傭兵のアーチャー

傭兵のアーチャー


【クラス】アーチャー(配布☆4)

【真 名】佐竹源左衛門

【別 名】佐竹伊賀、佐武義昌、慶誓など

【肉体年齢】30半ば

Trinartによるイメージ画。本来なら左頬がヘアバンドで隠れている


【好きなもの】弓や鉄砲による射撃

【嫌いなもの】活発だった者が弱る様

【聖杯への願い】自分の名が忘れられないこと

【マスターへの態度】雇い主


【ステータス】筋力:C 耐久:A++ 敏捷:C 魔力:E 幸運:A+ 宝具:C+

【アペンド3】対バーサーカー攻撃適性

【コマンドカード】BBAAQ


【クラス別スキル】

対魔力:D+

魔術に対する抵抗力。D+ランクでは、一工程による魔術行使を無効化する。魔力避けのアミュレット程度の耐性。

日本の呪術関係に限り『対魔力』が若干ブーストする。

弱体耐性13%アップ


単独行動:A

マスター不在でも行動できる能力。

ただし宝具の使用などの膨大な魔力を必要とする場合はマスターのバックアップが必要。

クリティカル威力10%アップ


【プロフィール①】

身長/体重:191cm・102kg

出典:史実、『佐武伊賀働書』など

地域:日本

時代:安土桃山時代

属性:中立・中庸  副属性:人  

性別:男性

姓は「佐竹」であったが足利義昭凱旋の折に「武」の字を賜り「佐武」になったという。しかし『熊野那智大社文書』「佐竹伊賀申付状」での表記は「佐竹」である。


【プロフィール②】

安土桃山時代に強力な鉄炮集団として名を馳せた雑賀衆の土豪。若年期は同じく鉄炮集団として有名な根来寺衆にも属していた。

何かと自慢を挟む自信家であり、カラッとした傭兵気質の壮年。非常に名誉欲が強い一方雲行きが悪くなったら即撤退する潔さを兼ねている。

雑賀衆間の内紛や、今日の味方は明日の敵が常である根来寺の出入りを経験したためかドライな人間関係を好む。

サーヴァントとしての自分は第二の人生と捉え、生前の因縁などはあまり気にしない。


【プロフィール③】

十の鉄砲疵:A

源左衛門は何十年もの傭兵活動の中で少なくとも十三(うち十箇所が鉄砲によるもの)の傷を負い、袖と頬骨には鉛玉が残った──にもかかわらず晩年まで活発に活動し続けていた丈夫さを示す。

射撃系の攻撃に対して極めて高い耐性を持ち、即死級の攻撃を受けても一度は必ず耐える。

自身の防御力アップ(20%)+毒無効+即死耐性アップ(30%)(クラス別スキル扱い)


仕切り直し:B(CT:7〜5)

戦闘から離脱する能力。

また不利になった戦闘を戦闘開始ターン(1ターン目)に戻し、技の条件を初期値に戻す。

怪我をしたら撤退するし、戦況が悪くなったらさっさと去る。そんな潔さが彼を長生きさせたのだろう

自身の弱体解除+HPを回復(800〜2000)


無念無想(射撃):A(CT:7〜5)

佐竹伊賀は12歳の頃から鉄砲や弓を得意としている。

1570年の河内・大海の戦いの際は1400-1500人の大軍を24、5人程度の少人数で退けた。この際、彼は手下に火薬を詰めさせ、自分は狙撃に徹する「こみかえ」式を採り100の死傷者を出した。

ゲームシステム的には銃や弓を用いた攻撃に補正が掛かる。また扱ったことの無い遠距離武器でもすぐに使いこなすことができる


自身に必中を付与(3T)

&自身のNPをチャージ(10〜30%)

+自身の攻撃力アップ(3T/20%)

+味方全体〈中立かつ中庸〉全体のクリティカル威力アップ(3T/20%)


傭兵の心得:C+

行人及び傭兵としての活動で培った技術や判断力。低ランクの「軍略」「カリスマ」を兼ねている。

彼の場合は勝つことよりも生き延びることに特化している。また射撃系の攻撃に補正が入る


自身にターゲット集中を付与(1T)

&味方全体〈中立かつ中庸〉全体に回避付与(3回/3T)

&味方全体〈中立かつ中庸〉全体のArts性能アップ(3T/30%)

+味方全体〈中立かつ中庸〉全体のNP獲得量アップ(3T/30〜50%)


日高の公孫樹:C

豊臣秀吉による紀州征伐の際に消失した、本願寺日高別院の移転・復興に務めた功績と本人の信仰心が組み合わさったスキル。

本願寺日高別院は地元で「御坊さん」と呼び親しまれ、地名(御坊市)の由来となっている。

精神弱体に対して耐性を得る。

自身に混乱・恐怖・魅了無効を付与(クラス別スキル扱い)


