供養

供養


新月の晩。

その神の名を、スレッタ・マーキュリーは知らなかった。

自らが捧げられる「それ」を知らないというのは、今考えるといささか滑稽である。ただうまれたときから、スレッタはこの神の花婿として捧げられることを運命づけられてきた。お前は神子だから。依り代だから。鍵だから。それならば仕方ない。宵闇に浮かぶ自分は、白と青の美しい装束を身に纏っていて、なんだか自分ではないみたい。垂れた眦とくちびるには赤い紅がさされている。左右の手をひかれて歩いていると、なんだか人形にでもなったみたいだ。

眩暈がしてふらつくたび、強く手を引かれる。森の中を、歩く。湿った土のにおいと、どこかで夜の鳥が鳴く声。浮き上がった身体に己の白い手が見える。

とおくに社が見える。

というよりは、風の紋が記された黄色い提灯が。神のおわす場所と示された場が。眩暈がする。視界がぼやけてまるい光がゆらゆらと揺れる。じわじわと熱を持つ頭とは裏腹に、指先は石みたく冷たくなる。

扉がひらかれる。

漆黒がくちを開く。

ああ自分はここで死ぬのだ。そう説明されていた。このまま一番奥のお人形の中に閉じ込められるのだと。よくは知らないがせめて楽に逝けたらいいと思う。捕まれていた両手が離される。ここから先は自分ひとりで行かなければならない、ということだろう。スレッタは重いからだをひきづるようにして、一歩、また一歩、光を目指して歩いた。ひと息吐くたび黄泉の国への扉が近づくのを感じる。この後に及んで恐怖を感じるのは、どうしてか。おぼつかない足取り、ふらついて、ああ、めまいがする、たおれてしまいそうになる、だめだ歩かないと、そう一歩、おぼつかなく踏み出そうとしたからだを、

長い腕が、横から支えた。


帝都少年事件簿



帝都の朝は早い。

夜明けとともに人々が動きだし、それぞれの仕事を全うする。まだ温かい季節だとはいえ、まだ空が白みはじめる頃の風には、やや冷たいものが混じりつつあった。しかしその涼風は、むしろ人々に鬱屈と張り付いた暑気を振り払い、その足取りを軽くするものですらある。かくいうこの場所も、既に賑やかな声が響いていた。

「お前さあっ、無茶しすぎだっての!」

「あ、あの……」

「ああするのが最適解だったんです。実際成果はあがったでしょう」

「えっと」

「そうはいってももっと別のやり方あっただろ! なんでわざわざ敵の本拠地に潜入した!? というかグエルは毎度毎度……!」

「……その」

「ケレスさんが提案してくれたやり方のうちの一つじゃないですか!!」

「い、いいですか……?」

__否、やや賑やかすぎるかもしれなかった。

スレッタがそっと片手をあげる。対面で侃々諤々言い争っていた二人組が、「あ」「すまない」とやや気まずそうな顔をして、彼女の方に向き直った。二階建ての建物の二階部分、擦り切れた紅色の絨毯と、やや茶けたせいで灰色だか灰茶色だか白だか判別し難い壁紙。部屋の壁に陣取るストーブに、火は入っていない。ベルベットの二人掛けのソファが対面で設置されている真ん中、机の上には、まだ湯気の立ち上るマグカップが三つと、小さなケーキがおかれていた。

会話の流れから察するに。

長い髪を髪留めでひとつにまとめ、袴と羽織と詰襟襯衣、たまに窓越しに見た学生が着ている衣装を身に纏っている方がグエル・ジェターク。色素が薄い容色に、深い紺色をしたインバネスコートとベレー帽がよく似合っている方がエラン・ケレスというらしい。昨晩見事な手際で状況もわからぬスレッタを連れ、誰にも気取られぬままこの屋敷にまで走った二人と、同一人物だとは到底思えないが、闇の中でふりあおいだあの青と緑、それと色彩はおよそ一致している。グエルはおちつくためかマグを傾け、エランがミルクと砂糖をぽとぽと落としながら、手元にあったらしい書類に目を通す。

「スレッタ・マーキュリー。女。秘密教団『カヴンの子』の信者たちの間に出生し、ほとんど外の世界を知ることなく育てられる。十七歳の誕生日__つまり昨晩、かの教団が崇める神の生贄になる予定だった。ここまでに間違いはないか?」

「えと……はい。あ、あの! ……たすけてくれて、ありがとうございます」

「精神状態はまともだな。余程のことならカウンセリングでも受けさせる予定だったが、この調子なら大丈夫そうだ」

「はあ……」

スレッタもグエルにならって、こくりと一口のんでみた。とてもにがい。のんだことないほど苦い。「んぐっ……!?」と素っ頓狂な声があがりそうになるが、それより先になんとか口許を押さえ、エランの真似をして角砂糖をいれて、くるくる混ぜてみた。聞きたいことは色々ある。だってこれってたぶん、誘拐? だよね。いや世間的にはたぶん死んだことになっている自分が、攫われるだなんて変な話だけれど。そもそもどうして自分をここに連れてきたのか。何が目的なのか。自分はこれからどうなるのか。だけどそれ以上に。

