信仰とは、つまり肯定であろう:破

信仰とは、つまり肯定であろう:破


全身の血が、沸騰したように熱く騒いでいる。

死のぬくもりが、感覚を甘く満たす。

そうだ、父を内側から喰い破ったこの獣の首を、早く落としてしまわなければ。

異常な高揚の中、おれは手に入れたばかりの能力のイトをその首と崩れかけたベッドにかけ、全体重をかけてひと息で切断した。

赤い月と目が合ったあの日から、2年の月日が経っていた。

早く、早く聖地に戻らなければ、おれも弟も獣になって全てが終わる。

世間知らずの天竜人のガキに、北の非加盟国からマリージョアまでの航路も何も分かるはずもねえ。それでもただただ焦りと初めての狩りの興奮に駆られて、おれはあのクソ溜めを飛び出した。

激情に任せただけのそれが、最大級の"やらかし"であることなど知りもせずに。

怯えきった弟はすぐに戻るという何の根拠も確証もねえ言葉に頷かされ、たった一人でボロ小屋に残されていた。


適当な船に忍び込み、やっとのことで加盟国に転がり込む。

だが、それで手詰まりだった。

言うまでもなく、天上に向かうには凪の帯を越えて偉大なる航路に入る必要がある。

海楼石を敷いた政府の船に乗り込む力など、当時のおれにあるはずもなかった。

ひたすらに焦りを募らせ、体力の限界を気力で補いようやく立っていた、その時だ。

海からこちらに近寄る、蹄の刻印の気配を感じ取ったのは。

「ああ、やっぱり間違いねえ!おれを覚えておいでですか?」

天竜人の強い気配を追っておれの元まで戻ったのだと言った男は、天上で共に暮らした老いた魚人の奴隷だった。

おれの変わり果てた姿に涙を零したそいつのもとで、世界が地獄に変わった日以来、初めてまともな食事と休息とを得る。男の話から分かったのは、父が下界に降りるにあたり手持ちの奴隷を全て世界中に散らせたことだった。下界で消えた祖父の末路を知る男は、おれたち家族の窮地を察し2年をかけておれを探し出したという。

おれの抱える瞳の蕩けた獣の首を見て、男は何も訊かずにおれを背負った。

背負ったまま、凪の海を越え偉大なる航路を渡り、赤い土の大陸まで島々を伝いながらひたすらに泳いだ。

そうして赤い港に着いてからは、一度乗ったきりのボンドラの外壁にイトをかけ視線をやり過ごし、おれは再び聖地の土を踏んだ。

そこでおれを待っていたのは、腐れた血の臭いと、獣共の聞くに堪えねえ喚き声。

かつて天上に暮らした頃、気付かずにいたのが信じられねえような有様だ。

連中はおれを受け入れなかったが、穢れたゆりかごで生きるなんぞ最早こっちから願い下げだった。

不気味な部屋で麦わら帽子を見たと言ったおれたちの手を引き、下界を目指した父。

下界に降りてすぐ、身なりのために人攫いにあいかけたおれを守ろうと、街に潜んでいた"元奴隷"をけしかけた母。

あらゆるものを失い地獄に生きても、おれの壊れた世界をいつも信じた弟。

イカれた世界を支配する"獣もどき"共こそが、そしてこの血に宿る獣こそがおれたち家族を地獄へ堕としたのだと、終におれは理解した。

衛兵隊の追撃をかわし、断壁からイトを伝って海へと飛び込む。

忌々しい血の示す通り、迎えがそこに居ることは判っていた。


魚人の奴隷は帰りの道中でも、おれに何も訊かなかった。

ただ、弟を一人で待たせていると、思い出したように告げたおれに頷き、全速力で海を渡った。

偉大なる航路を出て凪の帯を越え、あのゴミ溜めには、今のおれから見ても驚くほどの早さで着いた。

汚水に塗れた海岸におれを降ろしたその腕を、イトで縛って力の限りに引き上げる。海に引き込まれそうな足を踏ん張り、やっとのことで大きく重い廃材にイトの端を括りつけた。

「おい、これから…」

振り返ったおれの視界に映ったのは、鋼鉄の強度を持つイトに裂かれ持ち主を失った青い腕だった。

ほの白い光を纏う男の"本当の"色を、おれはその命が失われて初めて目にした。

蹄の気配はもう、黒々とした汚泥に沈んで消えていた。


戻ったおれを迎えたのは、もぬけの殻になったボロ小屋だった。

弟の姿は、どこにもなかった。

代わりとばかりに、腐って半ば崩れた床に暴力の跡だけが散らばっていた。

「ロシー…」

小屋の近くの、父だったものの死体を埋めたのだろう土の傍には、持ち手に血の滲んだショベルが打ち捨ててあった。弟の、甘い血の匂いが残っていた。

きっとあの優しい弟は、力を振り絞って穴を掘り、獣の死体を埋めたのだ。

食糧も尽きて一人きりで残され、狂気に支配されたクズ共の暴力に晒されそれから、それから。

「戻ってきたのか、ドフラミンゴ」

「……おれを嗤いに来たのか、ヴェルゴ」

立ち尽くすおれの隣に、悪魔の実とあの短銃を寄越した連中の仲間が歩み寄った。

クズ共に殺されかけていたおれを、この身に流れる血を知ってなお助け出した物好きなガキ。おれがそいつについて知る情報は、その程度のもんだった。

「まさか」

後に獣の病の秘匿を分かち相棒となるそいつは、人間を焼く劇毒の血で汚れたおれの手を取った。

薄い皮膚の焦げ付く臭いが、弟の甘い血の匂いを覆っていく。

「おれたちと一緒に来ないか」

復讐する力を与えようか。

こいつのボスとやらが、この手に銃を握らせ吐いた言葉が嫌に耳の奥に残っていた。

あの腐れた獣もどき共がおれたちを虐げたクズ共が血に宿る獣が、狂気に満たされたこの世界が憎い。

何もかもを奪われたおれに残ったのは、壮絶な怒りと憎悪。

元より歪み壊れていた総てが、唯一の寄る辺を失い暗い底へと没落していく。

世界は、汚泥に沈みその息を止めた。





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