年間…弟が世話になったな」
言葉を返す間もなく一方的に通話が切られ、執務室の電伝虫はそれきり沈黙した。
血の繋がった弟の裏切りを知っただろう男の要求はつまり、"これ以上関わるな"と、たったそれだけのものだった。
「一体何があった…ロシナンテ」
それは我が子のように想った男の消息が途絶えた、11年前のある日のことだった。
私がロシナンテを見つけたのは29年前、偶然立ち寄った非加盟国でのことだ。
厄介な海賊が北の海に逃げ込んだとの知らせを受け、当時ロジャー海賊団を追いまわしていたガープに代わって私が対応に乗り出したことがきっかけだった。
無事任務を終えた折、我々政府の被害者である住民たちの目に止まらぬよう選んだ町外れの停泊地近くに、一軒のあばら家が建っているとの報告を受けた。
だが、海賊団の残党が潜んでいる可能性を考慮し私自ら向かったそこで見たのは、もはや動く気力さえも失った、瘦せ細った幼い子どもの姿だった。身寄りがないのかと問えばその子は、気力を使い果たすようにして泣き出した。
非加盟国とはいえ、人々には町があり生活がある。ごみ溜めのようになっているこんな場所で独りきりのこの子は、身寄りがないのではなく、おそらく家族に―
思考が結論を出すより前に、私はその子にこう言っていた。
「―じゃあ、おれと来るか?」
問いかけの形をしたそれに、小さなその子が返事を返したかどうか、実のところ私はよく覚えていない。覚えているのは、私が手を掴まなければこの子の命は全てを諦めたままで絶えてしまうという、重々しい苦しさだけだ。
そんな経緯で保護したその子は、軍医含む我々皆の予想を裏切り、目を覚ますまでのほんの少しの間の点滴で正常な受け答えができるまでに回復した。そうして分かったのは、ロシナンテという名であることと、8歳であるということだった。
特殊な体質を疑った軍医の勧めもあり、私はロシナンテを当時知る中で最も腕の良い、最も信頼に足る医者に診せた。だが、世界一の医療大国に居を構える変わり者のその医者から告げられた事実は、あまりにも悲しいものだった。
「あたしゃこの血を持つ患者をかつて…一度だけ診たことがある」
「一度だけ?それほど特殊な体質なのですか」
「ヒッヒッヒッ…あんたあの子を引き取るなら、覚悟を決めておくんだね」
「…というと?」
「天竜人の血を引いてる。あんた"そのこと"を…世界中から隠し通せるかい?」
天竜人の子。その言葉に、失望よりも納得が勝ってしまう自分が憎らしい。
それならきっとこの子は、非加盟国に降ろされた"元"妻の子どもだろう。天竜人は地上で美しい女性を見つけては妻として連れて行くが、その多くは彼女たちが子を宿した途端に興味を失い下界に降ろす。だから、絶望した彼女らに虐待された、あるいは捨てられた子どもの例は枚挙に暇がなかった。
そしてそんな子どもたちは、"どうしてか"皆長くは生きられない。
長く海兵を続けた者は誰でも気付く政府の歪みの一つが今、幼気な子供の姿を取って一人の海兵の選択を待っていた。
「この子は、私が引き取ります」
答えた私に笑顔を浮かべたその医者からは後日、"天駆ける竜の血"について、彼女の知る限りが記された資料が届いた。
私はそれから一度も、悲しいほどに内向的で大人に怯えるロシナンテに家族のことを訊ねなかった。ロシナンテも、家族のことを話しはしなかった。
それでよいのだと、そう思っていたのだ。
全てをさらけ出せずとも、ゆっくりと「家族」になってゆけばよいと。
たとえ血に依らぬそれが、積み上げられた隠し事を囲み合うものであったとしても。