「……あなたたちは、何者、なんですか……?」

スレッタの瞳が、不安げに揺れた。

グエルが「ふむ」とカップを置き、エランに目配せする。エランは少し考えるように口許に手をあて、それから顔をあげ、じっとこちらを見つめてきた。

「お前は、【アド・ステラ】という言葉を知っているか?」

「あど……?」

「わからないならいい」

エランはさっさと話を切り上げると、すくっと立ち上がる。そうしてくるりと部屋の中を回り、壁際に定位置を見つけると、大袈裟に片手をあげて帽子を脱ぎ、もう片手を腰に置き、やや芝居がかった動作で頭を下げてみせた。

「俺の名前はエラン・ケレス。まあそいつの助手ってとこ。ちなみにここは俺が持ってる物件の一つで、グエルの事務所で、お前の身柄はある程度ウチで預かる。以上よろしく」

「じょしゅ」

「グエル・ジェターク」

書生服の青年が立ち上がる。確かこれだ、この腕だ。この手に、スレッタは手を引かれた。フラッシュバックのようにばちりと瞬いた記憶に、ぱっと目を見開く。よく鍛えられた身体にきっちりとしたその着方は、あまり似合っていなかった。

「探偵だ」

腕を組んでこちらを見下ろす姿に、スレッタは一瞬まばたきをしてから、やや迷った末に、こてりと首をかしげる。

「……じょしゅのおうちが探偵事務所なんです?」

「ああ」

「普通逆なのでは?」

「言うな。俺は自由に使える金が少ない」

「俺に感謝しろよ」

「……ありがとうございます」

「うわ素直!」

けらけらと笑ってグエルの脇腹を小突くエランに、グエルがやや苦い顔をしながらも頭を下げる。そのまま再び珈琲に手を伸ばしたグエルを横に、エランがとくとくと解説しはじめた。曰くグエルは警視総監の子であり、幼いころから警察署の仕事を見て育ち、将来は父のあとを継ぐことが決定づけられている。仮にも帝都の秩序の最高権力者が世襲で決まるのはどうなのだろうと一瞬思ったが、まあそういうものなのだろうと理解することにした。今は学校に通っているが、それとは別に「さがしているもの」があるため、こうして学生業の傍ら、探偵の真似事をやっているのだとか。ちなみに一般的な私立探偵と比較し、異様なまでに大事件に巻き込まれがち__というところまで話したところで、スレッタがこてりと首をかしげる。

出生上あまり頭の良い方ではない、と思うが、それでも少し、引っかかるところがあった。

「それで俺が持ってた家の二階を、こうして事務所として格安で貸し出してるってわけだ」

「えっと」

「ちなみにこいつは弟を__」

「その……なんで、エランさん……が、何故グエルさんに協力するのか、わからなくて」

スレッタが言葉を遮ると、エランがやや眉間に皺を寄せた。不快というよりは、ややこちらを警戒するような。というには、少し面白がってもいるような。見た目ばかりは儚げな青年が、なんてことないとばかりにソファに戻って、どかりと腰かけ、脚を組んだ。視線だけはずっとスレッタの方に向けられていた。

「何って、ンなのお客様だからに決まってるだろ」

「そ、それにしては、『格安』でやる意味も……そもそもグエルさんの『助手』になる意味も、わかりません。そもそもエランさんは、何者なんですか?」

「……」

エランが閉口する。グエルは「やはり敏いな」と頬杖をついた。やはり? と再び首をかしげるが、それより先にエランが「さて」と遮って話を変えた。彼は壁時計に目をやると、ぱんぱんと手をたたき、部屋に唯一あった扉に向かって歩き出す。立ったり座ったり忙しいひとだなあ、なんておもいながら、スレッタは無意識に、それを目で追う。

「探偵ってからには、俺らには依頼があった。お前を助け出してくれってな」

つうわけでミオリネ、いつまでも壁の外で聞き耳立ててないで、さっさとこっちに来な。

扉が開く。

スレッタは目を見開いた。入ってきたのは、銀色の髪に淡く血の色が透けた瞳、見たことないほどきれいな少女だった。彼女はエランをちらと見て、少しだけ目を細める。睨んでいるようにも、単純にアイキャッチをしているだけにも見えた。その視線の意味を考える前に、彼女はグエルの横に、というよりスレッタの対面に腰かけた。そうしてややうつむき、スレッタとは目をあわせずにこう続けた。

