信仰とは、つまり肯定であろう:序

信仰とは、つまり肯定であろう:序


「ドフィ、ドフラミンゴ、さあおいで。怖いものは何もないよ」

父上は、屋敷を這うナニかの傍らに立って手招き言った。

何もない。そうか。

蠢く影など見えないふりをして、おれは父の言葉に従った。

「嬉しいことを言ってくださるが、そういうのは将来の奥方の為にでもとっておきなせえ!なんせおれの体に白い所なんぞありゃあしませんからな!」

祖父の代から仕えるという古参の魚人の奴隷は、大きな口を開けて豪快に笑った。

白くなんてない。なるほど。

美しい白を反射する冷たい滑らかなその皮膚に触れながら、おれも笑った。


天上に産まれついたおれは幼い頃、幸運にも馬鹿馬鹿しいほどに広い屋敷と敷地から一歩も出ることなく過ごした。言葉が出るのが早かったらしいおれが、口を開くたびにどうにも"マトモ"ではない内容ばかりをまき散らすために取られた措置だった。

幸いなことに、イカれたガキは歳の割には頭がキレた。

およそ合理的かつ客観性を帯びるはずの現実世界に己の知覚の居場所など無いことをすぐに学習し、他者に倣って生活することを覚えた。否定によって形を成していく世界で息をすることは、さほど難しいことでも苦しいことでもなかった。なんせガキの世界には不幸や不自由なんぞといった言葉は存在せず、それらは規定されないまま、さも当然のように檻の見えない鳥カゴの中を揺蕩っていた。

そんな在り方が板についてきた頃だ。おれの世界に、奇妙なソレが増えたのは。

ソレは声を発さず、ただただじっとこちらを見つめていた。現れてはいつしか消えていく他の連中とは違い、我が物顔で屋敷をうろつきおれの後ろをついてまわった。

おれはソレが否定の側のものではなく"マトモ"な世界に属するということも、その名も一体何であるかも両親に教わり理解していた。

だが、興味は湧かなかった。それだけだ。

狂気の内側から出られないおれにとって、己の意志を欠いて廻る世界にさしたる意味はなかった。自我という名の異物がゆっくりと麻痺していくのを眺めるだけで、水に泥が積もるように日々が過ぎていく。

床を這いずっていたソレがいつしか立ち上がり、歩き、よく転んでは奴隷たちに気遣われるようになった頃には、おれは死というものを知るようになっていた。

獣の唸りや瞼の裏側の光や何者かの囁き声に邪魔をされない眠りというものがあるのなら、年老いた助産師の代わりに棺桶に入ってやっても構わないとすら本気で思ったもんだ。

断絶の最たるものであるはずの生と死さえ、壊れた夢を見続けるかどうか程度の違いなのだと。おれはこの世の真理を悟ったような顔で、そんなことを考えていた。

そんな、なんの変哲もねえある昼下がりのことだ。

「きれい」

最初おれは、その声を無視した。

”マトモ"な側に属するとされる中に、聞いた覚えのない声だったからだ。

「あにうえ」

あにうえ、兄と言ったか。

振り返ったその先には、沈黙を貫いていたソレが立っていた。煩わしい覆いを外したおれの、悍ましく醜く蕩けた瞳を見て笑っていた。

痛ましげな視線も、カワイソウなものに向ける顔もそこにはなかった。

頭の奥で気が触れたように喚き続ける声が口を噤む。

その時おれは、ずっと叫び続けていたそれが己の悲鳴であったのだと、産れて初めて気付いたのだ。

「きらきら、きれい」

小さく拙いその声だけが、おれの世界に齎されたただ一つの肯定だった。


世界はすぐに、小さな肯定の描いた軌道上を渡る、夢のような実在に変わった。

獣の瞳を持たない幼い弟の、ロシナンテの手を引くその時にだけ、おれの知覚の全ては証明される。

意味もなく興味もなかった認識のことごとくが、一斉に息を吹き返したようだった。屋敷を這う影、冷たく美しい血の奴隷たち、遥か頭上からの呼び声、不吉な鐘の音、ジリジリと熱を放つ、この血の結び付きも。

ロシナンテは、それらのたった一つも否定することはなかった。いつもおれの後ろをついてまわっては、見えない影に怯え、老いた奴隷に笑いかけ、聞こえない声に耳を塞いで、音色のない鐘の響きを掻き消すように子守歌を歌った。

「あにうえのおてては、あったかいえ」

そう言っては、両親よりもよほど熱い血の流れるおれの手を握り微笑んでいた。

他のガキどもと会わされるようになっても、手の中の小さなぬくもり以上のものは何一つとして見つからなかった。

そもそもの話、誰だろうが頭の足りねえ薄笑いを浮かべた連中なんぞと付き合うのはうんざりだろう。

馬鹿なガキに連れられた鈍く虚ろな瞳を地面に向けるだけのペットなど、ウチにいる
"ドレイ"と同じ存在とすら思えなかった。

話を合わせてやることすら面倒な連中を適当にいなして、温かな弟の手を引く。

どれだけ早く切り上げて"寄り道"するかが、その頃のおれの大きな関心事だった。


「あにうえ、ここ、どこ?」

ある日、近道の先に辿り着いたのは、いつもの花々に彩られた箱庭ではなかった。

冷気が漏れ出すそこに、薄く灯りが灯っている。

「……"あれ"、なあに?」

「…麦わら帽子?」

どこか頭蓋の深くで、赤い月がおれたちを見下ろしていた。





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