【プロフィール④】

『風烈しく破り候(かぜはげしくやぶりそうろう)』

ランク:C+ 種別:対軍宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:100人

「報恩者徳の為やったら、此の身、此の弾は仏敵を射貫く雷となる。それ撃てっ、撃ち拉げっ! 『風烈しく破り候(かぜはげしくやぶりそうろう)』っっ!!」

「父義昌は元亀の比足利将軍義昭へ與力し武功を顕す義昭凱旋の時騎手の相円に扇を揚げるに風烈敷扇半分に破りしを将軍御感有て武の一字給り是より竹を武と改め」

(南紀徳川史刊行会編『南紀徳川史』第6冊,南紀徳川史刊行会,昭和6)

源左衛門が傭兵として積んできた武功が昇華したもの。自身及び中立中庸の味方に大幅な強化を齎す。

『南紀徳川史』「佐武源太夫」の家譜によれば、武功を以て将軍義昭より「武」の字を賜り、教如上人は彼を頼りに鷺森へ入寺。そして本人も「佐武伊賀働書」という一書に己の武功を連ねている。時に傭兵隊長として、時に敬虔な門徒として不惜身命に戦う男は吉良氏、本願寺、新宮堀内氏など多くの者に頼られた。

味方全体〈中立かつ中庸〉全体に強化解除無効状態を付与(OC:1~5回/5T)

&味方全体〈中立かつ中庸〉全体の「必中」を「無敵貫通」に変更(3T)

&味方全体〈中立かつ中庸〉(自身を除いた控えを含む)の数だけ味方全体〈中立かつ中庸〉全体の攻撃力アップ(1人につき10%/3T)

&敵全体にやや強力な攻撃


【プロフィール⑤】

1538年、雑賀庄中之島で鷺森の土豪佐竹允昌の次男として生まれた。本名は佐竹源左衛門。法名を慶誓という。


彼の功績は『南紀徳川史』に収録された「佐武伊賀働書」に詳しく載っている。この史料は一次史料が存在せず誤字や記憶違いによる誤った記述も含まれているが一部の研究者からは根来寺や雑賀衆に関する記録を残した貴重な史料として注目される。


12歳の頃から弓や鉄砲を得意とし、後に武者修行のため根来寺に入山し複数の出入りを経験した。還俗後は雑賀衆として各地を転戦し、元亀元年に勃発した大坂本願寺合戦では門徒として本願寺に献身した。秀吉による紀州征伐後は浅野幸長などに仕え、後に長男甚右ヱ門とともに広島へ移住。その後は一度は紀州に戻ってきたのか元和年間、中之島の真田堀河における最初の架橋に出資。これが今の教仙橋という。享年不明だが82歳まで生きていることが確認できる。


【プロフィール⑥】

〇鈴木孫一/重秀について

雑賀五組の一つ十ヵ郷の有力者の一人、雑賀鈴木氏五代目鈴木孫一こと鈴木重秀は佐竹伊賀のよき戦友の一人であった。

特に『佐武伊賀働書』のうち1557年に和佐と岩橋間で起きた荒地の出入りでは孫一に対し「比類なき働きを見せた」と称賛する一方、自分の介入が彼を援けたと自慢気に語っている。筑前守こと豊臣秀吉が小雑賀の城を攻撃した際は和睦後人質となった孫一の息子を送り出した。


佐竹伊賀は強く賢い孫一を好いていた──しかし大坂本願寺合戦の後、孫一が信長に接近し反信長派で佐竹伊賀の遠縁だった土橋若太夫を切腹させた(なお本願寺から孫一を諫める手紙が出ていたが彼はこれを二度無視した)。この行為は「大いなる共和国」雑賀衆崩壊の一因となり、信長という後ろ盾を得た孫一も本能寺の変を機に失脚。雑賀から姿を消してしまった。


佐竹伊賀は「惣国として自由を捨て強者に阿る」という彼の方針を否定できなかった。その一方で本願寺を軽んじ、恩のある身内を殺したことへの不満もあり──孫一への複雑な感情はずっと佐竹を苛んでいた。


【口調】

一人称は「わい」

二人称は「おまん(お前ん)」

三人称は「てきゃ」

筆者が拙いせいで似非関西弁になっているが、設定上の口調は紀州(紀北)弁。

恥ずかしながら恋する方言変換を使用

https://www.8toch.net/translate/?lang=wk


【マイルームセリフ】

https://writening.net/page?FPWxXv

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