「ミオリネ・レンブラン。グエルやエランたちの、まあ友人みたいなものだと思って」

「み、ミオリネさん……?」

「それで、まあ。とりあえず、無事でよかった」

ぽつん、とひとりごちるような、それでいて心の底から安堵するような声色に、スレッタはやや、首をかしげる。

自分のいた組織を客観的に見たことはないから規模なんてよく知らないけれど、エランの物言いで「秘密」なんてついていた以上、スレッタが信じていた神はあまり知られていないものだったのではないか。それはそうだ、生きた人間を捧げるだなんて、倫理的によくないだろうし。だのにわざわざ、おそらくは「スレッタの救出」を探偵社に依頼した。それでいてスレッタの無事を喜んだ。

「あの……私たち、どこかであったこと、ありましたっけ」

考えるほどに違和感が湧いてきて、スレッタは混乱する。はじめてであったはずの目の前の少女に、まるで夢の中か何かであったことがあるような、奇妙な既視感がある。というかそもそも、どうしてスレッタはうまれたときからずっといっしょで、親代わりにすらおもっていたあの組織について、「どう考えてもアウトだ」なんて思えた? 誰もその前提となる知識は教えてくれなかったのに。神さまに捧げられるのは名誉なことで、死ぬことは怖くないと何度も言われてきたのに。

人を殺すのはよくないと、誰が教えてくれたのだっけ?

ぱくぱくとくちを開閉していると、対面の少女__ミオリネが顔をあげて、ぱちぱちと瞬きをした。彼女はしばし考え事をするように口許に手をあて、爪先をこつこつと鳴らした後、なんてことないような表情で「気のせいじゃないの」と感情の読めない声で言い放った。

「あるわけない」

「え、でも、じゃあ、なんで」

「初対面よ。あんたを助けたのは、例の教団を潰すため」

「つぶ、……」

ミオリネはグエルの方を見る。グエルはこくりとうなずいて、どこからか分厚い革張りの、よくお祈りの時に取沙汰されていた「教典」に似たものを取り出した。どうやら中は教典のように膠で貼り付けられているわけではなく、留め具でいくつもの紙を押さえているようである。それをぺらぺらと数枚めくって、何やら地図に赤いマルがいくつかつけられた頁をひらいてみせた。

「長々とやるのも面倒だ、簡潔にまとめよう」

ひとつ、ふたつ、みっつ。数えられる限りでいつつはあるだろうか。それを数えて、スレッタは顔をあげる。グエルはスレッタの方を真っ直ぐに見つめて、低く、こう言った。

「ここ一か月、連続して猟奇殺人事件が起きている」


それが最初に現れたのは、ちょうど昨日と同じような、月のない晩だった。

都を縦横無尽に走る川のほとり。麗しき音と光に溢れる、欲望と悪の渦巻く遊郭。不幸にして第一発見者となった男は、そのなじみの客だった。その花魁と客は、歌も舞も花街一と呼ばれ、所謂高嶺の花というやつであり、どれだけ金を積んだとておいそれと会えぬ身分であるはずが、どういうわけかこのふたり、やたらと馬があうようで、見世が開いていないときなおも時たま茶を挽きながら話したという。余談であるが、客の男が書いている恋愛小説、そのモデルがこの花魁なのではないか、とまことしやかにささやかれているとか__

はてさてその晩もこの男は、手土産を携えて歓楽街にやってきた。道を曲がり路地をいき、花の待つ見世へ。客を誘うようにぼんやりゆれる、まるい提灯のあかりだけが視界のたよりだった。ともすれば誰かに手をひかれ、裏路地に連れ込まれそうなほどにのんびりと。誰もそれをしないのは、昔それをしようとした人物が、見事なまでにかえりうちになったからだった。その見た目でフィジカルが強いのは嘘じゃん。たんこぶをつくった暴漢はのちにそう語ったという。

ふいに男が川べりに、動くものをとらえた。

とらえた、とおもって、反射的にそちらにからだをうごかした。

と。

白い顔だった。

しろい、しろい顔だ。それはおしろいの、化粧の白さ。暗がりにうかんだそれに、一瞬男はあとずさった。あとずさると同時に、何かが男の脚をからめて、男はすこしつまずいた。つまずいて、地面に手をついた。なにかを、つかんだ。

男の右手に、赤い髪が絡みついていた。

それは上等な着物を着て、ぷかりと川の水に浮いていた。真白い手足はだらりと投げ出されていて、きっとかちりと結い上げていたであろう艶のある髪は、変色した血に濡れて、闇よりもきれいに広がっていた。

件の店の遊女、そのうちのひとりの、遺骸であった。

駆けつけた警邏は遺体を見て驚いた。心臓が、ないのだ。それだけがきれいに抜き取られていたのである。他の臓器はずたずたになっていても、のこされていたというのに。それだけが、意図的に。それが一番最初の出来事。

二番目に心臓を奪われたのはさる名家の令嬢。闊達な娘で、グエルにもよくアプローチをかけてきた少女は、まさにその舞踏会からの帰り道、忽として行方不明になった。グエルにすげなく振られて自棄になっていたらしい彼女は、従僕をつけることもなくひとりきりで馬車に乗って、胸の中をからっぽにして見つかった。三番目は名もなき百姓娘で、四番目は場末の見世物小屋の歌姫。この二人は同じ晩。そして五番目は、とある編集社に務める日雇いの女。

被害者の共通点は、十代後半の女性であること。比較的大柄であること。そして、

「長く癖のある、赤髪をしていたこと」

スレッタが思わず自分の髪をなでた。その特徴は、全てスレッタにも共通している。グエルは地図のうえ、赤いマルのある部分を、つう、と指先でつたった。

「全員死因が共通しているとなれば、模倣犯でもない限り、この一連の事件の犯人は同一人物であるとわかる。だがそれにしては、現場が離れすぎているんだ。ここまでの距離を移動できるはずがない、故に組織的な犯行であると疑った。それもなんらかの宗教に絡んだ」

「警察の方は確証がないから動けないしな、俺達が独自で動いてるってワケ。何より今あいつらは別のことで忙しいし」

エランはグエルに続いて、さっくりと補足する。心臓が抜き取られているということもそうだが、何より犯行現場の位置をつなげると、きれいに五芒星の形になるんだよ。あわててグエルの指の動きをたどると、なるほど確かに、正五角形の位置に赤丸がつけられている。付け加えるなら、あまり正確な位置は定かではないが、その真ん中には、スレッタたちがいた場所にして、信者たちから聖域と呼ばれていた場所__つまるところ教団の本拠地である、郊外の森がある。

「そうして色々探しているうちに、件の教団の存在にたどりついた。そしたらちょうどお前が生贄にされるとこって話だったから、何とかその前に助けられないかーって話してたら、アイツちょうど殺されかけてるとこで攫おうって」

「警備の面を考えて、彼女が一人になる時間を狙うのは当然です。儀式がどうなっているかわかりませんが、人形の中の死体を確かめるようなやつはいないでしょうし、仮にいたとしたら『自分たちの存在に勘付かれている』と警戒して動きづらくなるでしょう」

「誘拐犯の発言じゃねえか。てかだからってあんな堂々とやるか?」

「それはケレスさんが!」

「ストップ。スレッタが唖然としてる」

ミオリネが言うと、二人は口論をとめて、しぶしぶとばかりにスレッタに向き直った。しばらく沈黙がおちたのち、「そういうわけで、あんたの身柄は事件に決着がつくまで保護する」とミオリネが一方的に宣言し、部屋を出た。エランが肩をすくめて、ぎいぎいと嫌な音を立てながらしまった扉と、その向こうに消えていったであろうミオリネの後ろ姿を見る。

すまないな、あいつ。多分今気が立ってるだろうから。

目をまるくしたスレッタに、グエルがやや迷うような口調で告げた。それからぱたんとファイルを閉じて、すっかり冷めきったマグにくちをつける。

「教団を完全に潰すというのは難しいだろうが、少なくとも解体まではいきたいと思ってる。殺人の常習犯なんて、唾棄されて当然だ。それまでは窮屈だろうが、この屋敷にいてほしい。常駐している女給にいえば大抵のことは叶うだろうし、そうでなくてもだいたいミオリネが来てるだろうから」

「み、……ミオリネさんは、ああいってましたけど。やっぱり私たち、昔に出会ったことがあったような気が、する……んです」

「……諦め難いものだ、お前が無理をする必要はない。今はゆっくり休め、いろいろ立て続けに起きて疲れただろう」

グエルはそう言ったきり、黙りこくってしまった。ずっと立ったまま興味深げにこちらを俯瞰していたエランが、ふと口角を吊り上げて笑い、「暗い雰囲気になるのはやめようぜ」と言った。暗い雰囲気とかそれがよくないとかそういう次元の話なのだろうか。スレッタはかなり冷静にそう思ったが、そんなことおかまいなしに、エランはソファの背後から抱き込むようにしてグエルの肩を掴み、面白がるような口調で言った。

「第一発見者の男は現在行方知れずで、容疑者筆頭のコイツの弟君、そのなじみの花魁は今しがた俺と組んで事件を捜索し、遂には教団の存在を特定した立役者」

「へ?」

「ちょ、ケレスさッ……!?」

「ほ、ほんとの話……?」

「世界は狭いな」

「……えっ?」

「ケレスさん!!」

「えええええっ!?」

スレッタが素っ頓狂な悲鳴をあげた。

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